2011年6月28日火曜日

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 7月 1日
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの心、親知らず】

●「うちに帰って相談して決めます」

 幼稚園でいうと、今、「入れて(=入園させて)もらえますか?」と聞いてくる親は、ま
ずいない。
生徒、様々。
「入れる」という前提で、見学に来たりする。
で、幼稚園側も、そうした親や子にていねいに対処する。
今では給食を提供するのも、当たり前。
手のあいている教師に、マンツーマンでガイドさせることもある。

 が、親の方はどうかというと、帰りがけに、こう言う。
「入園するかどうか、うちへ帰って相談してから決めます」と。
中には、「明日、もう一度、見学させてください」と言う親もいるという。

 親にしてみれば、何げない一言かもしれないが、この一言が、グサリと園側の園長や教
師の心を刺す。
ある教師(教師歴20年以上)は、こう言った。
「いくら慣れたとはいえ、この言葉だけには、慣れることができません」と。

●自動販売機

 こうした傾向は、私の教室でもある。
あるいはもっと、ひどい(?)。
お金さえ払えば、だれでも入れると思っている。
立場が「塾」だから、それはしかたない。
以前は、「自動販売機」と揶揄(やゆ)された。
いちいちそんなことで傷ついていたら、この仕事はできない。
慣れたわけではないが、その瞬間、その親や子どものことは忘れる。
私のばあい、「縁があったら、またおいでください」というような言い方をして、別れる。

 そう、この世界は、「縁」で始まり、「縁」で終わる。

 小さな種かもしれないが、それを蒔いておけば、いつか芽が出る。
そう思って、別れる。

 が、反対に、こういうこともある。
ときどき何かの問題をもった子どもがやってくる。
若いときは、そういう子どもでも引き受けた。
が、50歳を過ぎるころから、それができなくなった。
体力的な限界を覚えるようになった。
で、それとなく断ることもある。
が、その断り方がむずかしい。
いくらていねいな言い方をしても、たいていの親は、店で販売拒否にでもあったかのよう
に激怒する。
「どうして、うちの子は入れてもらえないのですかア!」と。

 一度だけだが昔、こう言われたこともある。
「お高くとまって、あなたは何様のつもりですか!」と。

●「メイリークリスモース」

 親といっても、若い女性の世界。
若い女性がみな、そうだというのではない。
しかし中には、テレビのバラエティ番組からそのまま出てきたような若い女性もいる。
モンスターママというよりは、プチ・モンスターママ。
電話のかけ方どころか、話し方までおかしい(失礼!)。

「オタクウ(お宅は)、ヤウジウ(幼児)キャオウシツウ(教室)?」と。
口をほとんど閉じたまま、鼻から音を出して話す。
たとえば「メリークリスマス」を、「メイリークリスモース」というような言い方をする。
都会(東京)などで、接客業をしている女性に、そういう話し方をする人が多い。
この浜松市でも、ふえてきた。

 そういう女性のばあい、私は電話の問い合わせの段階で、入会を断ることにしている。
一事が万事。
万事が一事。
母親がそういう話し方をしていて、どうして子どもにまともな国語力が育つというのか。

●ジー様

 ……とはいえ、私の仕事もいよいよ秒読み段階に入ってきた。
よく「あと何年、この仕事ができるだろうか」と考える。
若い母親たちからみると、私はとんでもないほど遠くにいるジー様に見えるはず。
私も若いとき、そう思っていた。
30代のころは、50歳の人でも、ひどくジー様に見えた。
そのジー様。
こと幼児教育の世界では、ジー様はお呼びではない。
子どもも小さいが、親も若い。
それがよくわかっているから、否応なしに、私は謙虚になる。
……ならざるをえない。
「来てもらえるだけも、ありがたい」と。

 で、残り2年か、それとも3年か?
ワイフはいつもこう言っている。
「できるところまでしましょうよ」と。

●「あんなヤツ、早く死ねばいい」

 ……と書くと、私の愚痴で終わってしまう。
で、ここから先は、育児論。

 こうしたケースで注意しなければならないのは、親たちは、子どもの心をどれだけ大切
にしているかということ。
「うちの子は、まだ判断力がないから」という理由だけで、親側がすべてを決めてしまう
ケースが目立つ。
あるいは「うちの子のことは、私がいちばんよく知っている」と思い込んでいる親も多い。
幼稚園やおけいこ塾のみならず、学校や進路、進学についても、である。

 教師というのは、当然のことながら、親と子どもの(間)に立つ。
だから双方の気持ちや考え方がよくわかる。
が、こんなケース。

 親は、(母親であることが多いが)、「私は子ども思いのいい母親」と思い込んでいる。
子どもの生活のあらゆる場面に介入してきては、親が一方的にすべてを決めてしまう。
「今度からあの塾へ行きなさい」
「来週からは、A塾をやめ、B塾へ移りなさい」など。

 で、そういう親に対して、子どもの側が、それなりに感謝しているかというと、それは
ない。
ある男児(小6)は、口癖のように、いつもこう言っていた。
「あんなヤツ、早く死ねばいい」と。
ふつうの言い方ではない。
顔を引きつらせ、体をこわばらせて、そう言った。
「あんなヤツ」というのは、彼の母親をいう。

 が、こんなケースもある。

●成績は最下位

 S君はそのとき中学1年生だった。
進学校にはいたが、成績はいつも最下位。
1学年2クラスしかない小さな中学校だった。
S君は、悪い意味で、目立った。

 が、母親はプライドが高く、メンツを重んじた。
で、S君を、半ば強制的に転校させようとした。
隣の町に、全寮制の中高一貫校があった。
そこへ転校させようとした。
理由は、「今の学校は、うちの息子には合っていない」だった。

 で、手続きがほぼ完了したところで、S君が反撃に出た。
「ぼくは転校しない!」と。
そのあと、私に母親から相談があった。
「どうしたらいいか?」と。

 私はS君と一対一で、話した。
その中で、S君は、こう言った。
「今の学校のままでいい」と。

私「今の学校に入ったことを、後悔していないか?」
S「していない」
私「どうしてお母さんが、君を転校させようとしているか、君は知っているか」
S「知っている。ぼくが、バカだから……」
私「君は、バカではないよ」
S「でも、お母さんは、そう言っている」

私「学校はそれで、楽しいか」
S「楽しいよ。友だちもたくさんいる」
私「みんなに、いじめられないか」
S「いないよ。ぼくは人気者なんだ」
私「そうだろうな。君はユーモアのセンスもいいし……」と。
 
●悪玉親意識

 結局、S君は中学3年生までその学校に籍を置き、そのあと市内の公立高校へと進学し
ていった。
……というようなケースは、多い。
本当に多い。
親意識だけが、(親意識といっても、悪玉親意識だが)、やたらと強い。
子どもの気持ちを確かめることもなく、子どもの(すべて)を親が決めてしまう。
結果、親子の心は、バラバラ。

 が、こうなると断絶は、時間の問題。
というより、すでに断絶状態。
それに気づかぬのは、親ばかり……といった状態になる。

 では、どうしたらよいか?

