【感情論】
++++++++++++++++
人間のもつ感情は、いったいどのようにして
生まれ、私たちの心を支配するのか。
それを考えているうち、私は「反感情」という
言葉を考えついた。
++++++++++++++++
●感情の行動命令と抑制命令
自律神経には、交感神経と副交感神経がある(注※)。
行動の行動を司るのが、行動命令。
行動の抑制を司るのが、抑制命令。
この両者がバランスよく機能したとき、行動はスムーズな動きとなって現れる。
行動命令が強すぎれば、(あるいは抑制命令が弱すぎれば)、行動は、興奮性をもつ。
反対に抑制命令が強すぎれば、(あるいは行動命令が弱すぎれば)、行動は、鈍くなる。
(理屈の上では、行動命令と抑制命令の両方が、同じように強くなったり、弱くなったりすることもある。
kろえは蛇足だが、ニンニクの中には、興奮性をもつ物質と、鎮静性をもつ物質の両方が含まれているという。
いつだったか、どこかの科学者が話してくれたのを記憶している。)
ともかくも私たちの何気ない行動も、実はその裏で、交感神経と副交感神経の絶妙なバランスの上で成り立っているということになる。
つまり腕の上げ下げするときも、交感神経は「上げろ」と命令し、副交感神経は「上げるな」と命令する。
それがうまく調和しているとき、なめらかな行動となって、それは現れる。
その調和が崩れたとき、行動はなめらかさを失ったり、反対に、鈍くなったりする。
同じように、感情も、興奮命令と抑制命令によって支配されていると、考えられる。
たとえば「怒り」。
怒りを覚えたとき、脳の中では、同時に2つの命令がくだされる。
「怒れ」という命令。
「怒るな」という命令。
「怒れ」という命令が強く、「怒るな」という命令が弱くなったとき、「怒り」という感情となって、外に現れる。
一方、いくら「怒り」を感ずるような場面でも、「怒るな」という抑制命令が強く働けば、その人の感情が、外に現れることはない。
理屈で考えれば、つぎの4つのパターンに分類できる。
(1)(怒れ)という命令と(怒るな)という命令が、ともに強いケース。
(2)(怒れ)という命令が強く、(怒るな)という命令が弱いケース。
(3)(怒れ)という命令が弱く、(怒るな)という命令が強いケース。
(4)(怒れ)という命令と(怒るな)という命令が、ともに弱いケース。
この中で、(2)のような状態になったとき、人はそれを(怒り)という形で、表現する。
●行動命令と抑制命令
ここでいう行動命令と抑制命令は、よく知られた脳の中の反応である。
それについて、6年前(04年)に、こんな原稿を書いたことがある。
私はこの小さな事件を通して、行動命令と抑制命令が、どういうものであるかを実感することができた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●心のバランス感覚
駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から二人の女子高校生が割りこんできた。
前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。
それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。するとその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。
私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていましたが……」
女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ~」と。
私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。
で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、10メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。
事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変化に気づいた。
まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意見を戦わせた。
「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」という私。この二人の私が、対立した。
つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれない。
だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と怒っている私、。この二人の私が、対立した。
そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだな。
学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)な分だけ、いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。
つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言った。
そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行動を決めた。
こういう現象は、私だけのものなのか。
もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例としては、本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、うまく使い分ける。
私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こうした精神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、それだけで二重人格を疑われるかもしれない。
そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。
私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のようなものだった。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、「無視しろ」という私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスをとっていたことになる。
もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけていたかもしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたかもしれない。
もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、正義感もあって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職業がら、無視できる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできなかった。
こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに対立している状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思う。
もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)と副交感神経(抑制命令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくない。
そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心の状態を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断する感覚を、私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた人を、常識豊かな人といい、そうでない人を、そうでないという。
キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
(040224)(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心のバランス感覚 心のバランス)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●反感情
東洋医学では、さらに一歩話を進めて、感情には、「相生性」と「相克性」があると教える。
(詳しくは、はやし浩司著『目で見る漢方診断』を参考にしてほしい。)
たとえば(怒り)と(思い)、(思い)は(恐れ)、(恐れ)は(喜び)、(喜び)は(悲しみ)、(悲しみ)は(怒り)と、相克性があると説く(素問・陰陽応象大論)。
わかりやすく言うと、たとえば「怒りがはげしいときは、肝の機能が傷害される。
そして怒りがはなはだしいときは、悲しみを与えてやると、怒りが収まる」。
同じように「あまりにも喜びがはげしいと、心の機能が傷害されるので、そんなときは恐れを与えてやると、その感情が中和される」(以上、『目で見る漢方診断』P146)。
ここでもう一度、フロイトが説いた、「サナトス」と「リビドー」という言葉を思い出してみよう。
サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。
この理論を応用すれば、こういうことも言える。
ひとつの感情が表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。
喜怒哀楽について言えば、そして東洋医学(黄帝内経)の理論に従えば、それぞれの感情には、「反感情」があることがわかる。
(「反感情」というのは、はやし浩司の造語。)
たとえば人は深い悲しみを覚えたとき、同時にその反対側では、別の感情、つまり(怒り)が働く。
同じようにはげしい怒りを覚えたとき、同時にその反対側では、別の感情、つまり(思い)が働く。
つまりそれぞれの感情が、バランスを保っているとき、感情は安定する。
そうでなければそうでない。
この東洋医学的な考え方を、そのまま「サナトス」「リビドー」に当てはめることはできない。
しかし類似性というか、共通性はある。
さらにこうした一連の情意的反応も、交感神経、副交感神経論で、説明できる。
●感情ホルモン説
さらに最近では、感情ホルモン説が有力にねってきている。
私たちが感ずる感情は、ホルモンの支配下に置かれているという説である。
たとえば何かよいことをすると、その情報は辺縁系の扁桃核というところに送られる。
その情報を受けて、扁桃核は、モルヒネ様のホルモンを分泌する。
それが脳内を甘い陶酔感で満たす。
つまりもろもろの感情は、こうして生まれる。
さらに話が一歩進んで、最近の大脳生理学によれば、「悲しいから泣く」のではなく、「泣くから悲しくなる」というようなことを唱える学者もいる。
私たちが(悲しみ)を意識する前に、無意識の世界ですでに(悲しみ)は作られ、それが(泣く)という行為を引き起こすというものである。
それはともかくも、感情ホルモン説には、もうひとつ大きな合理性がある。
言うまでもなく、「脳内ホルモンのフィードバック(作用)」である。
脳内にある種のホルモンが分泌されると、それを中和(もしくは打ち消す)ために、同時に別のホルモンが分泌される。
こうして脳は、自分の脳内をつねにクリーンにしておこうとする。
この考え方は、そのまま「反感情」の説明にも結びつく。
(悲しい)という感情が起こると、同時に脳内では、(怒り)の感情を起こす。
こうして脳は、自分の脳を中和しようとする。
(よく悲しみが高じて、怒りをともなって爆発する人がいる。
こうした日常的な経験とも、合致する。)
●仮説のまとめ
以上は、言うなれば「仮説」ということになる。
しかしこの仮説は、日常生活において、即、有効に機能する。
言うまでもなく、心の平安を保つために、である。
(1)まず感情にも、交感神経と副交感神経という、自律神経系の機能が働く。
「怒れ」という命令と、「怒るな」という命令は、いつも同時進行的に発生する。
そのバランスの強弱によって、人は怒ったり、自分をなだめたりする。
(2)ひとつの感情が露出すると、その反対側で、別の反作用的な感情が引き起こされる。
東洋医学(黄帝内経)は、それをうまく説明する。
その反作用的な感情を、「反感情」(はやし浩司)という。
(3)こうした一連の脳内における感情反応は、脳内ホルモン説でも、うまく説明できる。
以上が、私が考えた「感情論」である。
科学的にどうこうというよりも、東洋医学的に、現象的に、うまく説明できる。
このつづきは、しばらく間を置いて、また考えてみたい。
2010年6月5日
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注※:参考)
(ウィキペディア百科事典より)
随意神経系である体性神経系と対照して、不随意である「自律神経系」は循環、呼吸、消化、発汗・体温調節、内分泌機能、生殖機能、および代謝のような不随意な機能を制御する。自律神経系はホルモンによる調節機構である内分泌系と協調しながら、種々の生理的パラメータを調節しホメオスタシスの維持に貢献している。近年では、自律神経系、内分泌系に免疫系を加え「ホメオスタシスの三角形」として扱われることもあり、古典的な生理学、神経学としての自律神経学のみならず、学際領域のひとつである神経免疫学、精神神経免疫学における研究もなされている。
交感神経と副交感神経の二つの神経系からなり、双方がひとつの臓器を支配することも多く(二重支配)、またひとつの臓器に及ぼす両者の作用は一般に拮抗的に働く(相反支配)。交感神経系の機能は、闘争か逃走か(fight or flight)と総称されるような、身体的活動や侵害刺激,恐怖といった広義のストレスの多い状況において重要となる。以下に運動時の生体反応を例にして、交感神経系の機能を述べる。交感神経系の行動により血管が収縮し、心拍数が増加する。この結果血圧が上昇し末梢組織の還流量が増加する。このような作用の結果消化管、皮膚への血液量が減少するが、一方で骨格筋への血液供給量が増加する。これは骨格筋の運動に伴う局所因子の影響に加えて、筋血管では血管拡張に関与するβ受容体が豊富なことも一因である。気管支平滑筋は弛緩するがこれは気管径の増加をもたらし結果として、一回換気量の増加つまりガス交換効率を向上させることとなる。一方、代謝系に視点を移す。運動時には骨格筋において多量のエネルギー基質(グルコース)を消費するため血糖維持が重要である。なかでも肝臓からのグルコース放出は重要である。交感神経は肝臓でのグリコーゲン分解と脂肪組織での脂肪分解を促し血液中に必要なエネルギーを与える。交感神経は内分泌器官にも作用し副腎髄質ホルモン分泌、グルカゴン分泌を刺激しやはり末梢組織へのエネルギー供給に促進的に作用する。結果として、骨格筋を中心とした組織において豊富な酸素とグルコースが供給される一方で、皮膚や消化管へは供給が乏しくなる。このように,自律神経系は各臓器の機能を統合的に調節することで,結果として個体の内部環境を合目的にする。
(以上、ウィキペディア百科事典より)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 交感神経 副交感神経 行動の抑制 感情の抑制 行動と抑制 感情論 東洋医学 感情の相克性 サナトス リビドー 感情ホルモン説)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
2010年6月5日土曜日
2010年6月4日金曜日
*Japanese old men use words"Thanks, thanks", but for what?
