件名:☆★☆子育て最前線の育児論byはやし浩司☆☆H. Hayashi, Japan☆★☆10-16-1
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子育て最前線の育児論byはやし浩司(Eマガ)……読者数(Nr. of Readers) 477人
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How to cope with Kids at Home, by Hiroshi Hayashi
Digital Magazine for Parents who are bringing up Children in the Forefront Line
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★ ★★★★★★★★★★★★★
02-10-14号(124)
★ ★★★★★★★★★★★★★
by はやし浩司(ひろし), Hiroshi Hayashi
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
キーワードは、C,X,I(シー・エクス・アイ)Private Cornerへのキーワードです!
Key Words to Private Room in my Website are, C-X-I
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● 愛知県尾張旭市にて、講演会をもちます。よろしかったらおいでください。
11月14日(木)スカイワードアサヒ 午前10時~12時
主催 尾張旭市教育委員会
● 静岡市にて、講演会をもちます。よろしかったら、おいでください。
03年6月24日(火) アイセル21 午前10時~12時
主催 静岡市文化振興課
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「親子断絶・家庭崩壊、110のチェックポイント」近日発売!
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ブロードバンドをお楽しみのみなさんへ、
「はやし浩司のホームページ」に新しく動画コーナーをつくりました。私の生の声などを収録しました。どうかおいでください。サイト・トップページより、どうぞ!
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___ \____/ ___ 鍋物がおいしい季節になりましたね!
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みなさんへ、いつも、このマガジンを購読してくださり
ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
●Hello, my friends overseas!
From this edition on, my magazine is translated into English
for your convenience. I hope you may enjoy this magazine
in your home country. Hiroshi
Hiroshi Hayashi, Japan
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メニュー
今日のテーマ、「子育て格言」(新シリーズ)
【1】四割の善と、四割の悪(40% Righteousness & 40% Wrongness)
【2】この三〇年を振りかえって(My days of these passed 30 years)
【3】子育て格言―新シリーズ(Words of Wisdom for Young Mothers)
【4】随筆(Essays)
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【1】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
■濱人【連載:子育て、ワンポイントアドバイス by はやし浩司】
メールマガジン「週刊E'news浜松」に掲載した記事より転載
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●No.35「子どもは社会の縮図」
おとなの世界に四割の善と四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の
善と四割の悪がある。子どもの世界はまさにおとなの社会の縮図。おとなの
世界をよくしないで、子どもの世界だけをよくしようとしても、それはおと
なの身勝手。もっと言えば、ムダ。子どもの世界をよくしようと考えたら、
おとなの世界をよくする。たとえばいじめにしても、非行にしても、おとな
たちの世界にもそれがあるのに、どうして子どもに向かって、それをやめろ
と言えるのか。子どもしてもはじめて読んだカタカナが、「ソープ」であっ
たり「ホテル」であったりする(「クレヨンしんちゃん」)。
ただ悪があるから、悪いというのでもない。もし人間がすべて、天使のよう
になってしまったら、この世界、何とつまらないものになってしまうことか。
善と悪のハバがあるから、この世界はおもしろい。無数のドラマもそこから
生まれる。旧約聖書の中にも、こんな説話が残っている。ノアが、神にこう
聞いたときのこと。「神よ、どうして人間を滅ぼそうとしているのか。(滅
ぼすくらいなら)、最初から完全な人間をつくればよかった」と。それに対
して神は、「(人間に)希望を与えるため」と。つまり人間は悪いこともす
るが、一方努力によって、神のような人間にもなれる。「それが希望だ」と。
私も若いころは、子どもの世界をよくしようとがんばったこともある。しか
し四〇歳になり、五〇歳になると、どんどんそういう気持ちは薄れた。薄れ
て、その反対に、結局は問題の根源はおとなの世界にあることを知った。「
犠牲」という言い方はあまり好きではないが、子どもたちこそ、その犠牲者
に過ぎない。我欲と貪欲のウズに巻き込まれ、子どもたちにしっかりとした
ビジョンを示せない私たちおとなのほうにこそ、その責任がある。たとえば
援助交際にしても、子どもたちにそれをやめろという前に、どうしておとな
たちが、おとなに向かって、それをやめろと言わないのか。あなたの友人や
仲間が若い女の子と援助交際していても、みんな、見て見ぬフリをしている!
