2011年5月22日日曜日

*Profit and Loss of Life

【損得論】


● 山荘にて


5月末。
山荘に、ベストシーズンがやってくきた。
野生のジャスミンが咲き誇り、野いちごが赤い実をつける。
空には、もちろんホトトギス。
終日、トーキョートッキョ、キョカキョク……と鳴きながら、
空を舞う。


●野生のジャスミン


今日は、夜中に、山荘に着いた。
甘い香りが、厚い層となって、ゆっくりと全身をやさしく包む。
歩くのをやめ、そのまま深く息を吸い込む。
気温は21度。
車をおりるとき、外気温度を見たら、21度だった。
クーラーの設定温度より低かった。


 湿った冷気が心地よい。
空を見上げると、低い雲が町の明かりを受けて、ぼんやりと光っていた。
先週来たときには、満天の空に星々がまばたきもせず、輝いていた。
台風一過の、その翌日のことだった。


 見ると、ワイフが車から荷物をおろし終えるところだった。
私は土手にライトを向けた。
野いちごが、そこにあるはず。
先週来たとき、ワイフがこう言った。
「来週あたりが、食べごろね」と。


●野いちご


 野いちごが袋に一杯になった。
それをもって居間へ行くと、ワイフが驚いた。
「そんなにたくさん!」と。


 得意げな気持ちを抑えながら、私はだまってコタツに入る。
パソコンを並べる。
テーブルの上に散っていたミニコプター(おもちゃのヘリ)を、並べなおす。
ワイフが注いだ、ミネラルウォーターを飲む。


「生きていてよかった」と。
少し大げさな感じがしないでもないが、そう思った。
そこで損得論。
人は何をもって、損といい、得というか?


+++++++++++++++++++++++++


 ふつう「損・得」というと、金銭的な損得をいう。
しかし何も金銭的な損得だけが、損・得ではない。


時間的な損得論もある。
健康的な損得論もある。
心のつながりの損得論もある。
「人間的な損得論」というのが、それ。
しかし何が損か、得かということになれば、精神的な損得論。


 精神的に「損」をすれば、人生、すなわち命そのものを、
無駄にすることになる。


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●時間的な損得論


 「時間は財産である」。
が、若い人にこんなことを言っても、理解されないだろう。
時間は無限にあるように思っている。
10年後も、20年後も、今のまま・・・と考えている。


 自己中心性の強い中学生だと、こう言う。
「ぼくは、歳を取らない」と。
中学生や高校生でも、そう考えている子どもは、少なくない。
I君(高校男子)も、こう言った。
「ジジイのような役立たずは、早く死ねばいい」と。
そこで私が、「君だって、やがて歳を取って、ジジイになる」と言うと、こう言った。
「ぼくはそれまでにうんとお金を稼いでおくからいい」「だれにも迷惑をかけない」と。


 が、時間はけっして無限ではない。
わかりきったことだが・・・。
しかも皮肉なことに、加齢とともに、時間が過ぎるのが、加速度的に早くなる。
脳のCPUの働きそのものが、遅くなる。
鈍くなる。


 私は・・・時間というのは、金の砂時計のようものと思うことがある。
金銭的な価値に例えているのではない。
それくらい貴重、……という意味で、「金の砂」に例える。
それが絶え間なく、サラサラと下へ、下へと流れていく。
もちろん流れ切ってしまえば、寿命は尽きる。


 そこで「浪費」。
少し前、こう書いた。
「パチンコなどで、一日をつぶしている人は、時間を無駄にしている」と。
中には、娯楽としてパチンコを楽しんでいる人もいる。
娯楽は娯楽。
仕事の合間の息抜き。
だからみながみな、無駄にしているとは思わない。


 もしパチンコを否定してしまったら、魚を釣るのも、映画を観るのも、無駄と
いうことになってしまう。
私だって、旅行先では、何もせずぼんやりとしていることが多い。
が、ことパチンコとなると、話は別。
私には、できない。
1~2時間、無駄にしたと思っただけで、「しまった!」と思う。


 残された時間は、みな、同じ。
要は過ごし方の問題ということか。


●健康的な損得論


 健康的な損得論といえば、第一に思いつくのが、運動と食事。
たとえば寒い朝、ジョギングに出かけるのはつらい。
しかしその(つらさ)に負けていたのでは、健康にはなれない。
「なれない」というよりは、維持できない。


 寒い朝、寝床の中で時間をつぶすのは、「損」ということになる。
一方、一見「損」に見える運動だが、運動した方が、「得」ということになる。
だからときどきビルのエスカレーターに乗りながら、こう思う。
「歩いたほうが、得なのに……」と。


 が、問題は「食事」。


 最近はホテルや旅館などでは、どこでもバイキング料理というのが、ふえた。
あのバイキング料理。
食べなければ、損なのか?
それとも食べたら、損なのか?