●感謝(老人たちのよく使う言葉)
+++++++++++++++++
老人の中に、「感謝」という言葉を
よく使う人がいる。
「生きていること自体が、感謝」と。
「感謝! 感謝! 感謝!」と。
私の母も、晩年、「ありがとう」という
言葉をよく使った。
何かあると、すぐ、「ありがとう!」と。
「ありがとう! ありがとう!」と。
+++++++++++++++++
●違和感
ときとして人は、裏腹の言葉を繰り返すことによって、自分の心を
ごまかすことがある。
最初に私がそれに気づいたのは、10年ほど前のこと。
ある女性(当時、40歳くらい)が、電話で私にこう言った。
「私は、今の夫を、愛しています」と。
どこかのキリスト教系の、カルト教団に属している女性だった。
日本では、あまりそういう言い方をする人はいない。
そのため私は、その言葉に違和感を覚えた。
つぎにそれに気づいたのは、やはりある女性(当時、60歳くらい)と、
話していたときのこと。
その女性は、こちらが何も聞きもしないうちから、こう言った。
「私は、今の夫と結婚できて、よかったと思います」と。
そして何度も、「私の夫は、すばらしい人です」と。
●本心?
たまたまその両方の場面に、私のワイフも近くにいたので、あとで、
ワイフにこう聞いた。
私「お前なア、どこかの人に、『私は夫を愛しています』とか、
『私の夫はすばらしい人です』などと言ったことがあるか?」
ワ「・・・ないわねエ・・・」
私「だろ! ぼくも、ない」
ワ「でも、どうしてあんなこと、こちらが聞きもしないうちから、あの
人たちは、言うのかしら?」
私「そこなんだよな。人間の心理のおもしろいところは・・・」と。
私たち夫婦も、それなりに愛しあっているとは思う。
が、それでも、そんな言葉は、めったに使わない。
いわんや他人には、使わない。
私「自分の愛に不安を感ずるからではないかな?」
ワ「そうね。それをあえて打ち消すために、ああいう言葉を使うのよ」と。
●疑っているから、「信じている」と言う?
もう少しわかりやすい例に、若い人たちがよく使う、「愛している」
「私を信じて」「あなたを信じているわ」という言葉がある。
相手を愛していない、あるいは疑っているから、そういう言葉を使う。
相手を本当に愛していたり、信じていたら、そういう言葉は、口から
出てこない。
たとえば私のワイフが私に、「あなたを信じているわ」と言ったら、私は、
すかさず、こう解釈する。
「ワイフは、ぼくを疑っている。疑っているから、そういう言葉を
使うのだ」と。
ワ「友だちもこんなことを言っていたわ。2人の息子がいるんだけど、1人は、
いつも手紙に、『ぼくたち(夫婦)は仲よくやっています』と書いてくるそうよ」
私「ハハハ、それは喧嘩ばかりしているという意味だよ」
ワ「そうね。私もそう思うわ」
私「本当に夫婦が仲よくやっていたら、そんなことは書かない。仲よくやって
いないから、『仲よくやっている』と書く」と。
●裏の心
先の例で言えば、夫を愛しきれない何かがあるから、人には、「私は、今の夫を、
愛しています」と言う。
あるいは夫に対して、大きな不満を感じているから、「私の夫は、すばら
しい人です」と言う。
こういう現象を心理学の世界では、どう説明するのか。
しかしあのフロイトは、こんな興味深い言葉を残している。
「サナトス」と「リビドー」という言葉である。
サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと
教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。
この理論を応用すれば、こういうことも言える。
ひとつの感情を表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。
●武士道
ところで「死への欲求」とは何か?
わかりやすく言えば、「死ねば楽になる」と思うのが、その一例ということになる。
もう少し掘り下げて考えると、こうも解釈できる。
私たちが「生きたい」と思うのは、同時に「死にたい」という
欲求を、無意識のうちにも打ち消しているためとも考えられる。
「死」を恐怖と考えるのは、「死」そのものが恐怖だからではなく、
(もちろんその一部ではあるが・・・)、「死」へと自分を引きずりこんで
いくエネルギーに、恐怖感を覚えるため、と。
その恐怖感を打ち消すために、「生きたい」という言葉を口にする。
こうした感覚は、西洋人には理解しがたいものかもしれない。
しかし日本人の私たちには、意外と理解しやすい。
「死への欲求」というのは、たとえば日本の武士道に、それが象徴化
されている。
武士道では、「どう死ぬべきか」で、その人の生き様が決まる。
●裏腹の言葉
最初の話に戻る。
老人が、「感謝」とか「ありがとう」という言葉を使うときには、
2つの意味がある。
ひとつは、感謝できない状況、あるいは「ありがとう」と言えない
状況がその周辺にあることをいう。
つまり自分の置かれた状況に不満があり、その不満を裏返して、「感謝」
とか、「ありがとう」とかいう言葉を使う。
使って、自分の中にたまった不満をごまかす(?)。
もうひとつは、そう言いながら、相手に向かって、「感謝できるような
状況を作れ」とか、「ありがとうと言えるような状況を作れ」と要求して
いる。
つまり催促。
もちろん状況によっては、そうでないばあいもる。
本当に、本心から、そう言うべきケースもある。
が、そのばあいには、「自然さ」が伴う。
言われた方も、違和感を覚えない。
そうでないときは、そうでない。
どこか不自然。
何かヘン?
それを言うべきときでないときに、(まただれもそれを期待していないときに)、
そういった言葉を口に出して言う。
言われたほうが、ふと「?」に思う。
そういう言い方をする。
●結論
老人たちは、よくこれらの言葉を使う。
が、世界的にみても、こうした言葉をよく使うのは、日本の老人たちだけではないのか?
英語で、「I am in good health. Thanks, thanks.」などと書くと、書いただけで、
奇異な感じがする。
言い替えると、こうした言葉を、日本の老人たちは、無理に使いすぎる。
つまり無理をしている(?)。
だから……。
こと私に関して言えば、努めてこれらの言葉は使わないようにしたい。
意味もなく、「感謝」とか、「ありがとう」という言葉は、使いたくない。
たとえば今日も私は健康だ。
気力は弱くなった。
耐久力も弱くなった。
集中力も弱くなった。
しかし健康は、健康。
で、「私は健康だ。生きている。感謝!」などというようには、使いたくない。
だいたい、だれに対して感謝するのか?
「感謝の念を忘れるな」という意味では、「感謝」という言葉は、尊い。
しかしそれは自分に向かって使う言葉。
外の世界に向かって、表出する言葉ではない。
それにたまたま私は健康に恵まれている。
だから「感謝」という言葉を使えば使うほど、今、現在、病気と闘っている
人たちに、申し訳ない気分になる。
そのひとたちは、たまたま病気になっている。
そういう人たちは、どうなのか?
世を恨んでいるのか?
「恨んでいる」と言うべきなのか?
が、そういうことは、ありえない。
またそういうふうに、考えてはいけない。
……ちょっと考え過ぎかもしれないが、気になったので、老人たちがよく
使う「感謝」と「ありがとう」という言葉について、書いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 感謝 感謝の念 老人の言葉 老人心理 老人性心理 老人の感謝)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●閉所恐怖症(恐ろしい実験)
+++++++++++++++++
私なら、ぜったい「NO!」と断わる。
いくらお金を積まれても、できることと、
できないことがある。
私には、それができない!
そんな実験が、今度、ロシアで始まった。
何と、520日間も、窓のない部屋に
閉じこめられるという。
想像するだけで、ゾッとする。
私は、何を隠そう、閉所が苦手。
窓のない部屋に入っただけで、すぐ
息苦しさを覚える。
TBS-iニュースは、つぎのように
伝える(2010-6-4)。
+++++++++++++以下、TBS-iより+++++++++++++++++
ロシアの研究チームは3日、将来の有人火星飛行を見据え、地上に設置した宇宙船に6人の男性を520日間閉じ込める実験を開始しました。
「MARS‐500」と呼ばれるこの実験は、人を地上に設置した宇宙船の中だけで520日間生活をさせるものです。モスクワ西部に設置された模擬宇宙船は、バス9台分の広さがあり、書籍やトレーニングマシンなど生活に必要なものはすべてそろっていますが窓はありません。
将来の有人火星飛行を想定したこの実験では、火星への往復にかかるといわれる520日間を閉鎖された空間に隔離された際、精神や健康の状態に変化がないかを観察するといいます……。
+++++++++++++以上、TBS-iより+++++++++++++++++
●私なら……
私なら、数日で、気がへんになる(?)。
たとえば私は、学生のとき、刑法学の教授に連れられて、
刑務所見学なるものをしたことがある。
あのとき見た刑務所が、そのままトラウマになってしまった。
だから今でも、ときどき、こう思う。
「私が悪いことをしないのは、犯罪者になるのが、こわいからではない。
ああいう部屋に閉じこめられるのが、こわいから」と。
刑務所のばあいは、(懲役と禁錮ではちがうが……)、外の世界との
つながりが、まだある。
しかしバスのような部屋の中では、それがない。
そんな中で、520日間!
私には、とんでもない実験である。
考えられない実験である。
この記事を読んだだけで、ぞっとした。
●疑問
記事を読んで、「窓ぐらい、つければよい……」と思った。
しかし宇宙では、見えるのは、こまかい星だけ。
窓があったところで、どうしようもない?
しかし火星に近づいたら、どうするのか?
窓の外を監視するカメラが故障したら、どうするのか?
高層マンションの高層階に住む母親ほど、マタニティ・ブルーに
なる確率が高くなるという調査結果もある。
「閉所」には、未知の問題が隠されている。
それを知るための実験ということらしいが、私は、ごめん!
それにしても、恐ろしい実験ではないか。
私はそう思った。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
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老人の中に、「感謝」という言葉を
よく使う人がいる。
「生きていること自体が、感謝」と。
「感謝! 感謝! 感謝!」と。
私の母も、晩年、「ありがとう」という
言葉をよく使った。
何かあると、すぐ、「ありがとう!」と。
「ありがとう! ありがとう!」と。
+++++++++++++++++
●違和感
ときとして人は、裏腹の言葉を繰り返すことによって、自分の心を
ごまかすことがある。
最初に私がそれに気づいたのは、10年ほど前のこと。
ある女性(当時、40歳くらい)が、電話で私にこう言った。
「私は、今の夫を、愛しています」と。
どこかのキリスト教系の、カルト教団に属している女性だった。
日本では、あまりそういう言い方をする人はいない。
そのため私は、その言葉に違和感を覚えた。
つぎにそれに気づいたのは、やはりある女性(当時、60歳くらい)と、
話していたときのこと。
その女性は、こちらが何も聞きもしないうちから、こう言った。
「私は、今の夫と結婚できて、よかったと思います」と。
そして何度も、「私の夫は、すばらしい人です」と。
●本心?