子どもの世界を見るときは、まずおとなの世界を見る。何か問題が起きたら、
「自分ならできるか」「自分はどうか」と自問してみる。そしてここが重要
だが、自分にできないことは、子どもに求めないこと。期待しないこと。「
子どもの世界は社会の縮図」というのは、そういう意味である。
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メールマガジン「週刊E'news浜松」2002/10/7 No.002-035/2322
毎週月曜日発行/まぐまぐID:0000002344
編集発行:E'news編集部
((((⌒(( ヽ
ヽ│6 6 ρ )
人 ▽ 人′ ~♪
( _) (_ )
/′ V (ヽ
/│田│ 田│ヽ
/ │ │ │ ヽ
【2】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
今回から、新しい視点で、子育て格言を送ります。
この原稿は、「子育て格言・ママ100賢」を、最近
書きなおしたものです。みなさんのご家庭でお役に
たてば、うれしいです。
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子育て格言集(新シリーズ①)
●仲のよいのは、見せつける
子どもに、子育てのし方を教えるのが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子育てをするのですよ」と、その見本を見せる。見せるだけでは足りない。子どもの体にしみこませておく。もっとわかりやすく言えば、環境で、包む。
子育てのし方だけではない。「夫婦とはこういうものですよ」「家族とはこういうものですよ」と。とくに家族が助けあい、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、励ましあう姿は、子どもにはどんどんと見せておく。子どもは、そういう経験があって、今度は自分が親になったとき、自然な形で、子育てができるようになる。
その中の一つ。それがここでいう「仲のよいのは、見せつける」。夫婦が仲がよいのは、遠慮せず、子どもにはどんどん見せつけておく。手をつないで一緒に歩く。夫が仕事から帰ってきたら、たがいに抱きあう。一緒に風呂に入ったり、同じ床で寝るなど。夫婦というのは、そういうものであることを、遠慮せず、見せておく。またそのための努力を怠ってはいけない。
中には、「子どもの前で、夫婦がベタベタするものではない」と言う人もいる。しかしそれこそ世界の非常識。あるいは「子どもが嫉妬(しっと)するから、やめたほうがよい」と言う人もいる。しかし子どもにしてみれば、生まれながらにそういう環境であれば、嫉妬するということはありえない。「嫉妬する」と考えるのは、そういう習慣のなかった人が、頭の中で勝手に想像して、そう思うだけ。が、それだけではない。
子どもの側から見て、「絶対的な安心感」が、子どもを自立させる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。堅固な夫婦関係は、その必要条件である。またそういう環境があって、子どもははじめて安心して巣立ちをすることができる。そしてその巣立ちが終わったとき、結局は、あとに残されるのは、夫婦だけ。そういうときのことも考えながら、親自身も、子どもへの依存性と戦う。
家庭生活の基盤は、「夫婦」と考える。もちろんいくらがんばっても、夫婦関係もこわれるときは、こわれる。それはそれとして、まず、家庭生活の基盤に夫婦をおく。子どもの前では、夫婦が仲がよいのを見せつけるのは、その第一歩ということになる。
●流れには従う
世の中には「流れ」というものがある。この流れをどう見極めるか、それも子育てのうちということになる。
たとえば私が高校生のときは、「赤い夕日が校舎を染めてエ~」(舟木一夫の「高校三年」)と歌った。しかし今の親たちは、「夜の校舎、窓ガラス、壊して回ったア」(尾崎豊の「卒業」)と歌った。この違いは大きい。
そして今、さらにこの流れが加速され、子どもたちの世界は、大きく変化しつつある。それがよいのか悪いのかという議論もあるが、中学生にしても、約六〇%の子どもが、「勉強で苦労するから、進学校には行きたくない」などと言っている(浜松市内のH中学校長談話)。また日本労働研究機構の調査(二〇〇〇年)によれば、高校三年生のうちフリーター志望が、一二%もいるという(ほかに就職が三四%、大学、専門学校が四〇%)。職業意識も変わってきた。「いろいろな仕事をしたい」「自分に合わない仕事はしない」「有名になりたい」など。三〇年前のように、「都会で大企業に就職したい」と答えた子どもは、ほとんどいない。これはまさに「サイレント革命」と言うにふさわしい。フランス革命のような派手な革命ではないが、日本人そのものが、今、着実に変わろうとしている。
ところで親子を断絶させる三要素に、①親子のリズムの乱れ、②信頼感の喪失、③価値観の衝突がある。このうち③価値観の衝突というのは、結局は、子どもの流れについていけない親に原因がある。どうしても親は、自分を基準にして考える傾向があり、自分の価値観を子どもに押しつけようとする。この「押しつけ」が、親子の間にキレツを入れる。
親「何としてもS高校へ入れ」
子「いやだ。ぼくは普通の高校でいい」
親「いい高校に入って、出世しろ。何といってもこの日本では、学歴がモノを言う」
子「勉強は嫌いだ」
親「お前には、名誉欲というものがないのか」
子「そんなもの、ない」と。