 簡単に言えば、そのつど子どもの気持ちを確かめる。
その一言に尽きる。
が、こうした関係は、簡単には是正されない。
それがその親の、子育てのリズムになっているから。
しかもそのリズムは、恐らく、子どもを妊娠したときから始まっている。
つまり根が深い。

悪玉親意識が強い。
権威主義者。
家父長意識も強い。

 こうした子育て観が、しっかりとできあがってしまっているため、それを直すのは、簡
単ではない。
簡単ではない……というより、ほぼ不可能。
親自身が行き着くところまで行き、それを「失敗だった!」と認めて、はじめてわかるこ
と。

 が、方法がないわけではない。
たとえばこうした私のエッセーを読むのも、そのひとつ。
読んで、自分の姿を客観的に知る。
(そのために、私は今、こうしてそれを書いている。)

 繰り返しになるが、私の長い経験から、これだけははっきりと言える。
「うちの子のことは、私という親がいちばんよく知っている」と思っている親ほど、失敗
しやすい。
その実、自分の子どものことなど、まるで知らない。

 ということで、幼稚園やおけいこ塾を選ぶときも、子どもの心を大切にする。
そういう習慣をそのころから、身につける。
その第一が、「謙虚さ」ということになる。

 「この幼稚園へ(おけいこ塾へ)、入れていただけますか」と聞く親は、それだけ子ども
に対しても謙虚ということになる。
その謙虚さを、忘れてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 謙虚 悪玉親意識 親風 子どもの心、親知らず 断絶の始まり)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【国民の不信感、目下、増大中!】

●風邪が抜けた!

 この数日間、体がだるくてしかたなかった。
全体に熱っぽいというか、いつもホカホカ、フワフワした状態だった。
が、体温計で体温を測定しても、36・5度前後。
私は低体温症だから、私にしては、いつもより高温。
ふだんは36度以下。
「風邪薬をのむまでもないな……」と思いつつ、数日間が過ぎた。

 が、今朝(6月15日)は、それがない。
気分はさわやか。
スッキリ。
やっと風邪が抜けた。
みなさん、おはようございます!

●集団ヒステリー

 「当然、あれだけ大きなアクシデントがあったわけですから、集団ヒステリー状態にな
る……分かります、それは。心情としては」(TBS NEWSーi)と。
自民党・石原伸晃幹事長は、そう語った。

 集団ヒステリー?

 私は逆のことを考えていた。
むしろこの(静けさ)こそが、信じられなかった。
「もの言わぬ従順な民、ここに極まれり」と。

 欧米では、日本の原発事故に触発され、各地で原発反対の運動が燃えさかっている。
が、肝心のこの日本では、みなさん、ご存知の通り。
静か。
静かすぎる。
集団ヒステリーが起きて当然。
その当然の国が、かくも、静か?

 石原氏ものんきな人だ。
このたび筑波大学が中心となって、「放射能による土壌汚染地図」が公表された。
それによれば、福島第一原発から200キロも離れた、千葉県の取手市や流山市などで、
1平方メートル4万ベクレル、通常の400倍もの放射線が観測されている。
千葉県から東京まで50キロ。
放射能汚染の世界では、50キロなど、誤差の範囲。
ことの深刻さが、まるでわかっていない。

●1平方メートル当たり、4万ベクレル?

 チェルノブイリ原発事故のときは、遠く離れたスウェーデンにまで、大きな影響を与え
た。
そのスウェーデンは、かなり詳しい汚染地図を公表している。
ちなみにチェルノブイリからストックホルムまでは、約1200キロ。
この距離は、福島第一原発から、鹿児島までの距離に等しい。

 それを見ても、つまり汚染地図を見ても、汚染は、同心円状に汚染されるのではなく、
スポット的に汚染されているのがわかる(「原発事故」宝島社)。
たとえて言うなら、ミサイルに攻撃されたかのように、あちこちが虫食い的に汚染されて
いる。
遠いから安全……というのは、こと原発事故には当てはまらない。
ヨーロッパ全体でみれば、がん患者は、80万人単位でふえていると推定されている(京
都大学・今中氏)。

 が、福島第一原発から東京までは、たったの200キロ!
集団ヒステリーどころか、集団暴動が起きても何らおかしくない。
その東京に住む石原氏が、「集団ヒステリー」とは?

 もちろんチェルノブイリと福島第一原発とでは、原子炉の形そのものがちがう。
「だからチェルノブイリのときのような爆発は起きません」と説く学者もいる。
しかしその一方で、福島第一原発のほうは、発電量でみるかぎり、チェルノブイリの4~
5倍以上もの規模があることを忘れてはいけない。
(チェルノブイリでは、4号炉のみ、出力100万キロワットが爆発した。)

 今後のことは、だれにもわからない。
しかしこんな事実もある。

 チェルノブイリでは、事故から3年たってから、やっと詳細な汚染地図が公表された。
その結果、原発事故現場から、300キロも離れたところまで高汚染地域が広がっている
ことがわかった。
その結果、チェルノブイリから200~300キロ離れた、ベラルーシ共和国でさえ、1
1万人の人々が強制的に移住させられた。

 3年もたってからだぞ!
200~300キロも離れていても、だぞ!

 さて本題。
簡単な算数。

 1平方メートル当たり、4万ベクレルは、1キロ平方メートルにすると、何ベクレルに
なるか。

 4万x1000x1000=40000000000ベクレル=400億ベクレル!

 しかしこんな数字を見ても、ピンとこない。
が、こういう言い方をすれば、深刻さがもう少し理解できるのでは?

●X線撮影室

 1キューリー=約3万7000ベクレルで計算する。
それでみると、4万ベクレルは、約1キューリー強に相当する。
この値は、X線撮影室の放射線量に等しい。
つまり千葉県の取手市や流山市の人たちは、日常的に、X線撮影室の中にいるのと同じ放
射線を受けていることになる。
 
 いわく「1キューリー以上の地帯には、かならずそのドアの前には、黄色の警告マーク
が描かれ、『関係者以外、立ち入り禁ず』と書かれています。
京大原子炉実験所の性質上、僕もその中に入ることがあるが、その際かならず放射線測定
器を身につける。
仕事が終われば、さっさと出る。
中に入ったが最後、水も飲めない。
もちろんそんな場所に子どもを連れて入ってはいけないし、子どもを産んではいけない。
妊娠の可能性のある女性は、医者の相談なしに入ってはいけない。
ましてやそこで人々は生活してはいけない。
1キューリー以上の汚染域というのは、そういうイエローゾーンのことなんです」(「原発
事故」)と。

●さらにおかしな論理

 静岡県のお茶から、規制値以上の放射線が観測された。
これに対して、静岡県の川勝平太知事は、こう言った。

「(飲用茶について)それぞれ1キロ当たり、5・8~7・3ベクレルと、飲用茶の規制値
(1キログラム当たり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調。……飲用茶は数
ベクレルで安心して飲んでほしい」(中日新聞・6・15)と。

 川勝知事は学者であったはず。
その川勝知事が、こういう「?」なことを堂々と言うところがおかしい。
言うまでもなく放射性物質は、ほかの薬物や毒物とちがい、一度体の中に取り込まれたら
最後、体の中でどんどんと蓄積されていく。
尿となって排出される分や、半減期を経て、半減して分もある。
しかし基本的には蓄積されていく。

そういうお茶を、20キロ(20リットル)飲んだら、どうなるのか?
40キロ飲んだら、どうなるのか?
お茶にも濃さがある。
逆にこんな論理がまかり通るなら、どんなに汚染されたお茶でも、お湯で薄めれば安全と
いうことになってしまう。
さらに「?」なことがある。

 先日の報道では、(原茶)→(製茶)にした段階で、放射線の濃度は5倍になる。
しかし飲用する段階では、(お湯で薄めるので)、8分の1になると言っていた。

 どうして規制値内(500ベクレル以下)の製茶が、お湯で薄めたら、「5・8~7・3
ベクレル」になるのか?
単純に計算すれば、83分の1になったことになる(500÷6・0で計算)。
何度も計算しなおしてみたが、やはり83分の1。