たまたまその両方の場面に、私のワイフも近くにいたので、あとで、
ワイフにこう聞いた。
私「お前なア、どこかの人に、『私は夫を愛しています』とか、
『私の夫はすばらしい人です』などと言ったことがあるか?」
ワ「・・・ないわねエ・・・」
私「だろ! ぼくも、ない」
ワ「でも、どうしてあんなこと、こちらが聞きもしないうちから、あの
人たちは、言うのかしら?」
私「そこなんだよな。人間の心理のおもしろいところは・・・」と。
私たち夫婦も、それなりに愛しあっているとは思う。
が、それでも、そんな言葉は、めったに使わない。
いわんや他人には、使わない。
私「自分の愛に不安を感ずるからではないかな?」
ワ「そうね。それをあえて打ち消すために、ああいう言葉を使うのよ」と。
●疑っているから、「信じている」と言う?
もう少しわかりやすい例に、若い人たちがよく使う、「愛している」
「私を信じて」「あなたを信じているわ」という言葉がある。
相手を愛していない、あるいは疑っているから、そういう言葉を使う。
相手を本当に愛していたり、信じていたら、そういう言葉は、口から
出てこない。
たとえば私のワイフが私に、「あなたを信じているわ」と言ったら、私は、
すかさず、こう解釈する。
「ワイフは、ぼくを疑っている。疑っているから、そういう言葉を
使うのだ」と。
ワ「友だちもこんなことを言っていたわ。2人の息子がいるんだけど、1人は、
いつも手紙に、『ぼくたち(夫婦)は仲よくやっています』と書いてくるそうよ」
私「ハハハ、それは喧嘩ばかりしているという意味だよ」
ワ「そうね。私もそう思うわ」
私「本当に夫婦が仲よくやっていたら、そんなことは書かない。仲よくやって
いないから、『仲よくやっている』と書く」と。
●裏の心
先の例で言えば、夫を愛しきれない何かがあるから、人には、「私は、今の夫を、
愛しています」と言う。
あるいは夫に対して、大きな不満を感じているから、「私の夫は、すばら
しい人です」と言う。
こういう現象を心理学の世界では、どう説明するのか。
しかしあのフロイトは、こんな興味深い言葉を残している。
「サナトス」と「リビドー」という言葉である。
サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと
教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。
この理論を応用すれば、こういうことも言える。
ひとつの感情を表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。
●武士道
ところで「死への欲求」とは何か?
わかりやすく言えば、「死ねば楽になる」と思うのが、その一例ということになる。
もう少し掘り下げて考えると、こうも解釈できる。
私たちが「生きたい」と思うのは、同時に「死にたい」という
欲求を、無意識のうちにも打ち消しているためとも考えられる。
「死」を恐怖と考えるのは、「死」そのものが恐怖だからではなく、
(もちろんその一部ではあるが・・・)、「死」へと自分を引きずりこんで
いくエネルギーに、恐怖感を覚えるため、と。
その恐怖感を打ち消すために、「生きたい」という言葉を口にする。
こうした感覚は、西洋人には理解しがたいものかもしれない。
しかし日本人の私たちには、意外と理解しやすい。
「死への欲求」というのは、たとえば日本の武士道に、それが象徴化
されている。
武士道では、「どう死ぬべきか」で、その人の生き様が決まる。
●裏腹の言葉
最初の話に戻る。
老人が、「感謝」とか「ありがとう」という言葉を使うときには、
2つの意味がある。
ひとつは、感謝できない状況、あるいは「ありがとう」と言えない
状況がその周辺にあることをいう。
つまり自分の置かれた状況に不満があり、その不満を裏返して、「感謝」
とか、「ありがとう」とかいう言葉を使う。
使って、自分の中にたまった不満をごまかす(?)。
もうひとつは、そう言いながら、相手に向かって、「感謝できるような
状況を作れ」とか、「ありがとうと言えるような状況を作れ」と要求して
いる。
つまり催促。
もちろん状況によっては、そうでないばあいもる。
本当に、本心から、そう言うべきケースもある。
が、そのばあいには、「自然さ」が伴う。
言われた方も、違和感を覚えない。
そうでないときは、そうでない。
どこか不自然。
何かヘン?
それを言うべきときでないときに、(まただれもそれを期待していないときに)、
そういった言葉を口に出して言う。
言われたほうが、ふと「?」に思う。
そういう言い方をする。
●結論
老人たちは、よくこれらの言葉を使う。
が、世界的にみても、こうした言葉をよく使うのは、日本の老人たちだけではないのか?
英語で、「I am in good health. Thanks, thanks.」などと書くと、書いただけで、
奇異な感じがする。
言い替えると、こうした言葉を、日本の老人たちは、無理に使いすぎる。
つまり無理をしている(?)。
だから……。
こと私に関して言えば、努めてこれらの言葉は使わないようにしたい。
意味もなく、「感謝」とか、「ありがとう」という言葉は、使いたくない。
たとえば今日も私は健康だ。
気力は弱くなった。
耐久力も弱くなった。
集中力も弱くなった。
しかし健康は、健康。
で、「私は健康だ。生きている。感謝!」などというようには、使いたくない。
だいたい、だれに対して感謝するのか?
「感謝の念を忘れるな」という意味では、「感謝」という言葉は、尊い。
しかしそれは自分に向かって使う言葉。
外の世界に向かって、表出する言葉ではない。
それにたまたま私は健康に恵まれている。
だから「感謝」という言葉を使えば使うほど、今、現在、病気と闘っている
人たちに、申し訳ない気分になる。
そのひとたちは、たまたま病気になっている。
そういう人たちは、どうなのか?
世を恨んでいるのか?
「恨んでいる」と言うべきなのか?
が、そういうことは、ありえない。
またそういうふうに、考えてはいけない。
……ちょっと考え過ぎかもしれないが、気になったので、老人たちがよく
使う「感謝」と「ありがとう」という言葉について、書いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 感謝 感謝の念 老人の言葉 老人心理 老人性心理 老人の感謝)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●閉所恐怖症(恐ろしい実験)
+++++++++++++++++
私なら、ぜったい「NO!」と断わる。
いくらお金を積まれても、できることと、
できないことがある。
私には、それができない!
そんな実験が、今度、ロシアで始まった。
何と、520日間も、窓のない部屋に
閉じこめられるという。
想像するだけで、ゾッとする。
私は、何を隠そう、閉所が苦手。
窓のない部屋に入っただけで、すぐ
息苦しさを覚える。
TBS-iニュースは、つぎのように
伝える(2010-6-4)。
+++++++++++++以下、TBS-iより+++++++++++++++++
ロシアの研究チームは3日、将来の有人火星飛行を見据え、地上に設置した宇宙船に6人の男性を520日間閉じ込める実験を開始しました。
「MARS‐500」と呼ばれるこの実験は、人を地上に設置した宇宙船の中だけで520日間生活をさせるものです。モスクワ西部に設置された模擬宇宙船は、バス9台分の広さがあり、書籍やトレーニングマシンなど生活に必要なものはすべてそろっていますが窓はありません。
将来の有人火星飛行を想定したこの実験では、火星への往復にかかるといわれる520日間を閉鎖された空間に隔離された際、精神や健康の状態に変化がないかを観察するといいます……。
+++++++++++++以上、TBS-iより+++++++++++++++++
●私なら……
私なら、数日で、気がへんになる(?)。
たとえば私は、学生のとき、刑法学の教授に連れられて、
刑務所見学なるものをしたことがある。
あのとき見た刑務所が、そのままトラウマになってしまった。
だから今でも、ときどき、こう思う。
「私が悪いことをしないのは、犯罪者になるのが、こわいからではない。
ああいう部屋に閉じこめられるのが、こわいから」と。
刑務所のばあいは、(懲役と禁錮ではちがうが……)、外の世界との
つながりが、まだある。
しかしバスのような部屋の中では、それがない。
そんな中で、520日間!
私には、とんでもない実験である。
考えられない実験である。
この記事を読んだだけで、ぞっとした。
●疑問
記事を読んで、「窓ぐらい、つければよい……」と思った。
しかし宇宙では、見えるのは、こまかい星だけ。
窓があったところで、どうしようもない?
しかし火星に近づいたら、どうするのか?
窓の外を監視するカメラが故障したら、どうするのか?
高層マンションの高層階に住む母親ほど、マタニティ・ブルーに
なる確率が高くなるという調査結果もある。
「閉所」には、未知の問題が隠されている。
それを知るための実験ということらしいが、私は、ごめん!
それにしても、恐ろしい実験ではないか。
私はそう思った。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
*Japanese old men use words"Thanks, thanks", but for what?
●感謝(老人たちのよく使う言葉)
+++++++++++++++++
老人の中に、「感謝」という言葉を
よく使う人がいる。
「生きていること自体が、感謝」と。
「感謝! 感謝! 感謝!」と。
私の母も、晩年、「ありがとう」という
言葉をよく使った。
何かあると、すぐ、「ありがとう!」と。
「ありがとう! ありがとう!」と。
+++++++++++++++++
●違和感
ときとして人は、裏腹の言葉を繰り返すことによって、自分の心を
ごまかすことがある。
最初に私がそれに気づいたのは、10年ほど前のこと。
ある女性(当時、40歳くらい)が、電話で私にこう言った。
「私は、今の夫を、愛しています」と。
どこかのキリスト教系の、カルト教団に属している女性だった。
日本では、あまりそういう言い方をする人はいない。
そのため私は、その言葉に違和感を覚えた。
つぎにそれに気づいたのは、やはりある女性(当時、60歳くらい)と、
話していたときのこと。
その女性は、こちらが何も聞きもしないうちから、こう言った。
「私は、今の夫と結婚できて、よかったと思います」と。
そして何度も、「私の夫は、すばらしい人です」と。
●本心?