どこの家庭にでもあるような衝突だが、こうした衝突を繰り返しながら、親子の間は断絶していく。今、中高校生でも、「父親を尊敬していない」と答えた子どもは五五%もいる(「青少年白書」平成一〇年)。「父親のようになりたくない」と答えた子どもは八〇%弱もいる。この時期、「勉強せよ」と子どもを追い立てるほど、子どもの心は親から離れると考えてよい。
●なくしてわかる生きる価値
賢明な人は、そのものの価値をなくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。健康しかし、人生しかり、そして子どものよさも、またしかり。
子どものよさには、二つの意味がある。ひとつは、外に目立つ「よさ」。もうひとつは、中に隠れた、見えない「よさ」。外に目立つ「よさ」は、ともかく、問題は中に隠れた「よさ」。それに親がいつ気がつくかということ。
たとえば子どもが何か問題をかかえたとすると、親はその状態を最悪と思い込み、「どうしてうちの子だけが」とか、「なんとかなおそう」と考える。しかしそういうときでも、もし子どもの中に、隠れた「よさ」を見出せば、問題のほとんどは解決する。たとえばこんな母親がいた。
その娘(中三)は、受験期だというのに、家では、ほとんど勉強しなかった。そこで母親は毎日ヤキモキしながら、娘を叱りつづけた。しかしこういう状態が半年、一年もつづくと、母親の精神状態そのものがおかしくなる。母親はそのつど青白い顔をして、私のところに相談にきた。「どうしてうちの娘は……?」と。
しかしその子どもは、私が見るところ、すなおで、明るく、頭の回転も速く、それに性格もおだやかだった。ものの考え方も常識的で、非行に走る様子も見られなかった。学校でもリーダーで、バトミントン部に属していたが、結構活躍していた。もちろん健康で、それにこういう言い方は適切ではないかもしれないが、容姿も整っていた。私は「そういう子どもでも、親は、健康を悪くするほど悩むのかなあ」と。それがむしろ不思議でならなかった。
昔の人は、『上見て、キリなし。下見て、キリなし』と言った。上ばかり見ていると、人間の欲望や希望には際限がなく、苦労は尽きないもの。しかし一方、自分が最低だと思っても、まだまだ苦しくて、がんばっている人もいるから、くじけてはいけないという意味だが、子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは、「下」から見る。下(欠点)を見ろというのではない。「今、ここに子どもが生きている」という原点から見る。そういう視点から見ると、ほとんどの問題は解決する。
あなたの子どもにもすばらしい点は山のようにある。それに気づくかどうかは、結局は、あなたの視野の広さと高さによる。子どもを見るときは、その視野を広く、そして高くもつ。
●名前は呼び捨て
よく誤解されるが、子どもをていねいに扱うから、子どもを大切にしていることにはならない。先日も埼玉県のU市の、ある私立幼稚園で講演をしたら、その園長がこっそりとこう話してくれた。「今では昼の給食でも、レストラン感覚で出さないと、親は満足しないのですよ」と。そこで私が「子どもに給仕をさせないのですか」と聞くと、「とんでもない。それでやけどでもしたら、たいへんなことになります」と。
子どもを大切にするということは、「してあげる」ことではなく、「心を尊重する」ということ。中には、「子どもを楽しませること」「子どもに楽をさせること」を、親の愛と誤解している人もいる。しかし誤解は、誤解。まったくの誤解。子どもというのは、皮肉なもので、楽しませたり、楽をさせればさせるほど、ドラ息子(娘)化する。しかし苦労をさせたり、がまんをさせればさせるほど、生活力も身につき、忍耐力も養われる。そしてその分、親子の絆(きずな)も太くなる。言うまでもなく、子どもは(おとなも)、自分で苦労してはじめて、他人の苦労がわかるようになる。
そういう流れの中で、私は、自分の子どもを、「~~さん」とか、「~~ちゃん」づけで呼ぶ親を見ると、「それでいいのかなあ」と思ってしまう。一見、子どもを大切にしているように見えるが、どこか違うような気がする。それで子どもに問題がなければよいが、たいていは、そういう子どもにかぎって、わがままで、自分勝手。態度も大きく、親に向かっても、好き勝手なことをしている。子どもが小さいうちならまだしも、やがて親の手に負えなくなる。
子どもを大切にするということは、子どもの心を大切にするということ。英語国では、親子でも、「おまえは今日、パパに何をしてほしい?」「パパは、ぼくに何をしてほしい?」と聞きあっている。そういう謙虚さが、たがいの心を開く。命令や、威圧は、それに親が勝手に決めた規則は、子どもを指導するには便利な方法だが、しかしこれらが日常化すると、子どもは自ら心を閉ざす。閉ざした分だけ、親子の心は離れる。
ともかくも、親が子どもを呼ぶとき、「しんちゃん」で、子どもが親を呼ぶとき、「みさえ!」では、いくら親子平等の時代とはいえ、これでは本末転倒である。それほど深刻な問題ではないかもしれないが、子どもを呼ぶときは、呼び捨てでじゅうぶん。また呼び捨てでよい。
●名前は大切に
子どもの名誉、人格、人権、自尊心、それに名前(書かれた文字)は、大切にあつかう。
①名誉……「さすがだね」「やっぱり、あなたはすごい子ね」「すばらしい」と、そのつど、子どもはほめる。ただしほめるのは、努力ややさしさ。顔やスタイルは、ほめない。「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重にする。
②人格……要するに子どもあつかいしないこと。コツは、「友」として迎え入れること。命令や威圧はタブー。するとしても最小限に。「あなたはダメな子」式の人格の「核」に触れるような「核」攻撃は、タブー中のタブー。