 私のばあい、いまでも、それに迷う。
迷うが、結局はいつもより食べ過ぎてしまう。
が、結果からみると、食べ過ぎることのほうが、「損」。
歳を取れば取るほど、体の機能が微妙になる。
少し油断をすれば、すぐ肥満。
糖尿病にもなる。
ほかにもいろいろ。
病気の種類だけでも、分厚い家庭医学書ほどもある。


 だから私のばあい、いつもこう問いかけながら食べる。


「食べたら損ねるのか?」「食べなければ損ねるのか?」と。


●人間的な損得論


 人間は社会的な動物である。
社会、つまり人との関わりをもって、はじめて人は人でありえる。
人と隔絶された世界で、たったひとりで生きたとしても、生きたことにはならない。
これはあくまでも極端なケースだが、たとえば猿だけが住む猿が島に、ひとりで
住むようなケースを空想してみればよい。
あなたはそのとき「人」でいられるだろうか。
猿たちを相手に、幸福で満ち足りた生活を送ることができるだろうか。


 たとえば私もこうして今、ひとりでものを書いている。
たったひとり?
しかしやがてすぐこの文章は、ネットにのって、全世界に配信される。
そこで人とのつながりが、できる。


 当然のことながら、(こう決めてかかるのも危険なことだが)、人間関係は、幅広く、
豊かであればあるほどよい。
もちろん密度の問題もある。
つまらない友人が100人いたところで、心の隙間を埋めることはできない。
ある賢人はこう書き残している。


「歳を取ったら、少数の人と、親密に交際した方がいい」と。


 いろいろな考え方があるようだが、人間関係そのものは、貴重な財産である。
もちろん金銭的な意味で、そう言っているのではない。
友や親類、近親の人をなくすのは、「損」ということになる。
わかりやすく言えば、「理解しあえる相手」こそが、財産ということになる。
その数が多ければ多いほど、「得」ということになる。


●精神的な損得論


 若いころ、こんな話を聞いた。
生徒の家の近くに、80歳前後になる女性が住んでいた。
(年齢は記憶による。)


 その女性は、近所で花の植木鉢を盗んできては、自分の家にそれを並べていたという。
私はその話を聞いたとき、頭の中で思考がバチバチとショートするのを覚えた。
理解できなかった。
「花を楽しむという美しい心と、ものを盗むという醜い心は、衝突しないのか」と。
ほかのものならともかくも、「花」である。
美しい花である。


 この話は私の心に中にずっと残った。
そして今は、こう思う。
「花を盗むことで、人は回り道をすることになる」と。


 話を少し飛躍させてしまった。
私がここで書きたいことは、こういうこと。


 人はいつも何かの目標に向かって生きている。
真・善・美がその代表的なものだが、ほかにもある。
その目標に向かって生きている。
そのとき、自分の心を偽ることは、それ自体が回り道になる。
しかも一度、回り道をすると、そこで「得?」をした分の、何倍も「損?」をする
ことになる。


 たとえば先の女性のばあい、花の植木鉢を盗んだことにより、一時の得(?)を
するかもしれない。
しかしその分だけ、人生の目標からはずれることになる。
たとえば一度醜い心に染まってしまうと、それを消すのに、何倍もの時間がかかって
しまう。
つまり損(?)をする。


 これが精神的な損得論である。


●寛大


 それぞれの損得論は、それぞれ別のものに思う人もいるかもしれない。
私もそう思っていた。
が、人間の脳みそは、それほど器用にできていない。
一部が全部、全部が一部と、それぞれ関連しあっている。


 たとえば私は若いころ、金銭的な損得に、かなりシビアだった。
そのつど敏感に反応した。
が、以来30~40年?
自分の人生を振り返ってみても、金銭的な意味で「得」をしたということは、
ほとんどない。
損ばかりしていた。


 最初は10万円単位だった。
それが100万円単位になり、そのあとさらにふえた。
が、それに慣れると、そのうち、金銭的な損がどうでもよくなってしまった。
・・・というか、免疫性ができ、寛大になった。