たまたまその両方の場面に、私のワイフも近くにいたので、あとで、
ワイフにこう聞いた。
私「お前なア、どこかの人に、『私は夫を愛しています』とか、
『私の夫はすばらしい人です』などと言ったことがあるか?」
ワ「・・・ないわねエ・・・」
私「だろ! ぼくも、ない」
ワ「でも、どうしてあんなこと、こちらが聞きもしないうちから、あの
人たちは、言うのかしら?」
私「そこなんだよな。人間の心理のおもしろいところは・・・」と。
私たち夫婦も、それなりに愛しあっているとは思う。
が、それでも、そんな言葉は、めったに使わない。
いわんや他人には、使わない。
私「自分の愛に不安を感ずるからではないかな?」
ワ「そうね。それをあえて打ち消すために、ああいう言葉を使うのよ」と。
●疑っているから、「信じている」と言う?
もう少しわかりやすい例に、若い人たちがよく使う、「愛している」
「私を信じて」「あなたを信じているわ」という言葉がある。
相手を愛していない、あるいは疑っているから、そういう言葉を使う。
相手を本当に愛していたり、信じていたら、そういう言葉は、口から
出てこない。
たとえば私のワイフが私に、「あなたを信じているわ」と言ったら、私は、
すかさず、こう解釈する。
「ワイフは、ぼくを疑っている。疑っているから、そういう言葉を
使うのだ」と。
ワ「友だちもこんなことを言っていたわ。2人の息子がいるんだけど、1人は、
いつも手紙に、『ぼくたち(夫婦)は仲よくやっています』と書いてくるそうよ」
私「ハハハ、それは喧嘩ばかりしているという意味だよ」
ワ「そうね。私もそう思うわ」
私「本当に夫婦が仲よくやっていたら、そんなことは書かない。仲よくやって
いないから、『仲よくやっている』と書く」と。
●裏の心
先の例で言えば、夫を愛しきれない何かがあるから、人には、「私は、今の夫を、
愛しています」と言う。
あるいは夫に対して、大きな不満を感じているから、「私の夫は、すばら
しい人です」と言う。
こういう現象を心理学の世界では、どう説明するのか。
しかしあのフロイトは、こんな興味深い言葉を残している。
「サナトス」と「リビドー」という言葉である。
サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと
教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。
この理論を応用すれば、こういうことも言える。
ひとつの感情を表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。
●武士道
ところで「死への欲求」とは何か?
わかりやすく言えば、「死ねば楽になる」と思うのが、その一例ということになる。
もう少し掘り下げて考えると、こうも解釈できる。
私たちが「生きたい」と思うのは、同時に「死にたい」という
欲求を、無意識のうちにも打ち消しているためとも考えられる。
「死」を恐怖と考えるのは、「死」そのものが恐怖だからではなく、
(もちろんその一部ではあるが・・・)、「死」へと自分を引きずりこんで
いくエネルギーに、恐怖感を覚えるため、と。
その恐怖感を打ち消すために、「生きたい」という言葉を口にする。
こうした感覚は、西洋人には理解しがたいものかもしれない。
しかし日本人の私たちには、意外と理解しやすい。
「死への欲求」というのは、たとえば日本の武士道に、それが象徴化
されている。
武士道では、「どう死ぬべきか」で、その人の生き様が決まる。
●裏腹の言葉
最初の話に戻る。
老人が、「感謝」とか「ありがとう」という言葉を使うときには、
2つの意味がある。
ひとつは、感謝できない状況、あるいは「ありがとう」と言えない
状況がその周辺にあることをいう。
つまり自分の置かれた状況に不満があり、その不満を裏返して、「感謝」
とか、「ありがとう」とかいう言葉を使う。
使って、自分の中にたまった不満をごまかす(?)。
もうひとつは、そう言いながら、相手に向かって、「感謝できるような
状況を作れ」とか、「ありがとうと言えるような状況を作れ」と要求して
いる。
つまり催促。
もちろん状況によっては、そうでないばあいもる。
本当に、本心から、そう言うべきケースもある。
が、そのばあいには、「自然さ」が伴う。
言われた方も、違和感を覚えない。
そうでないときは、そうでない。
どこか不自然。
何かヘン?
それを言うべきときでないときに、(まただれもそれを期待していないときに)、
そういった言葉を口に出して言う。
言われたほうが、ふと「?」に思う。
そういう言い方をする。
●結論
老人たちは、よくこれらの言葉を使う。
が、世界的にみても、こうした言葉をよく使うのは、日本の老人たちだけではないのか?
英語で、「I am in good health. Thanks, thanks.」などと書くと、書いただけで、
奇異な感じがする。
言い替えると、こうした言葉を、日本の老人たちは、無理に使いすぎる。
つまり無理をしている(?)。
だから……。
こと私に関して言えば、努めてこれらの言葉は使わないようにしたい。
意味もなく、「感謝」とか、「ありがとう」という言葉は、使いたくない。
たとえば今日も私は健康だ。
気力は弱くなった。
耐久力も弱くなった。
集中力も弱くなった。
しかし健康は、健康。
で、「私は健康だ。生きている。感謝!」などというようには、使いたくない。
だいたい、だれに対して感謝するのか?
「感謝の念を忘れるな」という意味では、「感謝」という言葉は、尊い。
しかしそれは自分に向かって使う言葉。
外の世界に向かって、表出する言葉ではない。
それにたまたま私は健康に恵まれている。
だから「感謝」という言葉を使えば使うほど、今、現在、病気と闘っている
人たちに、申し訳ない気分になる。
そのひとたちは、たまたま病気になっている。
そういう人たちは、どうなのか?
世を恨んでいるのか?
「恨んでいる」と言うべきなのか?
が、そういうことは、ありえない。
またそういうふうに、考えてはいけない。
……ちょっと考え過ぎかもしれないが、気になったので、老人たちがよく
使う「感謝」と「ありがとう」という言葉について、書いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 感謝 感謝の念 老人の言葉 老人心理 老人性心理 老人の感謝)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●閉所恐怖症(恐ろしい実験)
+++++++++++++++++
私なら、ぜったい「NO!」と断わる。
いくらお金を積まれても、できることと、
できないことがある。
私には、それができない!
そんな実験が、今度、ロシアで始まった。
何と、520日間も、窓のない部屋に
閉じこめられるという。
想像するだけで、ゾッとする。
私は、何を隠そう、閉所が苦手。
窓のない部屋に入っただけで、すぐ
息苦しさを覚える。
TBS-iニュースは、つぎのように
伝える(2010-6-4)。
+++++++++++++以下、TBS-iより+++++++++++++++++
ロシアの研究チームは3日、将来の有人火星飛行を見据え、地上に設置した宇宙船に6人の男性を520日間閉じ込める実験を開始しました。
「MARS‐500」と呼ばれるこの実験は、人を地上に設置した宇宙船の中だけで520日間生活をさせるものです。モスクワ西部に設置された模擬宇宙船は、バス9台分の広さがあり、書籍やトレーニングマシンなど生活に必要なものはすべてそろっていますが窓はありません。
将来の有人火星飛行を想定したこの実験では、火星への往復にかかるといわれる520日間を閉鎖された空間に隔離された際、精神や健康の状態に変化がないかを観察するといいます……。
+++++++++++++以上、TBS-iより+++++++++++++++++
●私なら……
私なら、数日で、気がへんになる(?)。
たとえば私は、学生のとき、刑法学の教授に連れられて、
刑務所見学なるものをしたことがある。
あのとき見た刑務所が、そのままトラウマになってしまった。
だから今でも、ときどき、こう思う。
「私が悪いことをしないのは、犯罪者になるのが、こわいからではない。
ああいう部屋に閉じこめられるのが、こわいから」と。
刑務所のばあいは、(懲役と禁錮ではちがうが……)、外の世界との
つながりが、まだある。
しかしバスのような部屋の中では、それがない。
そんな中で、520日間!
私には、とんでもない実験である。
考えられない実験である。
この記事を読んだだけで、ぞっとした。
●疑問
記事を読んで、「窓ぐらい、つければよい……」と思った。
しかし宇宙では、見えるのは、こまかい星だけ。
窓があったところで、どうしようもない?
しかし火星に近づいたら、どうするのか?
窓の外を監視するカメラが故障したら、どうするのか?
高層マンションの高層階に住む母親ほど、マタニティ・ブルーに
なる確率が高くなるという調査結果もある。
「閉所」には、未知の問題が隠されている。
それを知るための実験ということらしいが、私は、ごめん!
それにしても、恐ろしい実験ではないか。
私はそう思った。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
+++++++++++++++++
老人の中に、「感謝」という言葉を
よく使う人がいる。
「生きていること自体が、感謝」と。
「感謝! 感謝! 感謝!」と。
私の母も、晩年、「ありがとう」という
言葉をよく使った。
何かあると、すぐ、「ありがとう!」と。
「ありがとう! ありがとう!」と。
+++++++++++++++++
●違和感
ときとして人は、裏腹の言葉を繰り返すことによって、自分の心を
ごまかすことがある。
最初に私がそれに気づいたのは、10年ほど前のこと。
ある女性(当時、40歳くらい)が、電話で私にこう言った。
「私は、今の夫を、愛しています」と。
どこかのキリスト教系の、カルト教団に属している女性だった。
日本では、あまりそういう言い方をする人はいない。
そのため私は、その言葉に違和感を覚えた。
つぎにそれに気づいたのは、やはりある女性(当時、60歳くらい)と、
話していたときのこと。
その女性は、こちらが何も聞きもしないうちから、こう言った。
「私は、今の夫と結婚できて、よかったと思います」と。
そして何度も、「私の夫は、すばらしい人です」と。
●本心?
たまたまその両方の場面に、私のワイフも近くにいたので、あとで、
ワイフにこう聞いた。
私「お前なア、どこかの人に、『私は夫を愛しています』とか、
『私の夫はすばらしい人です』などと言ったことがあるか?」
ワ「・・・ないわねエ・・・」
私「だろ! ぼくも、ない」
ワ「でも、どうしてあんなこと、こちらが聞きもしないうちから、あの
人たちは、言うのかしら?」
私「そこなんだよな。人間の心理のおもしろいところは・・・」と。
私たち夫婦も、それなりに愛しあっているとは思う。
が、それでも、そんな言葉は、めったに使わない。
いわんや他人には、使わない。
私「自分の愛に不安を感ずるからではないかな?」
ワ「そうね。それをあえて打ち消すために、ああいう言葉を使うのよ」と。
●疑っているから、「信じている」と言う?