③人権……人として生きる権利を認める。家族の愛に包まれ、心豊かに生きる権利を守る。子どもにもプライバシーはあり、自由はある。抑圧され、管理された家庭環境は、決して好ましいものではない。
④自尊心……屈辱的な作業や、屈辱的な言葉を言ってはいけない。『ほめるときはおおやけに、叱るときは内密に』という原則を守る。みなの前で「土下座しなさい」式の叱り方はタブー。もちろんみなの前で恥をかかせるようなことは、してはいけない。
⑤名前……子どもの名前の載っている新聞や雑誌は、最大限尊重する。「あなたの名前はすばらしい」「あなたの名前はいい名前」を口グセにする。子どもは名前を大切にすることから、自尊心を学ぶ。ある母親は、子どもの名前が新聞に出たようなときは、それを切り抜いて、高いところにはったり、アルバムにしまったりしていた。そういう姿勢を見て、子どもは、自分を大切にすることを学ぶ。
●涙にほだされない
心の緊張感がとれない状態を、情緒不安という。この緊張した状態の中に、不安が入ると、その不安を解消しようと、一挙にその不安が高まる。このタイプの子どもは、気を許さない。気を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。その不安に対する反応は、子どものばあい、大きく分けて、①攻撃型と、②内閉型がある。
攻撃型というのは、言動が暴力的になり、ワーワーと泣き叫んだり、暴れたりするタイプ。私はプラス型と呼んでいる。また内閉型というのは、周囲に向かって反応することができず、引きこもったり、性格そのものが内閉したりする。慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることが多い。私はマイナス型と呼んでいる。(ほかにモノに固執する、固執型というのもある。)
こうした反応は、自分の情緒を安定させようとする、いわば自己防衛的なものであり、そうした反応だけを責めたり、叱っても、意味はない。原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。家庭騒動や家庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育て、親の拒否的な態度など。一度不安定になった情緒は、簡単にはなおらない。
そこで子どもによっては、この時期、すぐ泣く、よく泣くといった症状を見せることがある。少しいじめられても、すぐ泣く。ちょっとしたことで、すぐ泣くなど。こうした背景には、子ども自身の情緒不安があるが、さらにその背景には、たとえば恐怖症や神経症が潜んでいることが多い。たとえば子どもの世界でよく知られた現象に、対人恐怖症がある。反応はさまざまだが、そうした恐怖症が背景にあって、情緒が不安定になるということは珍しくない。親は、「友だちを遊んでいても、ちょっと何かをされるとよく泣くので困ります」と言うが、子どもは泣くことで、自分の情緒を安定させようとする。
もちろん子どもが泣くときには、原因をさがして、対処しなければならないが、「泣く」ということを、あまりおおげさに考えてもいけない。コツは、泣きたいだけ泣かせる。泣いてもムダということをわからせる、という方法で対処する。ぐずりについてもそうで、定期的に、また決まった状況で同じようにぐずるということであれば、ぐずりたいだけぐずらせるのがコツ。泣き方やぐずり方があまりひどいようであれば、スキンシップを濃厚にして、カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
こうした心の問題は、「より悪くしないこと」だけを考えて、一年単位で様子をみる。「去年よりよくなった」というのであれば、心配ない。あせってなおそうとして症状をこじらせると、その分、立ちなおりがむずかしくなる。
●波間に漂(ただよ)わない
子どものことで、波間に漂うようにして、フラフラする人がいる。「右脳教育がいい」と聞くと、右脳教育。隣の子どもが英会話に通い始めたときくと、英語教室。いつも他人や外からの情報に操(あやつ)られるまま操れられる。私の印象に残っている母親に、こういう母親がいた。
ある日、私のところにやってきて、こう言った。「今、通っている絵画教室へこのまま、通わせようか、どうかと迷っている」と。話を聞くとこうだ。「色彩感覚は、三歳までに決まるというから、あわてて絵画教室に入れた。しかし最近、個人の絵の先生に習うと、その先生の個性が子どもに移ってしまうから、よくないという話を聞いた。今の絵の先生は、どこか変人ぽいところがあるので心配です。だから迷っている」と。
こうしたケースで、まず問題としなければならないのは、子どもの視点がどこにもないということ。「子どもはどう思っているか」ということは、まったく考えない。そこで私が「お子さんは、どう思っているのですか」と聞くと、「子どもは楽しんで通っています」と。だったら、それで結論は出たようなもの。迷うほうが、おかしい。
「優柔不断」という言葉があるが、この言葉をもじると、「優柔混迷」となる。自分というものがないから、迷う。迷うだけならまだしも、子どもがそれに振り回される。そして身につくはずの「力」も、身につかなくなってしまう。こういうケースは、今、本当に多い。では、どうするか。
親自身が一本スジのとおった方針をもつのがよいが、これがむずかしい。だからもしあなたがこのタイプの母親なら、こうする。何ごとにつけ、結論は、三日置いて出す。このタイプの母親ほど、せっかちで短気。自分の心に問題を秘めて、じっくりと考えることができない。だから三日、待つ。とくに子どもに関することは、そうする。この言葉を念仏のように心の中で唱えるとよい。……といっても、簡単なことではない。私のアドバイスが効力をもつのは、せいぜい一週間程度。それを過ぎると、またもとに戻ってしまう。もともと子育てというのは、そういうものか。その親自身の全人格がそこに反映される。