 念のため、新聞記事をそのまま紹介する。
私の書いていることを疑う人がいたら、自分で計算してみたらよい。

「……一方で、規制値(500ベクレル)を超えた2工場の製茶を、飲用茶として独自検
査したことを(川勝知事は)明かし、それぞれ5・8~7・3ベクレルと、飲用茶の規制
値(1キログラムあたり200ベクレル)を大幅に下回ったことを強調」と。

 つまり製茶の段階で、500ベクレルを超えていたお茶だったが、お湯で溶かしてみた
ら、6・0ベクレル前後になった。
だから、安全、と。

 こんなバカな、手品みたいなことが、どうして起こるのか?
さらに今回の検査では、重大な見落としがある。
こうある。

「放射性セシウムの検出量は、581~654ベクレルで……」と。

 わかるかな?
放射性物質といっても、その種類は、無数にある。
毒性がきわめて強いプルトニウム、ストロンチュームもそれに含まれる。
放射性ヨウ素もその1つだが、そのヨウ素にしても、134,132,135,133,
131などの種類がある。
調べたのは、たったの1種類。
放射性セシウムだけ。

 さらに県の報告が1日遅れたことについて、川勝知事は、こう居直っている。
「(遅れたことで、どういう)損害が出たのか言ってみてください」(中日新聞)と。

 こういうバカなことを平気で言うところが恐ろしい。
あのね、損害は、これから出るの!
1日遅れれば、その分だけ、工場からの出荷が野放しになるの。
正確な数字はわからないが、仮に1日、1トンの出荷量のある工場だったら、その1トン
が、市中に出回ることになるの!
それを日本人が、飲むことになるの!

●やがて否応なしに……

 東京に住む石原氏にしても、静岡市に住む川勝氏にしても、やがて否応なしにその事実
を突きつけられる日がやってくる。
私はけっしてそれを望む者ではないが、しかしこんなごまかしは、いつまでもつづかない。
やがて東京都全体に避難勧告が発布されるようになるかもしれない。
静岡県茶が全面、出荷禁止になるかもしれない。
だったら今は、「?」なコメントは控え、事実の収集だけに心がけるべきではないのか。
が、現実は、逆行している。
同じ中日新聞には、こうある。

「(すでに)一番茶の出荷を終えた工場も多いことから、地区内にある約100工場すべて
を検査する当初の方針を変更し、今後は要望のある工場のみを検査する」と。

 「今後は、要望のある工場のみを検査する」と。

 そうでなくても、静岡県茶については、農薬汚染が問題になっている。
ご存知の方も多いかと思うが、茶の産地にある、ため池、川からは、生物という生物が、
ほとんど姿を消した。
そういう事実を、隠しに隠しつづけている。
そういう地域で、「今後は、要望のある工場のみを検査する」?
どこの工場が、あえて「要望」など、するものか?
バカも休み休み言え。

 ……つまりこうして私たちの不信感は、募(つの)っていく。
庶民の代表として、本来なら庶民の側に立つべき人間が、企業側の利益の保護だけを考え
て発言する。
行動する。

 私の予想では、この日本は、このまま行き着くところまで行く。
またそこまで行かないと、気がつかない。
本来なら、ヒステリー状態ではなく、パニック状態になっていてもおかしくないのだが…
…。
2011/06/15記


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【舘山寺温泉・浜名湖かんざんじ荘にて】(2011年6月)

●今日は6月xx日、ワイフの誕生日

++++++++++++++++++

今日は、ワイフの誕生日。
仕事を早めに切り上げ、舘山寺温泉へ。
大草山頂上にある、「浜名湖かんざんじ荘」
へやってきた。
「常連」とまでは言わないが、よく利用
させてもらう。

ワイフと息子、それに私。
Happy B-Day, Akiko!

浜松市内では、一押しの簡易旅館。
いつ来ても、この旅館だけは、期待を裏切らない。
サービスも料理も安定している。
もし浜松へ来るようなことがあれば、
この旅館を推薦する。
最近、内装をリニューアルしたよう。
清潔!
(もともとは国民宿舎ということもあり、
作りは豪華だが、部屋はやや狭い。念のため。)

が、何といっても、展望風呂がすばらしい。
全面ガラス張りで、舘山寺温泉街が眼下に
一望できる。

料金も手ごろ。
3名一室のばあい、1人、8800円前後で泊まれる。
曜日によって料金が微妙に異なる。
ネットで調べてから予約を入れるとよい。
(当然のことだが・・・。)

電話は、053-487-0330。

+++++++++++++++++++

●Y温泉

 先週泊まった、Y温泉のS旅館は、最悪。
こういうよい旅館に泊まってみると、それがよくわかる。
カビ臭く、料理もまずかった。
デザートが、オレンジ一切というだけでも、料理の内容がわかろうというもの。

 「二度と来ない」と心に誓う。
が、幼稚園を選ぶときも、これは参考になる。
要するに幼稚園のよしあしは、園長のやる気。
それで決まる。

 が、先日、ある母親が私にこう言った。
「うちの幼稚園のY園長は、知育教育に反対だそうです」と。
それを聞いて、私は私の教室が攻撃されたように感じた。
だからこう思った。

「知育教育が何であるかもわかっていないのに」と。
そう思ったが、言わなかった。
その母親の子どもは、まだそのX幼稚園に通っている。

もう少しきびしい言い方をすると、「知育教育をするノウハウも知らない。
その能力もない。だからやみくもに反対する」となる。
ギルフォードという学者が知能因子論を唱えて、もう35年以上になる(注※)。
(私が知ったのが、35年ほど前のことだから、35年以上と書いた。)

 そのころから世界の科学者たちは、幼児の脳の発達を、懸命に研究し始めた。
知能教育の重要性も認識され始めている。
「臨界期」という言葉も、常識化している。
にもかかわらず、「反対」とは!
「賛成しない」という意見はわかる。
しかしあえて「反対」すべきようなことではない。
子どもが親に、「漢字を教えて」とくれば、いくらでも教えてよい。

 「反対」というのは、要するに、やる気なしという意味。

●臨界期

 臨界期という言葉を使ったので、少し説明しておく。

 幼児は、それぞれの発達段階において、やっておくべきことがある。
その時期を逃すと、健全な心身の発達そのものが、障害を受けることがある。
その時期を、「臨界期」という。
よい例が、野生児。
(しかしインドで発見された野生児については、最近の研究では、疑問視されている。
もともと精神に障害をもった子どもが、野生に捨てられたという説である。
詳しくは後述。)

 その一方で、たとえば音楽教育などは、かなり早い時期に臨界期が来ると言われている。
それについて書いた原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●特別な時期(臨界期)

 哺乳動物の神経細胞は、外界からの刺激で大きく、機能を変える。
最近このことが、最近あちこちでよく話題になる。
たとえば人間にも、鳥類に似た、「刷り込み(インプリンティング)」があることがわかっ
ている。
そのためこの時期に、とくに母子関係において、濃密な人間関係ができる。
が、その一方で、一部の神経細胞への刺激を遮断したりすると、その神経細胞は機能しな
くなるとも言われている(注※)。
まさか人について、人体実験をするわけにはいかないので、あくまでも動物実験での話と
いうことだが・・・。

 たとえば生後直後のマウスの片目を、何らかの方法で塞(ふさ)いでしまったとする。
するとその目は、やがて見るという機能を失ってしまう。
そればりか、ある一定の時期を過ぎると、今度は、その塞いでいたものを取り除いても、
目の機能は回復しない。
視力は失ったままとなる。

 さらにこんな事実もある。
「野生児」と呼ばれる子どもたちが、今でも、ときどき発見される。
何らかの理由で、生後まもなくから人間のそばを離れ、野生の動物に育てられた子どもで
ある。
インドのオオカミ姉妹(少女)が有名である。