もう少しわかりやすい例に、若い人たちがよく使う、「愛している」
「私を信じて」「あなたを信じているわ」という言葉がある。
相手を愛していない、あるいは疑っているから、そういう言葉を使う。
相手を本当に愛していたり、信じていたら、そういう言葉は、口から
出てこない。
たとえば私のワイフが私に、「あなたを信じているわ」と言ったら、私は、
すかさず、こう解釈する。
「ワイフは、ぼくを疑っている。疑っているから、そういう言葉を
使うのだ」と。
ワ「友だちもこんなことを言っていたわ。2人の息子がいるんだけど、1人は、
いつも手紙に、『ぼくたち(夫婦)は仲よくやっています』と書いてくるそうよ」
私「ハハハ、それは喧嘩ばかりしているという意味だよ」
ワ「そうね。私もそう思うわ」
私「本当に夫婦が仲よくやっていたら、そんなことは書かない。仲よくやって
いないから、『仲よくやっている』と書く」と。
●裏の心
先の例で言えば、夫を愛しきれない何かがあるから、人には、「私は、今の夫を、
愛しています」と言う。
あるいは夫に対して、大きな不満を感じているから、「私の夫は、すばら
しい人です」と言う。
こういう現象を心理学の世界では、どう説明するのか。
しかしあのフロイトは、こんな興味深い言葉を残している。
「サナトス」と「リビドー」という言葉である。
サナトスというのは、「死への欲求」をいう。
リビドーというのは、「生(性)への欲求」をいう。
フロイトは、人間の感情にはつねに相反する2つのエネルギーが、同時に働くと
教える。
「生への欲求」があれば、当然、「死への欲求」もある、と。
この理論を応用すれば、こういうことも言える。
ひとつの感情を表出するときは、その裏で、その反対の感情が、心の内側に向かう、と。
「愛している」と口に出して言うときは、「愛していない」という感情が、同時に内側に
向かう。
あるいは「愛していない」という感情が内側に向かうときは、それを打ち消すために、
「愛している」という感情が、外側に向かう。
●武士道
ところで「死への欲求」とは何か?
わかりやすく言えば、「死ねば楽になる」と思うのが、その一例ということになる。
もう少し掘り下げて考えると、こうも解釈できる。
私たちが「生きたい」と思うのは、同時に「死にたい」という
欲求を、無意識のうちにも打ち消しているためとも考えられる。
「死」を恐怖と考えるのは、「死」そのものが恐怖だからではなく、
(もちろんその一部ではあるが・・・)、「死」へと自分を引きずりこんで
いくエネルギーに、恐怖感を覚えるため、と。
その恐怖感を打ち消すために、「生きたい」という言葉を口にする。
こうした感覚は、西洋人には理解しがたいものかもしれない。
しかし日本人の私たちには、意外と理解しやすい。
「死への欲求」というのは、たとえば日本の武士道に、それが象徴化
されている。
武士道では、「どう死ぬべきか」で、その人の生き様が決まる。
●裏腹の言葉
最初の話に戻る。
老人が、「感謝」とか「ありがとう」という言葉を使うときには、
2つの意味がある。
ひとつは、感謝できない状況、あるいは「ありがとう」と言えない
状況がその周辺にあることをいう。
つまり自分の置かれた状況に不満があり、その不満を裏返して、「感謝」
とか、「ありがとう」とかいう言葉を使う。
使って、自分の中にたまった不満をごまかす(?)。
もうひとつは、そう言いながら、相手に向かって、「感謝できるような
状況を作れ」とか、「ありがとうと言えるような状況を作れ」と要求して
いる。
つまり催促。
もちろん状況によっては、そうでないばあいもる。
本当に、本心から、そう言うべきケースもある。
が、そのばあいには、「自然さ」が伴う。
言われた方も、違和感を覚えない。
そうでないときは、そうでない。
どこか不自然。
何かヘン?
それを言うべきときでないときに、(まただれもそれを期待していないときに)、
そういった言葉を口に出して言う。
言われたほうが、ふと「?」に思う。
そういう言い方をする。
●結論
老人たちは、よくこれらの言葉を使う。
が、世界的にみても、こうした言葉をよく使うのは、日本の老人たちだけではないのか?
英語で、「I am in good health. Thanks, thanks.」などと書くと、書いただけで、
奇異な感じがする。
言い替えると、こうした言葉を、日本の老人たちは、無理に使いすぎる。
つまり無理をしている(?)。
だから……。
こと私に関して言えば、努めてこれらの言葉は使わないようにしたい。
意味もなく、「感謝」とか、「ありがとう」という言葉は、使いたくない。
たとえば今日も私は健康だ。
気力は弱くなった。
耐久力も弱くなった。
集中力も弱くなった。
しかし健康は、健康。
で、「私は健康だ。生きている。感謝!」などというようには、使いたくない。
だいたい、だれに対して感謝するのか?
「感謝の念を忘れるな」という意味では、「感謝」という言葉は、尊い。
しかしそれは自分に向かって使う言葉。
外の世界に向かって、表出する言葉ではない。
それにたまたま私は健康に恵まれている。
だから「感謝」という言葉を使えば使うほど、今、現在、病気と闘っている
人たちに、申し訳ない気分になる。
そのひとたちは、たまたま病気になっている。
そういう人たちは、どうなのか?
世を恨んでいるのか?
「恨んでいる」と言うべきなのか?
が、そういうことは、ありえない。
またそういうふうに、考えてはいけない。
……ちょっと考え過ぎかもしれないが、気になったので、老人たちがよく
使う「感謝」と「ありがとう」という言葉について、書いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 感謝 感謝の念 老人の言葉 老人心理 老人性心理 老人の感謝)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●閉所恐怖症(恐ろしい実験)
+++++++++++++++++
私なら、ぜったい「NO!」と断わる。
いくらお金を積まれても、できることと、
できないことがある。
私には、それができない!
そんな実験が、今度、ロシアで始まった。
何と、520日間も、窓のない部屋に
閉じこめられるという。
想像するだけで、ゾッとする。
私は、何を隠そう、閉所が苦手。
窓のない部屋に入っただけで、すぐ
息苦しさを覚える。
TBS-iニュースは、つぎのように
伝える(2010-6-4)。
+++++++++++++以下、TBS-iより+++++++++++++++++
ロシアの研究チームは3日、将来の有人火星飛行を見据え、地上に設置した宇宙船に6人の男性を520日間閉じ込める実験を開始しました。
「MARS‐500」と呼ばれるこの実験は、人を地上に設置した宇宙船の中だけで520日間生活をさせるものです。モスクワ西部に設置された模擬宇宙船は、バス9台分の広さがあり、書籍やトレーニングマシンなど生活に必要なものはすべてそろっていますが窓はありません。
将来の有人火星飛行を想定したこの実験では、火星への往復にかかるといわれる520日間を閉鎖された空間に隔離された際、精神や健康の状態に変化がないかを観察するといいます……。
+++++++++++++以上、TBS-iより+++++++++++++++++
●私なら……
私なら、数日で、気がへんになる(?)。
たとえば私は、学生のとき、刑法学の教授に連れられて、
刑務所見学なるものをしたことがある。
あのとき見た刑務所が、そのままトラウマになってしまった。
だから今でも、ときどき、こう思う。
「私が悪いことをしないのは、犯罪者になるのが、こわいからではない。
ああいう部屋に閉じこめられるのが、こわいから」と。
刑務所のばあいは、(懲役と禁錮ではちがうが……)、外の世界との
つながりが、まだある。
しかしバスのような部屋の中では、それがない。
そんな中で、520日間!
私には、とんでもない実験である。
考えられない実験である。
この記事を読んだだけで、ぞっとした。
●疑問
記事を読んで、「窓ぐらい、つければよい……」と思った。
しかし宇宙では、見えるのは、こまかい星だけ。
窓があったところで、どうしようもない?
しかし火星に近づいたら、どうするのか?
窓の外を監視するカメラが故障したら、どうするのか?
高層マンションの高層階に住む母親ほど、マタニティ・ブルーに
なる確率が高くなるという調査結果もある。
「閉所」には、未知の問題が隠されている。
それを知るための実験ということらしいが、私は、ごめん!
それにしても、恐ろしい実験ではないか。
私はそう思った。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
*Dyslexia & Alexia
●読み・書きのできない子どもたちと、その診断
+++++++++++++++++
日本人の5%前後、アメリカ人の
10~15%が、難読症もしくは
失読症と言われている。
+++++++++++++++++
【識字障害・文献資料】(「Brain -Mind Com.、アメリカの文献より)
http://brainmind.com/Dyslexia43.html
Dyslexia & Alexia
From: Neuropsychiatry, Neuropsychology, Clinical Neuroscience (Williams & Wilkins, 1996)
by Rhawn Joseph, Ph.D.
Dyslexia(難読症) & Alexia(失読症)
The Inability to Read (読むことができない人たち)
Dyslexia is a disturbances in the ability to read, whereas alexia refers to a complete loss of reading ability. In general, whereas dyslexia is primarily a congenital disturbance, alexia is an acquired disorder and is due to a neurological injury generally in the vicinity of the temporal, occipital, parietal lobe. ALEXIA
難読症というのは、読解力が混乱した状態をいう。
失読症というのは、読解力が完全に欠落した状態をいう。
There are a variety of theories which purport to explain the mechanisms involved in reading and the comprehension of written language. Reading, of course, requires activation of the visual areas in the occipital and temporal lobes, so that the symbolic form of the letter or word is perceived, which in turn enables the viewer to determine that the form is a letter or a series of letters making up a word.
However, not only must letters or groups of letters be recognized and their temporal order ascertained (referred to as "orthographic" processing); but there must be semantic processing. That is, the letters and words are perceived and then the relation of a series of letters or words to each other are recognized so that the meaning of the word or sentence can be derived.
Words are not only seen and thus read, but the sound of the written word, as it is read (or written) may "be heared" within the privacy of one's head. This is referred to as the "phonological" aspect of reading.
The phonological stages of reading and linguistic analysis involves activation of Wernicke's receptive speech area (in the temporal lobe) and Broca's expressive speech area (in the frontal lobe). In some cases, individuals will move their lips as they read, which is due to activation and participation of Broca's area which programs the oral musculature for the purposes of speech.
Yet another region of the brain that contributes significantly to reading ability is the inferior parietal lobe (IPL). The IPL becomes highly active when reading, as demonstrated by functional imaging (Demonet, et al., 1994; Paulesu, et al., 1993; Price, 1997).
Different regions of the brain, therefore, interact during various stages of reading, such that in consequence, abnormalities of or lesions to different areas can result in different types of reading abnormalities.