 が、ほかの面に寛大になったというわけではない。
金銭的な損得論から解放されることによって、それまで見えなかった損得論が
見えるようになった。


 ここに書いた、時間的な損得論、健康的な損得論、人間的な損得論、精神的な
損得論が見えるようになった。
わかりやすく言えば、金銭的な損を重ねるうち、「損」というものが、どういうものか、
それがよりよくわかるようになった。
「何をもって、私たちは損というか?」と。
そしてその反射的効果として、何が「得」なのかも、よくわかるようになった。


●時間的な損


 時間的な損と言えば、くだらないテレビが、あげられる。
もっとも私の年齢になると、あのバラエティ番組を見る人は少ない。
少ないが、その一方で、どうしてあんな番組が、人気があるのか、私にはよく理解
できない。
それなりに意味のあること(?)をまぶしてはいるが、まさに情報の羅列。
洪水。
それを見る人にしても、見ては覚え、そして覚えては忘れる。
それを繰り返している。


 が、これを繰り返していると、思考力そのものが衰退してしまう。
自分の力で考えることができなくなってしまう。
言うなれば情報中毒。
その情報中毒が、こわい。


バカになりながら、自分がバカになっていることにさえ、気がつかない。
よい例が、バスや電車の中で、大声で話し立てるオバチャンたち。
もし今度そういうオバチャンたちを見かけたら、どんな話をしているか、
少し耳を傾けてみたらよい。


(1) 脳に飛来した情報を、そのまま話しているだけ。
(2) 話の内容が、どんどんと変化していく。
(3) 世俗的な世間論のみで、議論による深まりがない。
(4) 発展性もなければ、創造性もない、など。


 つまり時間を無駄にしているだけ。
せつな的な時間つぶしをしているだけ。
話しては忘れ、話しては忘れ、それを繰り返しているだけ。
もっと辛らつな言い方をすれば、口の運動をしているだけ。


●健康的な損


 健康的な損といえば、第一にあげられるのが、喫煙。
高額な税金を払い、病気を買っているようなもの。
タバコにしても、「吸っている」のではなく、タバコに「吸わせられている」。
自分の意思で吸っているのではない。
吸わせられている。


 結果、喫煙は健康のあらゆる面に、影響を与える。
病気を引き起こす。
がんを例にあげるまでもない。


 要するに、肉体というのは、だらしなく、怠けもので、誘惑に弱いということ。
そういう前提で、自分の肉体を考える。
もう少しわかりやすく例えると、あなたの脳みそは、経営者。
肉体は言うなれば、労働者。
文句ばかり並べて、働こうとしない労働者。
だからあなたは自分の肉体に向かって、こう叫ぶ。
「働け!」と。


 それが健康につながる。
つまり「得」。


●最大の損


 最大の損といえば、当然、「死」ということになる。
人は死ぬことで、すべてを失う。
名誉も地位も財産も、そして命すらも。


 あのホーキング博士は、最近、こう言っている。


『天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎない』と。


 天国はあるのか、ないのか。
本当のところは、私にもわからない。
わからないが、「天国はない」という前提で私は生きている。
「死んでみて、あればもうけもの」と。


 が、ホーキング博士は、「そんなものは、ない」と。
わかりやすく言えば、死は、「コンピューターが壊れたような状態」(ホーキング
博士)という。
「私」どころか、死ねば、この宇宙もろとも、消えてなくなる。


 そんな損……それを「大損」というのなら、大損でもよい。
そんな大損を前にすれば、目の前の損など、どれもささいなもの。
が、ここで誤解してはいけない。


 だから人生は虚しいとか、つまらないとか言っているのではない。
その逆。
私たちはかぎられた時間の中で、懸命に生きる。
生きながら無数のドラマを残す。
ときに運命にさからい、土俵の間際で足をふんばる。
そこに人が生きる意味があり、価値がある。


 あのトルストイもこう書いている。
『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。
信ずること』(『戦争と平和』・第五編四節)と。


 ホーキング博士も同じようなことを書いているのは、たいへん興味深い。
『(重要なことは)、自らの行動の価値を最大化するため努力すべき』と。
わかりやすく言えば、とにかく懸命に生きろ、と。


●『自らの行動の価値』


 ホーキング博士は、「自らの価値」とは言っていない。
「自らの行動の価値」と言っている。
そこがすごい。
「行動の価値」である。


 人はただ生きているだけではない。
何かの行動を繰り返している。
その行動の価値を「最大化するため努力すべき」と。


 反対の例で考えてみると、ホーキング博士の言わんとしている意味がよくわかる。


 たとえば近所にこんな老人(80歳くらい)がいる。
彼は毎日時刻表に沿って、生活をしている。
恐ろしく時刻に正確な人で、近所の人たちは、みなこう言っている。
「あの人の姿を見ると、時刻がわかります」と。