 オオカミ姉妹のばあいも、そのあと手厚い保護、教育を受けたのだが、人間らしい(心)
を取り戻すとはできなかったという。
つまり脳のその部分の機能が、停止してしまったということになる。
「停止した」というよりは、「退化してしまった」ということか。

 そういう意味で、「臨界期」には、特別な意味がある。
またそれだけにこの時期の子どもの教育には、重大な関心が払わなければならない。
近年話題になっている、乳幼児~1歳前後までの早期教育の科学的根拠も、ここにある。

 ほかにも乳幼児には記憶がないというのは、とんでもない誤解。
この時期、子どもは周囲の情報を、まさに怒濤のごとく記憶として脳の中に刻み込んでい
る(ワシントン大学・メルツォフ教授ら)。

●ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)

 さらに最近の研究では、あの乳幼児のほうからも、親に働きかけをしていることまでわ
かってきた。
つまり自らを(かわいく)見せ、親の関心を引こうとする。
乳幼児が見せる、あの「エンゼル・スマイル」も、そのひとつと言われている。
潜在意識、もしくは本能の奥深くでなされる行為のため、もちろん乳幼児がそれを意識的
にしているわけではない。
一方、親は親で、そういう乳幼児の姿を見て、いたたまれない気持ちに襲われる。
「かわいい」という感情は、まさにそういう相互作用によって生まれる。
こうした相互の働きかけを「相互愛着(アタッチメント・mutual attachment)」という。

●さらに一歩進んで・・・

 臨界期の存在は、近年になってつぎつぎと発見されてきた。
今では、それを疑う人はいない。
常識と考えてよい。

 が、さらに研究は、一歩、進んだ。
「毎日・JP」は、つぎのように伝える。

『・・・生後直後の特別な時期「臨界期」の後でも、機能変化を起こすことを理化学研究
所の津本忠治チームリーダー(神経科学)らが発見した。脳の成長の仕組みを見直す成果
で、人間の早期教育論にも影響しそうだ。米科学誌「ジャーナル・オブ・ニューロサイエ
ンス」で27日発表した』(2010年1月)と。

 もう少し詳しく読んでみよう。

『・・・ チームは臨界期中と臨界期後のマウスで目隠し実験をし、大脳皮質の視覚野で、
ものの細部を見る役目を担う「興奮性細胞」と、輪郭をとらえる「抑制性細胞」の活動を
個別に計測した。結果、臨界期中マウスは両細胞とも、ふさいだ目側の反応が落ちた。臨
界期後のマウスは興奮性細胞は変化しなかったが、抑制性細胞は臨界期中マウスと同様に
反応が落ちた。抑制性細胞は臨界期後も機能が変わる証拠という。

 津本チームリーダーは「大脳は臨界期後も一定の発達が可能ということを示せた。マウ
スの視覚野での実験だが、人間を含む他の動物や脳のほかの機能でも同様の仕組みがある
のではないか。臨界期を人間の早期教育の根拠とする意見もあるが、それを考え直す契機
にもなるだろう」としている』と。

 つまり臨界期に機能を失った脳の神経細胞でも、何らかの訓練をすれば(?)、機能を回
復することもあるという。
「海馬などの一部の神経細胞以外は、再生されることはない」という定説をひっくり返す
研究として、注目される。

●補記

 ただし神経細胞の再生を、そのまま喜んではいけない。
それでよいというわけではない。
もし脳の神経細胞が、ほかの細胞と同じように、死滅→再生を繰り返していたら、人間は
性格、性質、人格など、こと「精神」に関する部分で、一貫性を失うことになる。
「10年前の私と、今の私は別人」ということになったら、社会生活そのものが混乱する。
従来の定説によれば、一度できた神経細胞は、死滅する一方で、再生しない。
だからこそ、私たちは、子ども時代の性格や性質、さらにはクセまで、おとなになってか
らも残すことができる。
20年前、30年前の知人とでも、安心して会話を交わすことができる。

 この論文でいう「再生」というのは、あくまでもごく限られた範囲での、しかも何らか
の治療を目的とした「再生」と考えるべきである。

 さらに一歩進んでいえば、脳は硬い頭蓋骨に包まれている。
つまり脳ミソが入る容量には限界がある。
神経細胞だけを、どんどんとふやすということは、物理的にも不可能である。

(注※)

『思考など高度な機能を担う脳の「大脳新皮質」で、成体でも神経細胞が新たに作られる
ことを、藤田保健衛生大、京都大、東京農工大などの研究チームがラットで見つけた。成
熟した個体では脳の神経細胞が増えることはないと長い間信じられ、論争が続いていた。
米科学誌「ネイチャー・ニューロサイエンス」(電子版)に27日、掲載された。

 近年、記憶に関連する海馬や嗅(きゅう)覚(かく)をつかさどる部位で神経細胞の新
生が確かめられたが、哺乳(ほにゅう)類などの高等動物ほど発達している大脳新皮質に
ついては明確な報告がなかった。

 藤田保健衛生大の大平耕司助教(神経科学)らは、人間の30~40歳にあたる生後6
カ月のラットの大脳新皮質で、一番外側の第1層に、分裂能力を示すたんぱく質が発現し
た細胞を見つけた。頸(けい)動脈を圧迫して脳への血流を一時的に少なくしたところ、
この細胞が約1・5倍に増え、新しい細胞ができた。

 新しい細胞は、形状から神経細胞と確認。第1層から最深部の第6層まで7~10日か
けて移動する様子が観察できた。このラットを新しい環境に置いて活動させたところ、新
しい細胞が活発に働いていることも確かめた。

 これらのことから、成体ラットの大脳新皮質には、やがて神経細胞になる「前駆細胞」
が存在し、神経細胞が危機にさらされると神経細胞が生み出されて働くと結論付けた。チ
ームは、ヒトでも同様の仕組みがあると推測している。

 神経細胞は興奮性と抑制性の両方がバランスよく働いているが、この新しい神経細胞は
抑制性だった。大平助教は「薬などで前駆細胞の働きを制御して抑制性の神経細胞を作り
出すことで、興奮性の神経細胞が過剰に働くてんかんや、一部の統合失調症の新たな治療
法が見つかるかもしれない」と話す』(以上、毎日・JPより)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 神経細胞 臨界期 はやし浩司 臨界期 乳幼児 乳幼児の記憶 刷
り込み 神経細胞の再生 臨界期の重要性 早期教育 科学的根拠)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●先取り教育

 平たく言えば、(1)知能教育と、(2)早期教育と、(3)先取り教育はちがうというこ
と。
多くの人は、先取り教育をもって、知能教育と誤解している。
早期教育でもよい。
たとえば幼児に掛け算の九九を暗記させるのは、先取り教育ということになる。
意味のない教育である。

 ついでながら、オオカミ少女(野生児)についての疑問について書いた原稿を添付する。

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●野生児(タマラとアマラ)

 ひとつの情報に出会い、つぎに同じような情報に出会うのは、
こちら側が求めてそうするばあいをのぞき、めったにない。
たとえば最近、私はタマラとアマラに関する文献を目にすることが
できた。
偶然だった。
もしその偶然がなかったら、私は自分がもつ知識を修正することは
なかっただろう。