For example, a small lesion to one area of the brain, may result in an inability to recognize sentences or long words, whereas the ability to recognize letters and short words remains intact. With damage to yet another brain area, the patient may suffer fraom an inability to derive semantic meaning from words once they are read.
In some cases,the patient may lose the ability to read, but retains the ability to write, and can spell and write the very words he cannot read. (Coltheart, 1998; Miceli et al., 1999; Miozzo & Caramazza, 1998; Goodglass & Kaplan, 2000).
For example, injuries the left IPL can disrupt the ability to read and spell. This is because the IPL matches auditory images to visual images and associates both so as to form multimodal concepts including those necessary for reading and the comprehension of written language. However, this disorder is due not only to IPL damage, but to disconnection from the occipital and temporal lobes which perform visual and auditory functions.
Damage to the IPL or to the superior temporal lobe, can also disrupt the ability to spell by sound and to engage in phonological processing, such that patients can no longer hear (in their head) the sound of the words they are reading, nor can they match the sounds they hear to the visual-motor components of reading (the generation and comprehension of visual symbols, i.e. words and letters).
The Loss of the ability to engage in phonological processing or to spell by sound is a common feature of dyslexia and alexia (Brady & Shankweiler, 1991; Miceli et al., 1999) and is common with middle temporal lobe injuries.
Injuries to Wernicke's area (and thus the left superior temporal lobe) also disrupts reading, writing, and all aspects of linguistic comprehension. Not only is reading compromised but patients may lose the ability to comprehend spoken language.
Individuals diagnosed as suffering from developmental dyslexia have frequently been found to have abnormalities in temporal lobe and IPL , 1997) as well as in the IPL and left superior temporal lobe (Denays et al., 1989; Galaburda et al., 1985); Rumsey et al., 1992; Tzourio et al.,1994). The IPL and the temporal lobe thus appear to be the primary structures involved in reading.
The IPL, middle temporal lobe, and Wernicke's area are richly interconnected, and in some respects coextensive. These areas are also linked to Broca's Expressive speech area and the frontal motor areas, which is why some people move their lips when they read.
THE NEUROLOGY OF READING.
(神経病学からの考察)
From a neurodynamic perspective the process of reading involves the perception and analysis of visual impulses in the primary and association visual receiving areas (in the occipital lobes). This information is next transferred to the visual association cortex where higher level information processing is carried out and visual associations formed. These visual associations are next transmitted to a variety of areas (Haxby, et al., 1991; Peterson, et al., 1988, 1990; Price, 1997; Zeki, 1997) including Broca's and Wernicke's area, the inferior and middle temporal lobe and the IPL. It is in these latter cortical regions where multimodal and linguistic assimilation take place so that the auditory equivalent of the visual stimulus may be retrieved. That is, via these interactions visual grapheme clusters become translated into phonological sound images. In this manner we know what a written word looks and sounds like. It is also possible, however, to bypass this phonological transcoding phase so that word meanings can be directly accessed (i.e. lexical reading).
THE DEVELOPMENT OF READING.
(読解力の発達)
It is generally believed, in learning to read, that visual symbols are recognized as graphemes (letters) and that these graphemes are decoded and then converted to phonemes (via the IPL which performs an auditory matching function), i.e. phonological analysis. In this manner, the child learns to associate written symbols with spoken words.
This requires that written (and verbal) language also be broken down into syllables and phonemes so that auditory-visual associations can be made; i.e. "phonological awareness." The sound of the word is matched with its visual image.
The greater a child's phonological awareness, the greater is their reading ability (Brady & Shankweiler, 1991).
Presumably, it is only after the child develops their phonological awareness, and after increased experience with reading, that they are able to bypass the phonological transcoding phase and engage in lexical reading. Thus, as the childs ages and learns to read, phonological processing becomes subsumed and employed only secondarily when confronted with unfamiliar words.
THE NEUROLOGY OF READING
Although it is likely that most individuals utilize both lexical and phonological strategies when reading, in either case the temporal-parietal-occipital lobes are all implicated. These structures all participate, to varying degrees in phonological and lexical processing. Indeed, as demonstrated through functional imaging, reading activates Wernicke's area and the left posterior temporal lobe (Bookheimer, et al., 1995; Howard et al., 199), including the supramarginal gyrus (Bookheimer, et al., 1995), and angular gyrus (Price, 1997), the latter structures comprising the inferior parietal lobe. Conversely lesions to these different areas produce alexic disturbances.
SUBTYPES OF ALEXIA AND DYSLEXIA DEPEND ON LESION SITE
(障害部位の違いによる、別の種類の難読症、失読症)
With lesions of the angular gyrus, or when damage occurs between the fiber pathways linking the left inferior parietal lobule with the visual cortex (i.e. disconnection), patients may suffer from Pure Word Blindness--also referred to as Pure Alexia (Coltheart 1998; Miozzo & Caramazza, 1998). Patients can see without difficulty, but are unable to recognize written language. Written words evoke no meaning.
However, because the left posterior basal temporal lobe is a convergence zone for visual, auditory, and tactile information, and becomes activated during a variety of language tasks, including reading and object and letter naming (Buchel et al., 1998; Price, 1997), if injured, patients may suffer from reading and naming deficits (Rapcsak, et al., 1987); a condition referred to as phonological alexia. Moreover, patients with developmental dyslexia have been found to have abnormalities in this latter area (Rumsey et al., 1997).
Thus there are several subtypes of reading disturbances which may occur with left cerebral damage or congenital disturbances involving these tissues (Coltheart 1998; Miceli et al., 1999; Miozzo & Caramazza, 1998). These include literal, verbal, and global alexia, and alexia for sentences, as well as developmental dyslexia. In addition, alexia can sometimes result from right hemisphere lesions, a condition referred to as Spatial Alexia. All these disorders, however, are acquired and should be distinguished from developmental dyslexia which is present since childhood (see Njiokiktjien, 1988).
DEVELOPMENTAL DYSLEXIA
Developmental dyslexia is one of the most common of all learning disabilities, effecting up to 8% of the school aged population. There is an obvious genetic foundation to this disorder, as is evident from the high familial risk rates that range from 35% to 45% (Smith et al., 1990) and many of these children suffered from even more profound language disorders during their preschool years, e.g. developmental dysphasia. Developmental dysphasias affect from 8% to 15% of all preschool children and most of these children, even as they acquire language, continue to suffer severe disturbances in reading and spelling (Aram et al. 1984); a function, in part, of not only brain abnormalities, but persisting deficits in phonological processing.
Congenital disturbances involving these tissues (dysplasia, ectopias), including the middle temporal lobes, the perisylvian regions and the planum temporal, are associated with developmental dyslexia (Galaburda et al., 1985). Using functional imaging, Rumsey et al. (1992) and Tzourio et al., (1994) found that dyslexic children failed to activate the left temporal-parietal cortex when engaged in word tasks, whereas Denays et al. (1989) found hypoperfusion in this same area.
PURE WORD BLINDESS. ALEXIA WITHOUT AGRAPHA
(文字表出能力障害を伴わない、失読症)
Pure alexia, or alexia without agraphia (due to the preservation of the ability to write) is a condition where patients are unable to read written words, or even recognize single letters (Coltheart 1998; Miozzo & Caramazza, 1998). However, if words are spelled out loud, they have little difficulty with comprehension (due to intact pathways from Wernicke's to the angular gyrus). Moreover, they are able to speak, spell as well as write without difficulty. Nevertheless, although able to write, they are unable to read what they have written.
In general, the lesion appears to be between the left angular gyrus and the occipital lobe (in the arterial distribution of the left posterior cerebral artery), and extends to within the splenium of the corpus callosum (Benson, 1979; Vignolo, 1983) which prevents right hemisphere visual input from being transferred to the inferior parietal lobe of the left half of the brain. Sometimes this condition is due to a tumor or following a head injury accompanied by a hemotoma involving the white matter underlying the inferior parietal lobule (Greenblatt, 1983) and or the temporal-parietal cortex (Rumsey et al. 1992). In these instances the left angular gyrus is unable to receive visual input from the left and right visual cortex and visual input cannot be linguistically translated. The patient cannot gain access to the auditory equivalent of a written word.
Although unable to read written language, this syndrome is not always accompanied by a visual field defect (hemianopsia). Moreover, objects may be named correctly (Hecaen & Kremimin, 1977). However, patients may suffer from color agnosia (Benson & Geschwind, 1969), i.e. an inability to correctly name colors. There is often (but not always) an inability to copy written material (because of disconnection from the visual areas) and many patients have difficulty performing math problems. In some cases the patient suffers not only pure word blindness but blindness for numbers as well.
This condition has been described as Global Alexia by some authors. However, global alexia is a more pervasive disorder in which the ability to write (agraphia) and name objects is also compromised.
ALEXIA FOR SENTENCES
(長い文章の失読症)
Patients suffering from alexia for sentences are able to read letters and single words but are unable to comprehend sentences. However, patients may have difficulty with unfamiliar or particularly long words whereas more familiar material is easily understood. Lesions are usually localized within the dominant occipital lobe but may extend into the inferior parietal area.
VERBAL ALEXIA
When patienta are able to read and recognize letters but are unable to comprehend or recognize whole words they are said to be suffering from verbal alexia. However, if presented with short words their reading ability improves. Hence, the longer the word the greater the difficulty reading (Hecaen & Albert, 1978). Verbal alexia usually results from lesion involving the dominant medial occipital lobe (Hecaen & ALbert, 1978; Hecaen & Kremin, 1977).
LITERAL/FRONTAL ALEXIA
When the patient is unable to recognize or read letters this is referred to as Pure Letter Blindness. Pateints are usually unable to read by spelling a word out loud, and the abilty to read numbers and even musical notion is often disturbed. Some authors have attributed literal alexia to left inferior occipital lesions (Hecaen & Kremin, 1977).
This disorder has also been referred to as Frontal Alexia. This is because individuals with Broca's aphasia or lesions involving the left frontal convexity have difficulty reading aloud, and have the most difficulty with single letters rather than whole words (Benson, 1977).
SPATIAL ALEXIA
Spatial alexia is associated predominantly with right hemisphere lesions. In part this disorder is due to visual-spatial abnormalities including neglect and inattention. That is, with right cerebral lesions the patient may fail to read the left half of words or sentences, and may in fact fail to perceive or respond to the entire left half of a written page.