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子育て随筆byはやし浩司
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子育て随筆byはやし浩司(162)
この三〇年を振りかえって……
幼児教育にかかわるようになって、今年で、満三〇年になる。早いものだ。その間、楽しいことも山のようにあったが、悲しいこともあった。しかし不思議なもので、楽しかった思い出というのは、記憶の中に埋(うず)もれてしまっていて、なかなか引き出せない。考えてみれば、私の仕事は毎日、楽しいことばかりだった。で、その分、つまりほとんどが楽しい思い出ばかりだから、悲しかった思い出や、つらかった思い出が目立つのかもしれない。
悲しかった思い出といえば、一磨君という少年が、小児がんでなくなったこと。そのとき書いた、エッセーが、つぎのエッセーである。このエッセーは、「子育て最前線のあなたへ」(中日新聞出版局)にも収録したが、あとで一磨君のお母さんが、二〇冊近く、その本を買ってくれた。うれしかった。
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●脳腫瘍で死んだ一磨君
一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。
いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせたときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまったかのように感じた。
葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になりたいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできるし、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、私だけではなく、皆が目頭を押さえた。
ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。
私は一磨君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じた。この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くなる。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。汝がために鳴るなり」と。
私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んでいる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なのだ。
一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きていることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。
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私の仕事とは関係ないが、私がこの三〇年間でもっともうれしかったのは、三一年ぶりに、学生時代の友人たちと再会したとき。そのとき書いたのがつぎのエッセー。このエッセーは、金沢学生新聞にも発表したが、反響は大きかった。学生新聞の編集長が、編集部に届いた読者からの手紙やメールを、回送してくれた。中には、涙をこぼしながら読んでくれた人もいたという。うれしかった。
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●三一年ぶりの約束
ちょうど三一年前の卒業アルバムに、私はこう書いた。「二〇〇一年一月二日、午後一時二分に、(金沢の)石川門の前で君を待つ」と。それを書いたとき、私は半ば冗談のつもりだった。当時の私は二二歳。ちょうどアーサー・クラーク原作の『二〇〇一年宇宙の旅』という映画が話題になっていたころでもある。私にとっては、三一年後の自分というのは、宇宙の旅と同じくらい、「ありえない未来」だった。
しかしその三一年がたった。一月一日に金沢駅におりたつと、体を突き刺すような冷たい雨が降っていた。「冬の金沢はいつもこうだ」と言うと、女房が体を震わせた。とたん、無数の思い出がどっと頭の中を襲った。話したいことはいっぱいあるはずなのに、言葉にならない。細い路地をいくつか抜けて、やがて近江町市場のアーケード通りに出た。いつもなら海産物を売るおやじの声で、にぎやかなところだ。が、その日は休み。「初売りは五日から」という張り紙が、うらめしい。カニの臭いだけが、強く鼻をついた。
自分の書いたメモが、気になり始めたのは数年前からだった。それまで、アルバムを見ることも、ほとんどなかった。研究室の本棚の前で、精一杯、かっこうをつけて、学者然として写真におさまっている自分が、どこかいやだった。しかし二〇〇一年が近づくにつれて、その日が私の心をふさぐようになった。アルバムにメモを書いた日が「入り口」とするなら、その日は「出口」ということか。しかし振り返ってみると、その入り口と出口が、一つのドアでしかない。その間に無数の思い出があるはずなのに、それがない。人生という部屋に入ってみたら、そこがそのまま出口だった。そんな感じで三一年が過ぎてしまった。