俗に言う、『オオカミ少女』と呼ばれる2人の少女である。
そののち、心理学の本でもたびたび取りあげられている。
「野生児」という言葉も、そこから生まれた。

要点をまとめると、こうだ(「オオカミ少女はいなかった」鈴木光太郎
(新曜社))。

(1) オオカミの乳は、人間には飲めない。……だから少女たちがオオカミの
乳で育つはずがない。
(2) オオカミは、人間の子どもを連れ歩くのは不可能……オオカミはどうやって
赤子を運んだのか。
(3) ウィリアム・オグバーンというアメリカの社会学者が、
1951年に現地に入った。
が、オオカミ姉妹が発見されたという「ゴダムリ」という村は存在しなかった。
(4) 現地に新聞が残っていて、「少女たちが見つかったのは、トラの
穴」と記述されていた。
(5) 少女たちを発見したのは、シング牧師ではなく、サンタル族の住民
だった。
(6) 写真を詳しく調べてみたが、推定年齢(カマラは8歳半、アマラは
1歳半)が合わない。

 私はたびたびオオカミ姉妹(少女)について書いてきた。
この本だけで、すべてを否定するものではないが、しかし大きな疑念が
生まれたのは事実。
さらにその本は、シング牧師夫妻が寄付金集めのためにしくんだ作り話の
可能性があると説く。
実際、現在の今でも、欧米ではこの手の詐欺が後を絶たない。
(ついでに書き添えると、欧米では、孤児院経営を看板に、この種の詐欺が
日常化している。
じゅうぶん、注意したらよい。)

 で、結論としては、「自閉症か何かの障害をもった姉妹が、親に捨てられた。
その姉妹が、何年かあとに見つかった。村人たちは世話に困り、シング牧師の
ところへ連れていった」ということらしい。

 ・・・となると、私が今まで引用してきた話は、すべて訂正しなければ
ならない。
野生児の話は、ウソだったのか?

が、ここで注意したいのは、だからといって子育て論の本筋、たとえば
人間性と臨界期の問題、言語発達と臨界期の問題まで否定されるというのでは
ない。
人間はそれぞれの成長期に、それぞれの適切な環境で、適切に育てられなければ
ならない。
人間性にしても、言葉にしても、さらにたとえば音感やもろもろの美的感覚
にしても、その時期を逃すと、その後、修復がたいへんむずかしくなる。
たとえオオカミ少女の話がウソであったとしても、その重要性は変わらない。
またまったくのデタラメだったとしたら、こうまで長く、多くの心理学者や
精神学者、さらには哲学者たちの支持は受けなかっただろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 オオカミ少女の謎 オオカミ姉妹の謎 野生児への疑問 オオカミ少
女は存在しなかった はやし浩司 タマラ アマラ シング牧師 疑惑 野生児疑惑 オ
オカミ少女疑惑 オオカミ姉妹疑惑)

Hiroshi Hayashi++++++++++++林浩司・はやし浩司

●幼児の脳は、底なし

 こうした事実を知った上で、「知育教育反対」というのであれば、私も納得する。
しかしそうでなければそうでない。
むしろ文科省が定めるカリキュラムなるものが、いかに幼児(子ども)の能力を伸ばす障
壁になっていることか。
30年も前のことだが、当時の文部省の技官と対談したことがある。
そのときその技官も、こう言っていた。
「幼児教育では、文字、数は教えてはいけません。
へたに教えると、小学校の先生が、やりにくくなります」と。

私は自分の幼児教室で、幼児たちに分数は小数、正負の数、割合、確率などを教えてい
る。
要は、教え方の問題。
幼児の脳は、まさに底なし。
教えていて、そういう印象をもつ。

 わかりやすく言えば、自分がピアノを弾けないからといって、幼児にできるわけがない
と考えてはいけない。
「早すぎる」と考えるのは、まちがっている。
いわんや、「ピアノ教育、反対!」を唱えてはいけない。
反対に、私の実感としては、6歳を過ぎてからピアノ教室へ通ったばあい、それなりにピ
アノを弾けるようにはなるかもしれない。
しかし「それなりに」というレベルで、進歩は停止する。

●やる気

 話はそれたが、やる気のあるなしで、旅館のよさは決まる。
たとえばこの部屋。
テーブルの上には、水の入ったポットと、お湯の入ったポットが2つ並べてある。
お茶を入れる急須も茶碗も、ピカピカに磨いてある。
客の私たちは、そういうのを見て、やる気度、つまり本気度を知る。

 で、一事が万事。
浴衣もノリがきいて、パリパリ。
丹前も新品のよう。
アイロンもしっかりとかかっている。
掃除も部屋の隅々まで行きとどいている。
空調の音も、ほとんどしない。

 幼稚園にしても、そうだ。
やる気を感ずる幼稚園には、園長の哲学を感ずる。
その哲学があれば、よし。
そうでなければ、そうでない。
園長は毎日、幼稚園と銀行の間を行ったり来たりしているだけ。
そういう幼稚園へは、子どもをやってはいけない。
これは私の意見というよりは、常識。

 それにしても「知育教育、反対」とは!
論法としては、「日本語すら満足に話せない子どもに、英語教育反対」と言うのに似ている。
あるいは「日本のこともよく知らないのに、外国へ行っても意味がない」と言うのにも似
ている。
さらに「お尻も拭けない子どもが、バイオリンを弾くのはおかしい」でもよい。

 もしこんな論法がまかり通るなら、こうも言える。

「先の短い老人が、英語の勉強などしても無駄」
「旅行しても、お金が無駄になるだけ」
「足腰が曲がった老人が、ミュージカルを観劇して、何になる」と。

 幼児のもつ可能性に、もう少し目を向けてほしい。
・・・というのが、このエッセーの主題。
ちょうど食事時間になったので、この話はここまで。

+++++++++++++++++++++++

●手紙

 食事中、こんなことが話題になった。
ワイフのクラブ仲間に、Uさんという女性がいる。
そのUさんの息子(26歳)が結婚することになった。
相手の女性が妊娠したらしい。
それであわてて籍だけ入れることになった。
が、Uさんは、その結婚に反対。
相手の女性が、世間ズレしすぎているという。
Uさんの夫を、いきなり「パパ」と呼んでいるという。

ワ「でもね、おかしいのよ」
私「どこが?」
ワ「相手の女性が、子宮外妊娠を心配しているんだって・・・」
私「初産の人が、子宮外妊娠?」
ワ「そうでしょ。ふつうそんなこと心配しないわね」
私「そうだな。ぼくも聞いたことがない」
ワ「……」

 まあ、人それぞれ。
結婚も、それぞれ。
それでたがいに幸福になれば(?)、それでよい。

 ついでに言えば、「知育教育・賛成・反対」にしても、最終的には親や子どもが決めるこ
と。
そういう幼稚園を選ぶ親もいれば、そうでない親もいる。
あとは親の判断に任せればよい。
それでたがいに納得すれば(?)、それでよい。

●後記

 たった今、カラオケルームから帰ってきた。
ワイフと息子、それに私の3人で、歌を20曲近く歌った。
この旅館のカラオケルームは、超一流。
まるで豪華な劇場のよう。
照明も、四方八方から調整できる。
楽しかった。

 で、夕食だが、もちろん5つ星。
★★★★★。

 改めて確認。
浜松で、一押しの簡易旅館は、この「浜名湖かんざんじ荘」。
家族連れに最適。
はやし浩司は、ウソは申しません。
ぜひ、おいでください。
では、おやすみなさい!