Right posterior injuries may also give rise to spatial disorientation such that the patient is unable to properly visually track and keep place, their eyes darting half hazzardly across the page. For example, they may skip to the wrong line. Spatial alexia may also result from left cerebral injuries in which case it is the right half of letters, words and sentences which are ignored (Marshall & Newcomb, 1973). Indeed, patients not only ignore words, but sometimes the left half of the bodies and the entire left half of visual space. Hence if they are presented with the words "help me"they may only see help. Of if they read: "toothbrush" they may only see the word "tooth." However, if they were presented only with the word "tooth" they would see only "too." This latter form of spatial alexia is thus really a subtype of generalized left sided neglect and is common with right cerebral injuries.
【識字障害の診断基準】(ウィキペディア百科事典・英語版より)
Pre-school age children(就学前幼児)
It is difficult to obtain a certain diagnosis of dyslexia before a child begins school, but many dyslexic individuals have a history of difficulties that began well before kindergarten. Children who exhibit these symptoms have a higher risk of being diagnosed as dyslexic than other children. Some of these symptoms are:
就学前の子どもについて、難読症(dyslexia)の一定の診断をくだすのは、むずかしい。
しかし多くの難読症の子どもは、幼稚園へ入園する前に、何らかの問題を示すことがある。
以下の兆候を示す子どもは、他の子どもと比べて、将来、難読症と診断される可能性が高い。
その兆候について。
【幼児期】
• Delays in speech
• 言葉の発達の遅れ。
• Learns new words slowly
• 新しい言葉を学ぶのが遅い。
• Has difficulty rhyming words, as in nursery rhymes
• 話す言葉がどこかぎこちない。ぎこちなさを感ずる。
• Low letter knowledge
• 文字について能力が遅れる。
• Letter reversal, ex: e b f p (normal)
• 鏡文字を書く。
【学童期】
Early primary school-age children(小学低学年児)
• Difficulty learning the alphabet or in order
• アルファベットを学ぶのが困難。
• Difficulty with associating sounds with the letters that represent them (sound-symbol correspondence)
• その音を示す、文字と音を組み合わせるのが困難。
• Difficulty identifying or generating rhyming words, or counting syllables in words (phonological awareness)
• 文字を認識し、なめらかに文字を読むのが困難、あるいは単語の中の音節を数えるのが困難。
• Difficulty segmenting words into individual sounds, or blending sounds to make words (phonemic awareness)
• 単語をそれぞれの音に分離するのが困難。あるいは単語を作るため、音を混ぜるのが困難。
• Difficulty with word retrieval or naming problems
• 言葉の訂正が困難、あるいはものと名前の結びつけるのが困難。
• Difficulty learning to decode written words
• 表記文字を理解するのが困難。
• Difficulty distinguishing between similar sounds in words; mixing up sounds in multisyllable words (auditory discrimination) (for example, "aminal" for animal, "bisghetti" for spaghetti)
• 単語の中の同じような音を区別するのが困難;たとえば「動物(どうぶつ)」を、「どうふづ」、「スパゲッティ」を「ビスゲッティ」と読むように、音節の多い単語の音を混ぜてしまう。
【後期学童期】(小学、高学年児)
Older primary school children
• Slow or inaccurate reading, although these individuals can read to an extent.
• ある程度は読むことができるが、読むのが遅く、不正確。
• Very poor spelling
• 綴りが苦手。
• Difficulty reading out loud, reads word in the wrong order, skips words and sometimes says a word similar to another word (auditory processing disorder)
• 大きな声で読むのが困難。前後の単語を入れ替えて読む、単語を飛ばす、あるいはほかの似たような単語に置き換えて文章を読む。
• Difficulty associating individual words with their correct meanings
• それぞれの単語を、正しい意味と結びつけるのが困難。
• Difficulty with time keeping and concept of time, when doing a certain task
• 何かの作業をしているとき、時間を守るのが困難。時間の概念がない。
• Difficulty with organization skills (working memory)
• 系統立てて作業するのが困難。
• Children with dyslexia may fail to see (and occasionally to hear) similarities and differences in letters and words, may not recognize the spacing that organizes letters into separate words, and may be unable to sound out the pronunciation of an unfamiliar word. (auditory processing disorder)
• 難読症の子どもは、文や単語の中の類似性や相違性を判断することができない。文章の中の単語がスペース(空白)で区切られていることを認識することができない。新しく出会った単語のようなばあい、それを発音することができない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 失読症 難読症 識字障害 文字表出能力障害 Dyslexia Alexia ディスレクシア アレクシア)
+++++++++++++++++
日本人の5%前後、アメリカ人の
10~15%が、難読症もしくは
失読症と言われている。
+++++++++++++++++
【識字障害・文献資料】(「Brain -Mind Com.、アメリカの文献より)
http://brainmind.com/Dyslexia43.html
Dyslexia & Alexia
From: Neuropsychiatry, Neuropsychology, Clinical Neuroscience (Williams & Wilkins, 1996)
by Rhawn Joseph, Ph.D.
Dyslexia(難読症) & Alexia(失読症)
The Inability to Read (読むことができない人たち)
Dyslexia is a disturbances in the ability to read, whereas alexia refers to a complete loss of reading ability. In general, whereas dyslexia is primarily a congenital disturbance, alexia is an acquired disorder and is due to a neurological injury generally in the vicinity of the temporal, occipital, parietal lobe. ALEXIA
難読症というのは、読解力が混乱した状態をいう。
失読症というのは、読解力が完全に欠落した状態をいう。
There are a variety of theories which purport to explain the mechanisms involved in reading and the comprehension of written language. Reading, of course, requires activation of the visual areas in the occipital and temporal lobes, so that the symbolic form of the letter or word is perceived, which in turn enables the viewer to determine that the form is a letter or a series of letters making up a word.
However, not only must letters or groups of letters be recognized and their temporal order ascertained (referred to as "orthographic" processing); but there must be semantic processing. That is, the letters and words are perceived and then the relation of a series of letters or words to each other are recognized so that the meaning of the word or sentence can be derived.
Words are not only seen and thus read, but the sound of the written word, as it is read (or written) may "be heared" within the privacy of one's head. This is referred to as the "phonological" aspect of reading.
The phonological stages of reading and linguistic analysis involves activation of Wernicke's receptive speech area (in the temporal lobe) and Broca's expressive speech area (in the frontal lobe). In some cases, individuals will move their lips as they read, which is due to activation and participation of Broca's area which programs the oral musculature for the purposes of speech.
Yet another region of the brain that contributes significantly to reading ability is the inferior parietal lobe (IPL). The IPL becomes highly active when reading, as demonstrated by functional imaging (Demonet, et al., 1994; Paulesu, et al., 1993; Price, 1997).
Different regions of the brain, therefore, interact during various stages of reading, such that in consequence, abnormalities of or lesions to different areas can result in different types of reading abnormalities.
For example, a small lesion to one area of the brain, may result in an inability to recognize sentences or long words, whereas the ability to recognize letters and short words remains intact. With damage to yet another brain area, the patient may suffer fraom an inability to derive semantic meaning from words once they are read.
In some cases,the patient may lose the ability to read, but retains the ability to write, and can spell and write the very words he cannot read. (Coltheart, 1998; Miceli et al., 1999; Miozzo & Caramazza, 1998; Goodglass & Kaplan, 2000).
For example, injuries the left IPL can disrupt the ability to read and spell. This is because the IPL matches auditory images to visual images and associates both so as to form multimodal concepts including those necessary for reading and the comprehension of written language. However, this disorder is due not only to IPL damage, but to disconnection from the occipital and temporal lobes which perform visual and auditory functions.
Damage to the IPL or to the superior temporal lobe, can also disrupt the ability to spell by sound and to engage in phonological processing, such that patients can no longer hear (in their head) the sound of the words they are reading, nor can they match the sounds they hear to the visual-motor components of reading (the generation and comprehension of visual symbols, i.e. words and letters).
The Loss of the ability to engage in phonological processing or to spell by sound is a common feature of dyslexia and alexia (Brady & Shankweiler, 1991; Miceli et al., 1999) and is common with middle temporal lobe injuries.
Injuries to Wernicke's area (and thus the left superior temporal lobe) also disrupts reading, writing, and all aspects of linguistic comprehension. Not only is reading compromised but patients may lose the ability to comprehend spoken language.
Individuals diagnosed as suffering from developmental dyslexia have frequently been found to have abnormalities in temporal lobe and IPL , 1997) as well as in the IPL and left superior temporal lobe (Denays et al., 1989; Galaburda et al., 1985); Rumsey et al., 1992; Tzourio et al.,1994). The IPL and the temporal lobe thus appear to be the primary structures involved in reading.
The IPL, middle temporal lobe, and Wernicke's area are richly interconnected, and in some respects coextensive. These areas are also linked to Broca's Expressive speech area and the frontal motor areas, which is why some people move their lips when they read.
THE NEUROLOGY OF READING.
(神経病学からの考察)
From a neurodynamic perspective the process of reading involves the perception and analysis of visual impulses in the primary and association visual receiving areas (in the occipital lobes). This information is next transferred to the visual association cortex where higher level information processing is carried out and visual associations formed. These visual associations are next transmitted to a variety of areas (Haxby, et al., 1991; Peterson, et al., 1988, 1990; Price, 1997; Zeki, 1997) including Broca's and Wernicke's area, the inferior and middle temporal lobe and the IPL. It is in these latter cortical regions where multimodal and linguistic assimilation take place so that the auditory equivalent of the visual stimulus may be retrieved. That is, via these interactions visual grapheme clusters become translated into phonological sound images. In this manner we know what a written word looks and sounds like. It is also possible, however, to bypass this phonological transcoding phase so that word meanings can be directly accessed (i.e. lexical reading).
THE DEVELOPMENT OF READING.
(読解力の発達)
It is generally believed, in learning to read, that visual symbols are recognized as graphemes (letters) and that these graphemes are decoded and then converted to phonemes (via the IPL which performs an auditory matching function), i.e. phonological analysis. In this manner, the child learns to associate written symbols with spoken words.
This requires that written (and verbal) language also be broken down into syllables and phonemes so that auditory-visual associations can be made; i.e. "phonological awareness." The sound of the word is matched with its visual image.
The greater a child's phonological awareness, the greater is their reading ability (Brady & Shankweiler, 1991).
Presumably, it is only after the child develops their phonological awareness, and after increased experience with reading, that they are able to bypass the phonological transcoding phase and engage in lexical reading. Thus, as the childs ages and learns to read, phonological processing becomes subsumed and employed only secondarily when confronted with unfamiliar words.