「どうしてあなたは金沢へ来たの?」と女房が聞いた。「……自分に対する責任のようなものだ」と私。あのメモを書いたとき、心のどこかで、「二〇〇一年まで私は生きているだろうか」と思ったのを覚えている。が、その私が生きている。生きてきた。時の流れは、時に美しく、そして時に物悲しい。フランスの詩人、ジャン・ダルジーは、かつてこう歌った。「♪人来たりて、また去る……」と。部分的にしか覚えていないが、続く一節はこうだった。「♪かくして私の、あなたの、彼の、彼女の、そして彼らの人生が流れる。あたかも何ごともなかったかのように……」と。何かをしたようで、結局は、私は何もできなかった。時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。つかむこともできない。握ったと思っても、そのまま指の間から漏れていく。
翌一月二日も、朝からみぞれまじりの激しい雨が降っていた。私たちは兼六園の通りにある茶屋で昼食をとり、そして一時少し前にそこを出た。が、茶屋を出ると、雨がやんでいた。そこから石川門までは、歩いて数分もない。歩いて、私たちは石川門の下に立った。「今、何時だ」と聞くと、女房が時計を見ながら、「一時よ……」と。私はもう一度石川門の下で足をふんばってみた。「ここに立っている」という実感がほしかった。学生時代、四年間通り抜けた石川門だ。と、そのとき、橋の中ほどから二人の男が笑いながらやってくるのに気がついた。同時にうしろから声をかける男がいた。それにもう一人……! そのとたん、私の目から、とめどもなく涙があふれ出した。
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このときとった写真(石川門の前での記念写真)は、
サイト、http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/の
「トップページ」→「動画」→「インターディスク」
→「中日新聞記事」の冒頭に載せておきます。興味
のある人は、ご覧ください。
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私がこの仕事をしていて、もっともつらかったのは、一時期勤めていたある幼稚園をリストラされたこと。しかもリストラを宣告されたのは、立ち話で、だった。私がある朝、庭で園児を指導していると、いきなり園長がやってきて、こう言った。「林君、もう来週から来なくていい」と。その園長が、園長に就任にして、数年目のことだった。
が、リストラされたからといって、その園長をうらむことはできなかった。それまで、その前任の園長には、じゅうぶんすぎるほど、世話になっていた。それに園長の様子がかなりおかしいということは、私もそれ以前から感じていた。感情が平坦になり、動作も鈍くなっていた。会話もかみあわなかった。加えてそのときまでに同じようなリストラのし方で、何人もの年配の先生たちがリストラされていた。順にそれが進んで、私のところにやってきた。「つぎは私だろうな」と思っていた。そう、園長は、たしかにおかしかった。これ以上のことは、ここには書けないが、そのとき前任の園長も、かなり深刻に、その園長のことを悩んでいた。私にも、相談があった。
しかしショックはショックだった。私はその言葉で、プライドはズタズタにされた。実際、その夜は、体中が熱でほてり、ほとんど一睡もできなかった。朝になってワイフが「どうしたの?」と聞いたときはじめて、「幼稚園はクビになった」と告白した。以来、その幼稚園には二度と足を踏み入れていない。また私の書いたものの中に、その幼稚園の名前を書いたことは一度もない。しかしそのときのリストラが、私を発奮させる原動力になった。私は以後、がむしゃらに幼児教育に没頭した。
人生にはいろいろある。しかしこれから先は、今までのような濃密な経験はできないだろうと思う。この五年間だけを見ても、それ以前の密度の半分くらいになったような気がする。変化よりも、安定を求めるようになった。航海にたとえていうなら、もう嵐はこりごり。その嵐に耐える体力もないのでは。そのかわりこれからはもっと、心の旅をしてみたい。外ではなく、自分の心の内側に向かう。そういう生き方をしてみたい。まとまりのない回顧録になってしまったが、このつづきは、また何年かあとに書いてみる。
(02-10-7)
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【4】∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
考えることが好きな子ども、きらいな子ども
その子どもが考えることが好きな子どもかどうかは、小学一年のころには、すでにはっきりとする。この時期、考えることが好きな子どもは、好き。考えることの楽しさを知っている。そうでない子どもは、そうでない。表面的な様子にだまされてはいけない。たとえばペラペラとよくしゃべるから頭がよいとか、反応がはやいから、頭がよいということにはならない。
私は今日小学二年生で、こんな実験をしてみた。つぎのような数列を見せ、□の中には、どんな数字が入るかという問題である。
問、□の中には、どんな数(かず)が入るか。
1、2、4、7、11、□