最近は少し元気がなくなってきたようだが、一日中、裏の畑の世話をしている。
家の横には、花木も10本近く、ある。
が、訪れる人もいない。
その季節になると、花木は美しい花を満開させる。
もちろん、それを見る人はいない。


 で、考える。
「彼の行動に価値はあるかないか」と。
答は、「NO!」。


 その老人の生き方の中で、何が欠けているかといえば、「価値を高める」という
努力である。
平たく言えば、自分の欲望のおもむくまま、好き勝手なことをしているだけ。


価値の高め方には、いろいろあるだろう。
新種を開発するのもよし、他人を楽しませるのもよし。
絵を描いたり、写真を撮って、それを発表するのもよし。
花の育て方の本を書くのもよし。
それが即、生きる目的ということになる。
私たちがなぜ、ここに生まれ、ここにいるかという答ということになる。


●老後のテーマ


 私たちはこの年齢まで、生きてきた。
「息(いき)てきた」のではなく、「生きてきた」。
が、その中身といえば、「行動してきた」。
その結果、多くのものを失い、同時に多くのものを得てきた。


 が、もう無駄にできるものはない。
失ったものは、しかたない。
過去を振り返り、愚痴を並べても、しかたない。
大切なことは、今、ここにあるものの価値を、最大限高めること。


 時間的価値、健康的価値、人間的価値、そして精神的価値。
そのつど、何が大切で、何がそうでないか。
もっとわかりやすく言えば、何が得で、何が損か。
それをそのつど考えながら、行動する。
それが結果として、行動の価値を高める。


 そこで最後の命題。


 が、「ただ高めるだけでは足りない」。
ホーキング博士は、「最大限」という言葉を使っている。
同時に「努力」という言葉も使っている。
ぐうたらな生活を繰り返していたのでは、行動の価値を高めることはできない。
仏教の言葉を借りるなら、ただひたすら精進(しょうじん)あるのみ。
つまりその(きびしさ)こそが、人生を光り輝くものにする。
またそれにまさる「得」はない。


 ……ということで、久々に、改めて損得論について書いてみた。


 ワイフは、横で寝支度にかかり始めた。
私はボサボサになった髪の毛のうしろを指でかきながら、こう言う。
「どうしようか?」と。
それに答えてワイフは、こう言う。
「明日の朝にしましょう」と。


 時計を見ると、12時を過ぎていた。
風呂に入るのは、「明日の朝」にする。


 窓を開けると、網戸を通って、相変わらずジャスミンの甘い香りが、
部屋の中にサーッと入ってきた。


 少し眠くなった。
疲れた。
では、みなさん、おやすみ!


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 損得論 損とは何か 得とは何か)
2011/05/22


【補記】


 懸命に生きて、その先に何があるか?
それは私にもわからないし、だれにもわからない。
1人の人間の寿命が、1000年に延びてもわからないだろう。
大切なことは、1歩でも2歩でも、あるいは半歩でもよい。
その(何か)に近づくこと。

 
 が、このとき2つの考え方があるのがわかる。
「どうせ何があるかわからないなら、はじめからあきらめ、人生は楽しんだほうが
よい」と考える考え方。
昔、私の知人も、そう言った。


 「林君(=私のこと)、どんなに偉くなっても、人は死ねばおしまいだよ。
首相の名前だって、10年は残らない。だったら、今は、楽しく生きるのが
いい。苦労して首相になっても、意味はないよ」と。


 それから20年近く、彼のその言葉がときどき私の頭の中を横切る。
が、それほど悪魔的な言葉も、そうはない。
生きる力そのものを、後ろへ引く。
後退させる。
「損」を「損」とその人にわからせないまま、つまりだましながら、その人を
後退させる。
だから悪魔的。


 首相にしても、「首相になるかどうか」は、あくまでも結果。
(もちろん首相という地位を求めて首相になる人もいるだろうが……。)
大切なことは、そういうことには構わず、自分の道を進むこと。
だからもし今、その言葉を聞いたら、私はこう言い返すだろう。


 「君は、そういうふうに考えることによって、大きな損をしているのだよ」と。



Hiroshi Hayashi+++++++May. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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