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 知育教育 幼児教育の重要性 2011-06)

(参考※)2004年11月に書いた原稿より

●ギルフォードの立体知能モデル

 ギルフォードは、知能因子を、4x5x6=120の立体モデルで、表現した。196
7年のことだった。

 私が、最初に、その立体モデルの模式図を見たのは、ある出版社でのこと。そこの編集
部員が、「林さん、こんなのがありますよ」と言って見せてくれた。

 それが1978年ごろのころではなかったか。私は、その立体モデルを見たとき、強い
衝撃を受けた。

 そこで私は、その120の知能因子にそった、教材というか、知恵ワークを考えた。そ
れらはすぐ、学研の『幼児の学習』という雑誌に、採用された。その雑誌は、やがて、『な
かよし学習』という雑誌とともに、毎月47万部も売れた。

 ギルフォードの「立体知能モデル」。

 今では、もう古典的なモデルになっている。というのも、縦軸に、認知能力、記憶、拡
散的思考……、横軸に、図形、記号、言語……、高さに、単位、類、関係……と分けてい
るが、具体性が、ほとんどなかった。

 今から思うと、「どこか思いつき?」という印象すら、もつ。しかしそれはともかくも、
知能因子を、このように分けた意義は大きい。

 というのも、それまでは、知能因子は、スピアマンの「知能因子、2因子説」や、サー
ストンの「多因子説」などがあった程度。知能因子のとらえ方そのものが、まだばくぜん
としていた。

 それを120の知能因子に分けた! それ自体、画期的なことだった!

 で、それから25年以上。今では、この分野の研究が進み、IQとか、さらにはEQと
いう言葉も生まれ、常識化している。さらには、これらの数値では、測定できない、つま
り因子と言えない因子も考えられるようになった。

 たとえばヒラメキや、直感力、直観性、創造性、思考の柔軟性など。そこで教育の分野
だけではなく、大脳生理学の分野でも、因子についての研究が、始まっている。昨今、右
脳教育という言葉がもてはやされているが、それもその一つ。

 今の段階では、知能の内容も、複雑で、奥が深いということ、その程度しか、ここに書
くことができない。あるいはもともと思考の内容を、パターン化しようとするほうが、無
理なのかもしれない。

 人間の脳の中には、約100億個の神経細胞がある。そしてそれぞれの神経細胞が、1
0万個のシナプスをもっている。つまりこれだけで、10の15乗のシナプスの数になる。
その数は、10の9乗~10乗と言われているDNAの遺伝情報の数を超えている! 思
考の可能性を、ワクの中で考えることのほうが、おかしい。

 ギルフォードの立体知能モデルを見るたびに、そう思う。

(はやし浩司 ギルフォード 立体知能モデル 神経細胞 シナプス 子どもの知能 知
能教育 早期教育と先取り教育 臨界期 敏感期)


Hiroshi Hayashi++++++++June 2011+++++++++はやし浩司

【欲望(煩悩)論】(今朝のキーワードは、「怒り」)はやし浩司 2011-06-17

●希望と期待

 希望にせよ、期待にせよ、それが「欲望」から発したものであれば、それは未来を約束
した希望や期待にはならない。
よく「光」という言葉を使う人がいる。
「希望は光」と。

 しかしそれは光ではない。
身を焦がす炎(ほのお)である。
たとえば子を育てる親の希望や期待には、際限がない。
受験にしても、やっとB高校へ入る力がついてくると、「何とかしてA高校へ」となる。
そのA高校が視野に入ってくると、今度は、「S高校へ」となる。

 こうして希望や期待は、際限なくふくらんでいく。
その結果、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
ひとつの希望や期待がかなえられるたびに、その先でまた新たなる苦悩がやってくる。
処し方をまちがえると、家庭騒動、親子断絶、さらには家族崩壊へとつづく。
ただの「光」ではすまない。
つまり「炎」。
なぜか?
それが冒頭に書いたことである。
欲望から発しているからである。

●老後の希望

 若いうちは、まだよい。
それが意味のないものであっても、その希望や期待に、酔いしれることができる。
時間を無駄にしても、そこにはありあまるほどの余裕がある。
(本当は、余裕などないのだが……。)

 が、歳を取ると、そういうわけにはいかない。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
無駄にできる時間など、一瞬一秒もない。
そこで何度も書くが、エリクソンという学者は、「統合性の確立」という言葉を使った。
老齢期の生き方を説いたものである。
3年前に書いた原稿だが、参考になると思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)08年記
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統
合性の確立 無私 無我)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。
身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無」

 統合性を確立するためには、欲望を捨て、「無」の状態でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は、霧散する。
ボランティア活動にしても、「無」でするから、意味がある。
何も期待しない。
見返りを求めない。
ただひたすら自分がすべきことをする。
それが「無」ということになる。

 で、2500年前に釈迦が説いた「無」と、近代に入ってサルトルが説いた「無の概念」
が、一致するということは、たいへん興味深い。
宗教の世界を、「観念論の世界」という。
一方、サルトルらが説いた世界を、「実存主義の世界」という。
まったく相反する世界の哲学が、最終的には、ひとつの世界に融合する。

(私自身は、釈迦は、宗教ではなく、現在に通ずる実存主義を説いたものと解釈している。
その釈迦の教えを、無理に宗教化したのは、後世の学者たちと解釈している。)

 釈迦は、「無」を哲学の根幹に置いた。
(いろいろ異論もあろうが……。)
一方、サルトルは、自由へのあくなき追求を経て、最終的には「無の概念」にたどりつく。
これについても、私はたびたび原稿を書いてきた。

 サルトルについて書いた原稿をさがしてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【自由であること】2009年記

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、
『自らに由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自
分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても
暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞ
かし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日
本人だけ。(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・
1905~1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間か
ら、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、
自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂
信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信する
という例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出
歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハ
ッピー。ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、
それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」
をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫
んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、
私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放さ
せることができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を
解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の
問題を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問
題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるとき
がくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の
立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取
り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、
布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概
念」をもって、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの
問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由
論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていた
ため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪
う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。
しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐
怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経
験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる
習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイ
と押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、
さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆ
えに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しか
しその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、
許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文
なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うこ
とができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れ
たことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、
しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ
自由はある。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。し
かしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実
自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがま
まにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任
をとることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをい
う。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●釈迦の説く「無」

 では、釈迦は、「無」をどのように考えていたのか。
直接的には「空(くう)」という言葉を使った。
つぎの原稿は2006年に発表したものである。
が、本当は、もっと前に書いたかもしれない。
私はよく過去に書いた原稿を呼び出し、その原稿を改めるということをよくする。
しかし少なくとも、仏教と実存主義の融合に気づいたのは、このころということになる。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】2006年記

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」であ
る。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることに
よる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦し
みをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをい
う。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間
の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認
識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し
前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)
→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、
説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦
しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。
無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり
涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということ
になる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正
業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

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●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっ
ても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるもの
は、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータ
の中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の
目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面
には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在し
て、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経
て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われて
いる。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされて
いる。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、6
00年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経
などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではない
かと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひ
ょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこ
れが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされ
ている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるもの
を、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、
同じに考えてよいのではないか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限ら
れた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、
「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。
億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、
この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と
思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味
であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかと
いうこと。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。
そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄に
することになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうど
う)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、
正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、
布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、
「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。
こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考
え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」とい
う程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。
中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そう
いう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、
その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自
分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格
が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になっ
たとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですとい
うような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、
私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)
に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんな
ことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まち
がったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間とし
て、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考
えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識 無の概念 空)

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もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

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●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」とい
うことになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中
正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味で
ある。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほど
ほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんとい
う意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)
正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言
葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というの
は、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられ
たような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進に
ついても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦
は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんば
る。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重
要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得
た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝
に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のう
ちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「や
る!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中に
は、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その
考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生
活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちが
いが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人から
は、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、
利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考え
る人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思って
いないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサ
をよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心
の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、
カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自
分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のもの
である。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、
一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすれ
ばよい。


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 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自
由であることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私
はここに、東洋哲学と西洋近代哲学の融合を見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 東洋哲学と西洋哲学の融合 無の概念 無 はやし浩司 空)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●欲望の克服