この問題は、小学二年生にはムリ。それはわかっているが、私は子どもたちの反応をみたかった。そこでしばらく様子をみると、何とか考えようとする子どもが、一〇人中、四人。考えているフリはするが、深く考えようとしない子どもが、三人前後。残りの三人は、あれこれ思いついた数字を口にするだけで、ほとんど考えようとしない。「5かな、7かな……?」と勝手なことを言っているだけ。一人の子どもは、「これ、足し算? それとも引き算?」と聞いた。
たいていの親は、ペラペラと調子よくしゃべる子どもを、頭のよい子と誤解する。しかしこのタイプの子どもは、脳に飛来する情報を、適当に言葉にしてしゃべっているだけ。もっと言えば、頭の中はカラッポ。よい例が、夜のバラエティ番組に出てくるお笑いタレントたち。一見反応がすばやく、頭がよいように見えるが、その実、何も考えていない。たまに気のきいたことを言うが、それとて、どこかで仕入れた情報の受け売りにすぎない。
考えることには、ある種の苦痛がともなう。そのためほとんどの人は、考えることを無意識のうちにも避けようとする。よい例が、数学の証明問題である。もし今、あなたが数学の証明問題を解けと言われたら、あなたはどうするだろうか。あれこれ理由をつけて、その問題から逃げるに違いない。あるいは近くに答があるなら、それを写して、それですますかもしれない。
当然のことながら、考える子どもとそうでない子どもは、やがて大きな差となって表れる。この時期に分かれる。考える子どもは、思考することの楽しさを覚え、自ら脳を鍛えるようになる。そうでない子どもは、そうでない。そしてこの違いが、一年たち、二年たち、さらに一〇年もつづくと、大きな差となる。考える子どもは、あらゆる方向に触覚を延ばし、そしてあらゆる場面で考える。そうでない子どもは、そうでない。どちらがよいかということは、もう明白。聞くだけヤボ。子どもは、そのはじめの分かれ道に入る前に、考える子どもにする。その方向づけをする。つまりそれが幼児教育ということになる。では、どうするか。
(パズルの応用)
特別の理由がないかぎり、子どもというのは、考えることが好きとみる。それはちょうど、広い庭を見ると、思わず走りたくなるという、あの衝動に似ている。そういう意味では、子どもは知的な刺激に飢えている。そこでひとつの方法として、私は知的パズルを与えることを提案する。私も勉強が嫌いという子どもに対しては、パズルを積極的に与えることによって、まず「考えることを好きにさせる」という指導をする。少し回り道になるかもしれないが、長い目で見て、そのほうが効果的である。たとえばアメリカの小学校では、国語(米語)の授業でも、パズルから子どもを導入する。「この中で、Aで始まる動物はどれ?」「Eで終わる動物はどれ?」(小学一年生)と。こうしたパズル的な教え方が、アメリカの小学校の教育の基本にもなっている。「教え育てる」が基本になっている日本の教育と、「種をまいて引き出す(エデュース)」が基本になっている欧米の教育の違いと言ってもよい。アメリカの教育法がよいばかりではないが、ひとつの参考にはなる。
(02-10-7)
【追記】
子どもの考える力は、親の影響が大きい。子どもは、親の考える様子を見ながら、自分の中に考えるという習慣を養う。が、それだけでは足りない。子どもを考える子どもにするには、それなりの指導が必要である。子どもに向かっては、いつも、「どう思う?」「どうしたらいいの?」「どうして?」と問いかけながら、一緒に考えるようにするとよい。しかもこうした考える力は、長い時間をかけて熟成されるもので、根気と努力が必要である。子どものばあい、考えの深い子どもは、何かテーマを与えたりすると、目つきがそのつど静かに沈むので、わかる。
このところ、世間では右脳教育なるものが、もてはやされ、どこかカルト化しているような感じがする。が、論理や分析をつかさどるのは左脳である。ペラペラと軽いことを言い、頭の中にひらめたまま、奇想天外なことを言うから、頭がよいということにはならない。この種の教育法には、じゅうぶん注意してほしい。
そこでおとなの問題。これはあるアメリカで発行された、大人用の「知能テスト」の問題集に載っている問題である。一度、童心に返って(?)、考えてみてほしい。
4・5・7・11・19・□
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子育て随筆byはやし浩司(164)
ブルセラ? 生脱ぎ?
朝のワイドショーを見ていたら、こんな言葉が飛び出してきた。「ブルセラ」「生脱ぎ」と。女子中学生や高校生の汚れた下着を売買することを、ブルセラ。そして客(?)の目の前で脱いで販売するのを、生脱ぎというのだそうだ。インタビューに答えていたのは、女子高校生(一年生)。そういう子どもが、そういう言葉を平気で口にしているのには、心底、驚いた。それだけではない。こうも言った。「映画館の中で(生脱ぎ)することもある」「そのままホテルへ行ったり、援助交際することもある」と。
私も男だし、性欲も、ふつうにはある。……あった。しかし汚れた下着をほしいと思ったことはない。しかも、だ。自分の高校時代を思い出しても、そういう発想は、まったくなかった。考えもおよばなかった。が、今、それが堂々と、白昼になされている! テレビでインタビューに答えていたのは、顔はぼかしてあったが、見るからに清楚(せいそ)な感じのする女子高校生だった。