 私たちが「欲望」と呼んでいるもの。
それらはすべて「無」に発する。
「性欲」を例にあげるまでもない。
ただの排泄欲にすぎない性欲が、人間社会そのものを支配している。
フロイトですら、「性的エネルギー」という言葉を使っている。
つまり「性的エネルギー」が、あらゆる動物(もちろん人間も含む)の生命力の根幹にな
っている、と。
(これに対して、フロイトの弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使っている。

 人間は絶え間なく、この欲望の支配下に置かれ、奴隷となり、それに振り回される。
が、たいへん悲しいことに、そうでありながら、ほとんどの人は、それに気づくこともな
い。
「私は私」と思い込んでいる。
ただの奴隷でありながら、それが「私」と思い込んでいる。
よい例が、電車の中で化粧をする若い女性。

 自分の意思で化粧していると本人は思い込んでいる。
「あなたは自分の意思で化粧をしているのですか」と聞いても、その女性はこう答えるだ
ろう。
「もちろん、そうです」と。

 が、その女性とて、その奥深くから発せられる「性的エネルギー」の奴隷でしかない。
その「奴隷である」という部分が、加齢とともに、やがてわかってくる。

●では、どうするか

 ここから先は、製品で言えば、まだ試作品(プロトタイプ)。
が、今の私は、こう考える。
希望や期待が、欲望に根ざすものであるなら、希望や期待をもたないこと。
へたに希望や期待をもつから、そのつど壁にぶつかり、葛藤を繰り返す。
怒りもそこから生まれる。
恨みも、ねたみも、そこから生まれる。

 ある賢人は、こう言った。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
あとでそれについて書いた原稿をさがしてみるが、怒りが強ければ強いほど、あるいは恨
みやねたみが強ければ強いほど、その人自身の人間性が破壊される。

 が、希望や期待を捨てれば、怒ることはない。
人を恨んだり、ねたんだりすることもない。
……と書くと、では、「人は何のために、何を目標に生きればいいのか」と考える人もいる。
が、答は、シンプル。
『そのとき、その場で、やるべきことを、けんめいにすればいい』と。
トルストイをはじめ、多くの賢人たちも、異口同音に、「そこに生きる意味がある」と説く。
つまり懸命に生きるところに意味がある、と。
釈迦もその1人。

 結局は、そこへ行き着く。
「結果」というのは、かならず、あとからついてくる。

 ここにも書いたように、これは試作品としての結論ということになる。
このつづきは、一度、頭を冷やしたあとに、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 欲望(煩悩)論 煩悩論 欲望論)


(補記)2010年7月記

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディッ
ク)

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人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

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●ある女性(67歳)

 ついでながら、東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上
古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、
恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みず
からの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもな
く、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。

「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。

そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8~10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
『怒りは、人格を崩壊させる』と説く賢者もいる。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)

●結論

 いろいろ書いてきたが、人間は欲望の奴隷と考えてよい。
その欲望が、さまざまな感情を生む。
東洋医学でも、そう教える。
その感情の中でも、「怒り」「うらみ」「ねたみ」は、心を腐らす。
ときには人格を崩壊させる。

 そこで重要なことは、つまり日々の生活の中で重要なことは、この怒りをどう手なずけ
ていくかということ。
それを自己管理能力といい、その能力のあるなしで、その人の人格の完成度が決まる。

 釈迦も「怒り」をきびしく戒めている。
フォスディックの言葉を借りると、こうなる。

●『Anger is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を怒るということは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 今朝のキーワードは、「怒り」ということになる。

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●管直人首相、がんばれ!(I support Mr. Naoto KAN, the Prime Minister of Japan)改

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

善人は悪人に嫌われる。
……ということでもないが、管直人首相は、目下、四面楚歌。

内閣官房副長官ですら、こう述べている。

『仙谷由人官房副長官は12日、東日本大震災の本格的復興のための2011年度第2次
補正予算案の編成について、「与野党の広い枠組みで共同作業でやっていく方がいい」と述
べ、菅首相の退陣後の新体制で行うべきだとの考えを示した』(読売新聞・6月12日)。

何という、官房副長官!
ほかのところでは、「2次補正編成はつぎの総理で」とか、「6月末が退陣のタイミング」(同、
読売新聞)などとも述べている。

首相を支えるべき官房副長官が、堂々とこういうことを公言するところが恐ろしい。
常識をはずれている。
だったら、まず官房副長官の職を退いてから、それを口にすべき。
まさに自らが乗る船に穴を開けるような行為をしながら、みじんも恥じない。
この愚かさ。
低劣さ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●管直人首相が何をした?

 私は毎日新聞やテレビ、ネットや雑誌、ついでにタブロイド版の新聞にも目を通してい
る。
が、今回の管直人首相の「引き下ろし劇」の理由がよくわからない。
約束を守らないとか、約束を破ったとか。
そういうレベルの話しばかり。

 私が見るかぎり、管直人首相は、よくやっている。
すばらしい。
どこかうさん臭い、悪臭漂う政治家の中にあって、管直人首相だけが、その誠実さを光ら
せている。
思い出すのは、あの三木武夫元首相。
同じような経緯を経て、政界の場から引きずり下ろされた。
が、ああいう人物こそ、政治家の中の政治家。
政治の世界では、まともなことを口にした政治家ほど、袋だたきにあう。
今回の「浜岡原子炉停止」にしても、そうだ。

 今までの政治家たちは、電力業界=官僚がこわくて、それを口にすることもできなかっ
た。
が、管直人首相は、それを断行した。
浜岡原子炉を停止させた。
まさに大英断!
もっとも過激に管直人首相を口汚く攻撃しているのが、あのSK新聞、ということも、私
には納得できる。
自民党よりの最右翼!

●今は、そんなときではない!

 仙谷由人官房副長官……私には彼がどういう人物か、よくわからない。
しかし「ペテン師まがい」という言葉を使った、鳩山氏同様、かえって自らの品位を落と
していることに、どうして気がつかないのか。
こういう例は、教育の世界にも多い。

 かなり前のことだが、ある母親が私のところに来て、こう言った。

「先生、うちのダンナは高卒なんです。給料も少ないし、生活も苦しいです。息子にはあ
あいう父親のような人間にはなってほしくないです。だから何としても大学へ……」と。

 こういう母親を、「バカ!」という。
本物のバカという。
が、自分のバカさかげんに、気づいていない。
仙谷由人官房副長官も、その1人。

 官房副長官なら、まず、何をさておき、首相を支えるべき立場の人間。
世間の批判があれば、盾となって、それを振り払うべき立場の人間。
その人間が、内閣という(内側)にいて、管直人首相下ろしに、一役買っている。
「うちのダンナは高卒なんです……」と言った母親と、精神構造は同じ。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

 もし不満があるなら、最初から結婚など、しないこと。
あるいは離婚してから、それを言え!
さらに言えば、結婚などというものは、たがいにふさわしい人間どうしが結びつくもの。
ダンナがもし、本当にその程度なら、妻であるその母親もその程度。
自分の脳みそと学歴を棚にあげ、「ああいう父親のような人間にはなってほしくない」は、
ない!

 私はその話を聞いたとき、(私も男、夫)、唖然とした。
開いた口がふさがらなかった。
今の今もそうだ。

 みなさん、今一度、冷静になろう。
今は、そんなときではない。
このままでは、日本本土の3分の1以上が、人が住めない場所になる。
東京だって、危ない。
名古屋だって、危ない。
今の今も、放射性物質は、空中に放出されたまま。
3・11大震災以来、原発事故は、何一つ解決していない。
どうしてその深刻さが、わからないのか!

 みなが一致団結して、原発事故の処理に当たらねばならないとき。
言うなれば戦時。
つぎの総理がだれであっても、まただれでなくても、今は管直人首相に集結すべき時。
みなが知恵を出しあい、協力すべき時。
原因や責任を追及するのは、あとの、そのまたあとでよい。

 管直人首相!
私はヘソ曲がりかもしれないが、あなたを支持する。
どうか今の日本の危機を救うため、全力を尽くしてがんばってほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 管直人首相 愚かな政治劇 権力闘争)


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

Mさんからのコメント(ココBLOG)

はじめまして。こんにちは
私もまったく、同意見です。  なんで、こんな非常時に、菅さんを助けて協力しないの
でしょう。 政治家ってほんとになさけない。

何の為に政治家になったのでしょう?
 
こんな、災害が多重に起こってる中すべて、管総理に押し付けている人たちは、日本人を
やめればいいのに。 

 マスコミだって、レベルが低すぎる。総理変えて、原発がおさまるのでしょうか。     

管さんは間違ったことしていない。 ただ、あまりの困難なのだと、思います。  
 私も応援しています。同意見の人がいてよかった。 ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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●DROPBOX

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Dropboxという、インターネットストーレッジのサービスがある。
今朝、それをドウンロードし、試しに使ってみた。
で、使い勝手は、最高!
今まで、BOXとか、WINDOW LIVEとか、ほかに3つ、インターネットストー
レッジを使ってきたが、使い勝手のよさでは、群を抜く。

まだ本格的に使っているわけではないが、この先、世話になりそう。

そうそう「インターネット・ストーレッジ」というのは、言うなれば、仮想のハードディ
スクのようなもの。
わかりやく言えば、ネット上の原稿倉庫。
原稿や写真、動画などを、その中に保管しておくことができる。
そこへ保管しておけば、いつでも、どこでも、またどのパソコンを使っていても、自分の
原稿や写真、動画を呼び出すことができる。

が、Dropboxのすごいところは、それだけではない。
それだけなら、今までのインターネットストレッジと同じ。
Dropboxでは、たとえば呼び出したあと、書き足したり、変更したりすると、その
まま上書きをしてくれる。
今までのように、いちいち改めて保存をかけなくてもよい。

利点は、まだある。
「Public」(公開)フォルダーに保管しておけば、だれとでもファイルを共有するこ
とができる。
電子メールに張りつけ、相手にそのまま原稿を送ることもできる。
容量に制限はあるものの、ふつうに使う分なら、不便はない。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●6月14日、今朝は4時半起き!

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数日前から、扁桃腺が痛かった。
軽い風邪をひいた。
悪寒と倦怠感。

で、昨日は合計して、10時間ほど眠った。
それもあって、今朝は、4時半起き!
すでに外は明るかった。
いつもならそのまま目を閉じ、眠りなおし。
が、今朝は起きた。
起きて、そのままウォーキングマシンに!

一汗かいて、そのまま書斎に。
たった今、動画のUPLOADが終わったところ。
時刻は6時30分。
あっという間に、2時間が過ぎてしまった。

朝食後に、再び寝る予定。
このところ睡眠調整が、どうもうまくいかない。
が、ここは自然体。
犬のハナに倣(なら)って、自然体。
ハナは、好きなときに眠り、好きなときに
遊んでいる。

きっと人間も、太古の昔には、そうであったに
ちがいない。

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●国によってちがう、生活時間

 どこの国の人も日本人と同じように、朝、起き、夜、眠っていると考えている人は多い。
しかしこれは誤解。
南米や地中海地方では、昼寝時間を取るところが多い。
そのため夜が長い。
午後10時から夕食、という家庭も少なくない。
あるいは夜12時ごろまで、通りで子どもが遊ぶ声が聞こえたりする。
少し前、スペインにいる友人が、こう話してくれた。
「コンサートが夜10時から、というのには、驚きました」と。

 私もアルゼンチンで似たような経験をしている。
土曜日の夜などは、夜12時を過ぎても、人々がぞろぞろと通りを歩いている。
店にしても、夜中の2時、3時まで開いている。
つまり私たちが、日本人として考える生活時間などというものは、日本人のものであって、
けっして世界の標準ではないということ。
言い換えると、こと生活時間についていうなら、日本人はもう少し自然体で考えたほうが
よいのではないか。
子どもが幼稚園で過ごす時間にしても、そうだ。
どうして8時30に登園し、午後2時00分に降園するのか。
昼の1時から午後5時までだって、いっこうに構わない。

 ……というのは弁解にしかならないが、人間もある年齢を超えたら、自然体で時間を過
ごしたらよい。
寝たいときに寝、起きたいときに起きる。
不規則がよいというのではない。
それが一定の規則性をもっていれば、それも「規則正しい生活」ということになる。

 なお詳しくは、総務省統計局が、「社会生活基本調査」というので調査している。
興味のある人は、そちらを見ればよい。
が、私は興味がない。
私は私、人は人。
私は若いときから、一般の人たちよりは、はるかに自由気ままに生きてきた。
要は、「睡眠時間」。
累計して、ある一定以上の睡眠時間を確保できれば、それでよい。
それさえきちんと守れば、あとは自然体。

●ワイフと私

 ワイフは子どもころから、母親を早く亡くしたということもあり、独立心が旺盛。
兄弟も7人もいた。
それもあって、いつも独りで寝る。……寝ていた。

 一方、私は祖父母の子。
寒い夜などは、小学6年生になっても、よく祖父母のふとんの中に潜り込んで寝ていた。
(私の家は、北西の角地にあって、とくに寒かった。)

 そういう2人が不幸にも(?)、結婚した。
だから結婚当初から、こと寝ることについては、不協和音がつづいている。
「独りで寝たい」というワイフ。
「いっしょに寝たい」という私。
60歳を過ぎた今もそうだ。

 で、おかしな人間関係ができてしまった。
私の方は、毎晩のように、「いっしょに寝てもいいか?」と、ワイフの機嫌をうかがう立場。
それに対してワイフのほうは、いつもこう言う。
「寝たければ、寝れば」と。
結婚して40年になるが、ワイフのほうから、「一緒に寝よう」と声をかけられたことは、一度もない。

 だから正直に告白するが、いつも寝心地はよくない。
遠慮がちに横になる私。
体が触れあうのさえ、気が引ける。
つまり窮屈。
で、ときどき、別のふとんで寝る。

 が、そういうときというのは、悪夢ばかり見る。
落ち着かない。
が、ワイフといえば、私がいないほうが、よく眠られるといったふう。
朝なども、すがすがしい様子で、起きてくる。

 が、こんな生活に、やや疲れを覚えるようになった。
で、今は、できるだけ独りで寝るように心がけている。
しかし悪夢だけは、何ともしようがない。
が、ワイフには、それが理解できない。
のんきな性格の人で、「そんな夢を見る方がおかしい」と片づけてしまう。

 では、どうするか?
……と悩みつつ、もう40年が過ぎた。
どうしようもない。
どうすることもできない。
これも「性格の不一致」ということになるのか。

 どうであるにせよ、たがいの平均余命も、15年近くになってしまった。
どこかチグハグな夫婦だが、私たちのような夫婦も少なくないはず。
「みんな、どうしているのだろう?」と思うが、そんなことを話してくれる人はいない。
これは生活の中でも、きわめてプライベートな部分。

 私の印象では、みんなそれぞれ、いろいろな問題をかかえながら、何とかうまくやっている……。
夫婦というのは、そういうものか。

 睡眠時間のことを書いたので、私とワイフのことを書いてみた。


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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