こういう現実を目(ま)の当たりにすると、私が毎日こうして書いている原稿は、いったい、何かということになってしまう。レベルが高いとか低いとかいう問題ではない。あまりにもかけ離れていて、何だか、自分がとんでもないほどムダなことをしているようにすら思われてくる。ほかの分野のことならともかく、私が相手にしなければならないのは、そういう子どもたちなのだ。いや、ここで「ほかの分野」というのは、たとえば電子工学などの分野では、その専門的な研究だけをしていればよい。その果てに携帯電話があり、パソコンがあったとしても、電子工学の研究をしている人は、携帯電話やパソコンがユーザーにどう使われるかは、関係ない。恐らく関心もないだろう。しかし私は違う。こうして教育論を考えることは、つまるところ、そういう子どもが対象なのだ。
実のところ、私も、こうした子どもたちの「性」の問題には、さんざん翻弄(ほんろう)されてきた。その結果、というよりも今は、「我、関せず」を貫いている。この問題だけは、知性のワクを超え、本能の世界と深くかかわっている。もっともそれがあるから、人類は、限りなく生殖を繰り返し、今日まで生き延びることができた。しかしそれだけに知性で戦って、戦えるものではない。道理や理屈が、まったく通じない。しかしこれだけは覚えておくとよい。もしあなたが「うちの子にかぎって……」とか、「うちには関係ない問題」と思っているなら、それは幻想。一〇〇%、幻想。これからは、そういう前提で、あなたの子どもを考え、あなたの社会を考える必要がある。つまり……、たいへん言いにくいが、あなたの子どもが何か問題を起こしてから、あわてても遅いということ。その覚悟だけはしておいたほうがよい。
(02-10-8)
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子育て随筆byはやし浩司(165)
「もう一人の子ども」論
たいていの親は、「うちの子にかぎって……」とか、「私は子どもとうまくいっている」、あるいは、「私は子どもの心をしっかりとつかんでいる」と考えている。しかし実のところ、そういう親ほど、あぶない。あるいはあなたは、自分の子どもが、あなたの前で、まったく仮面をかぶっていないと、自信をもって、断言できるだろうか。
そう、何がこわいかといって、この「仮面」ほど、こわいものはない。あなたの前で、よい子ぶる、心を隠す、無理をする。そういう不自然さが、長い時間をかけて心のカベにアカのようにたまり、やがてあなたからみても、子どもの心がつかめなくなる。が、それですめばまだよいほうだ。子どもはその仮面の下で、もう一人の自分をつくる。
子どもの非行は、ある日、突然、始まる。本当に、突然だ。ばあいによっては、一週間単位、あるいは一か月単位で、子どもが急変する。ある男の子(小五)は、ある日、突然、母親に服をねだり始めた。それまではほとんどの服は、母親が選んで買っていた。そこで子どもと一緒に、店へ行くと、その子どもの選んだ服は、キラキラと輝く金文字の入った、紫色のコートだった。いわゆる暴走族カラーというので、母親はそれを見てはじめて、子どもの心の変化に気づいた。
そこで自己診断テスト。あなたの子どもは、今、あるがままの自分の姿をあなたに見せているだろうか。それを一度、テストしてみてほしい。
○子どもはあなたに向かって、平気で悪態をつくことができる。「ババア」とか、汚い言葉を使うことも多い。
○あなたがいてもいなくても、態度は大きく、ふてぶてしい。いつもあなたの前で、好き勝手なことをしている。
○何か仕事を任せても、あなたは安心して任せることができる。何でもひとりで、自分でやってしまう子どもなので、ほとんど心配していない。
●ときどき何を考えているかわからないときがあるが、あなたの前ではがまんして、よい子ぶることが多い。親の命令には、割とすなおに従ってくれる。
●あなたが近くにいると、あなたを避けるように自分の部屋に行ったり、別の場所に行き、そこで心や体を休めることが多い。
●いつも心配先行型の子育てをしてきたように思う。何かにつけ、心配で、そういう意味では、手間のかかる子どもだったように思う。
このテストで、白丸(○)より、黒丸(●)が多いようであれば、あなたの子どもは、もう一人の自分をつくりつつあるとみてよい。もちろん、もう一人の自分をもつことが悪いとはかぎらない。中には親を反面教師として、前向きに伸びていく子どももいる。しかしたいていは、悪い方向に進む。
なお、子どものすなおさを見るときは、「心(情意)と表情が一致しているかどうか」をみて判断する。このテストは、そのすなおさをみるためにも、利用できる。
(02-10-8)
ミ ( ⌒⌒ ) 彡♪♪♪♪
∞((((( )∞
│6 6 b
(" 。 "人
ヽ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ヽ
○ ヽ ABC ○
 ̄ ̄ ̄ヽ ヽ ヽ ̄ ̄ ̄読書の秋です! はやし浩司の本を読みましょう!
 ̄ ̄ ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄
Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【講演会のお知らせ】
各地で講演会をもちます。詳しくはサイトのニュースを
ご覧ください。
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/→「ニュース」です。
6・24 ……静岡市アイセル21
2・20 ……内野小学校
1・23 ……上島小学校
1・19 ……浜松市医療センター
11・29 ……砂丘小学校
11・21 ……北浜南小学校
11・14 ……愛知県尾張旭市教育委員会・スカイワードアサヒ(10時~12時)
11・6 ……富塚学園・湖東幼稚園
10・30 ……五島小学校
10・17 ……島田市立第四保育園
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