THE NEUROLOGY OF READING
Although it is likely that most individuals utilize both lexical and phonological strategies when reading, in either case the temporal-parietal-occipital lobes are all implicated. These structures all participate, to varying degrees in phonological and lexical processing. Indeed, as demonstrated through functional imaging, reading activates Wernicke's area and the left posterior temporal lobe (Bookheimer, et al., 1995; Howard et al., 199), including the supramarginal gyrus (Bookheimer, et al., 1995), and angular gyrus (Price, 1997), the latter structures comprising the inferior parietal lobe. Conversely lesions to these different areas produce alexic disturbances.
SUBTYPES OF ALEXIA AND DYSLEXIA DEPEND ON LESION SITE
(障害部位の違いによる、別の種類の難読症、失読症)
With lesions of the angular gyrus, or when damage occurs between the fiber pathways linking the left inferior parietal lobule with the visual cortex (i.e. disconnection), patients may suffer from Pure Word Blindness--also referred to as Pure Alexia (Coltheart 1998; Miozzo & Caramazza, 1998). Patients can see without difficulty, but are unable to recognize written language. Written words evoke no meaning.
However, because the left posterior basal temporal lobe is a convergence zone for visual, auditory, and tactile information, and becomes activated during a variety of language tasks, including reading and object and letter naming (Buchel et al., 1998; Price, 1997), if injured, patients may suffer from reading and naming deficits (Rapcsak, et al., 1987); a condition referred to as phonological alexia. Moreover, patients with developmental dyslexia have been found to have abnormalities in this latter area (Rumsey et al., 1997).
Thus there are several subtypes of reading disturbances which may occur with left cerebral damage or congenital disturbances involving these tissues (Coltheart 1998; Miceli et al., 1999; Miozzo & Caramazza, 1998). These include literal, verbal, and global alexia, and alexia for sentences, as well as developmental dyslexia. In addition, alexia can sometimes result from right hemisphere lesions, a condition referred to as Spatial Alexia. All these disorders, however, are acquired and should be distinguished from developmental dyslexia which is present since childhood (see Njiokiktjien, 1988).
DEVELOPMENTAL DYSLEXIA
Developmental dyslexia is one of the most common of all learning disabilities, effecting up to 8% of the school aged population. There is an obvious genetic foundation to this disorder, as is evident from the high familial risk rates that range from 35% to 45% (Smith et al., 1990) and many of these children suffered from even more profound language disorders during their preschool years, e.g. developmental dysphasia. Developmental dysphasias affect from 8% to 15% of all preschool children and most of these children, even as they acquire language, continue to suffer severe disturbances in reading and spelling (Aram et al. 1984); a function, in part, of not only brain abnormalities, but persisting deficits in phonological processing.
Congenital disturbances involving these tissues (dysplasia, ectopias), including the middle temporal lobes, the perisylvian regions and the planum temporal, are associated with developmental dyslexia (Galaburda et al., 1985). Using functional imaging, Rumsey et al. (1992) and Tzourio et al., (1994) found that dyslexic children failed to activate the left temporal-parietal cortex when engaged in word tasks, whereas Denays et al. (1989) found hypoperfusion in this same area.
PURE WORD BLINDESS. ALEXIA WITHOUT AGRAPHA
(文字表出能力障害を伴わない、失読症)
Pure alexia, or alexia without agraphia (due to the preservation of the ability to write) is a condition where patients are unable to read written words, or even recognize single letters (Coltheart 1998; Miozzo & Caramazza, 1998). However, if words are spelled out loud, they have little difficulty with comprehension (due to intact pathways from Wernicke's to the angular gyrus). Moreover, they are able to speak, spell as well as write without difficulty. Nevertheless, although able to write, they are unable to read what they have written.
In general, the lesion appears to be between the left angular gyrus and the occipital lobe (in the arterial distribution of the left posterior cerebral artery), and extends to within the splenium of the corpus callosum (Benson, 1979; Vignolo, 1983) which prevents right hemisphere visual input from being transferred to the inferior parietal lobe of the left half of the brain. Sometimes this condition is due to a tumor or following a head injury accompanied by a hemotoma involving the white matter underlying the inferior parietal lobule (Greenblatt, 1983) and or the temporal-parietal cortex (Rumsey et al. 1992). In these instances the left angular gyrus is unable to receive visual input from the left and right visual cortex and visual input cannot be linguistically translated. The patient cannot gain access to the auditory equivalent of a written word.
Although unable to read written language, this syndrome is not always accompanied by a visual field defect (hemianopsia). Moreover, objects may be named correctly (Hecaen & Kremimin, 1977). However, patients may suffer from color agnosia (Benson & Geschwind, 1969), i.e. an inability to correctly name colors. There is often (but not always) an inability to copy written material (because of disconnection from the visual areas) and many patients have difficulty performing math problems. In some cases the patient suffers not only pure word blindness but blindness for numbers as well.
This condition has been described as Global Alexia by some authors. However, global alexia is a more pervasive disorder in which the ability to write (agraphia) and name objects is also compromised.
ALEXIA FOR SENTENCES
(長い文章の失読症)
Patients suffering from alexia for sentences are able to read letters and single words but are unable to comprehend sentences. However, patients may have difficulty with unfamiliar or particularly long words whereas more familiar material is easily understood. Lesions are usually localized within the dominant occipital lobe but may extend into the inferior parietal area.
VERBAL ALEXIA
When patienta are able to read and recognize letters but are unable to comprehend or recognize whole words they are said to be suffering from verbal alexia. However, if presented with short words their reading ability improves. Hence, the longer the word the greater the difficulty reading (Hecaen & Albert, 1978). Verbal alexia usually results from lesion involving the dominant medial occipital lobe (Hecaen & ALbert, 1978; Hecaen & Kremin, 1977).
LITERAL/FRONTAL ALEXIA
When the patient is unable to recognize or read letters this is referred to as Pure Letter Blindness. Pateints are usually unable to read by spelling a word out loud, and the abilty to read numbers and even musical notion is often disturbed. Some authors have attributed literal alexia to left inferior occipital lesions (Hecaen & Kremin, 1977).
This disorder has also been referred to as Frontal Alexia. This is because individuals with Broca's aphasia or lesions involving the left frontal convexity have difficulty reading aloud, and have the most difficulty with single letters rather than whole words (Benson, 1977).
SPATIAL ALEXIA
Spatial alexia is associated predominantly with right hemisphere lesions. In part this disorder is due to visual-spatial abnormalities including neglect and inattention. That is, with right cerebral lesions the patient may fail to read the left half of words or sentences, and may in fact fail to perceive or respond to the entire left half of a written page.
Right posterior injuries may also give rise to spatial disorientation such that the patient is unable to properly visually track and keep place, their eyes darting half hazzardly across the page. For example, they may skip to the wrong line. Spatial alexia may also result from left cerebral injuries in which case it is the right half of letters, words and sentences which are ignored (Marshall & Newcomb, 1973). Indeed, patients not only ignore words, but sometimes the left half of the bodies and the entire left half of visual space. Hence if they are presented with the words "help me"they may only see help. Of if they read: "toothbrush" they may only see the word "tooth." However, if they were presented only with the word "tooth" they would see only "too." This latter form of spatial alexia is thus really a subtype of generalized left sided neglect and is common with right cerebral injuries.
【識字障害の診断基準】(ウィキペディア百科事典・英語版より)
Pre-school age children(就学前幼児)
It is difficult to obtain a certain diagnosis of dyslexia before a child begins school, but many dyslexic individuals have a history of difficulties that began well before kindergarten. Children who exhibit these symptoms have a higher risk of being diagnosed as dyslexic than other children. Some of these symptoms are:
就学前の子どもについて、難読症(dyslexia)の一定の診断をくだすのは、むずかしい。
しかし多くの難読症の子どもは、幼稚園へ入園する前に、何らかの問題を示すことがある。
以下の兆候を示す子どもは、他の子どもと比べて、将来、難読症と診断される可能性が高い。
その兆候について。
【幼児期】
• Delays in speech
• 言葉の発達の遅れ。
• Learns new words slowly
• 新しい言葉を学ぶのが遅い。
• Has difficulty rhyming words, as in nursery rhymes
• 話す言葉がどこかぎこちない。ぎこちなさを感ずる。
• Low letter knowledge
• 文字について能力が遅れる。
• Letter reversal, ex: e b f p (normal)
• 鏡文字を書く。
【学童期】
Early primary school-age children(小学低学年児)
• Difficulty learning the alphabet or in order
• アルファベットを学ぶのが困難。
• Difficulty with associating sounds with the letters that represent them (sound-symbol correspondence)
• その音を示す、文字と音を組み合わせるのが困難。
• Difficulty identifying or generating rhyming words, or counting syllables in words (phonological awareness)
• 文字を認識し、なめらかに文字を読むのが困難、あるいは単語の中の音節を数えるのが困難。
• Difficulty segmenting words into individual sounds, or blending sounds to make words (phonemic awareness)
• 単語をそれぞれの音に分離するのが困難。あるいは単語を作るため、音を混ぜるのが困難。
• Difficulty with word retrieval or naming problems
• 言葉の訂正が困難、あるいはものと名前の結びつけるのが困難。
• Difficulty learning to decode written words
• 表記文字を理解するのが困難。
• Difficulty distinguishing between similar sounds in words; mixing up sounds in multisyllable words (auditory discrimination) (for example, "aminal" for animal, "bisghetti" for spaghetti)
• 単語の中の同じような音を区別するのが困難;たとえば「動物(どうぶつ)」を、「どうふづ」、「スパゲッティ」を「ビスゲッティ」と読むように、音節の多い単語の音を混ぜてしまう。
【後期学童期】(小学、高学年児)
Older primary school children
• Slow or inaccurate reading, although these individuals can read to an extent.
• ある程度は読むことができるが、読むのが遅く、不正確。
• Very poor spelling
• 綴りが苦手。
• Difficulty reading out loud, reads word in the wrong order, skips words and sometimes says a word similar to another word (auditory processing disorder)
• 大きな声で読むのが困難。前後の単語を入れ替えて読む、単語を飛ばす、あるいはほかの似たような単語に置き換えて文章を読む。
• Difficulty associating individual words with their correct meanings
• それぞれの単語を、正しい意味と結びつけるのが困難。
• Difficulty with time keeping and concept of time, when doing a certain task
• 何かの作業をしているとき、時間を守るのが困難。時間の概念がない。
• Difficulty with organization skills (working memory)
• 系統立てて作業するのが困難。
• Children with dyslexia may fail to see (and occasionally to hear) similarities and differences in letters and words, may not recognize the spacing that organizes letters into separate words, and may be unable to sound out the pronunciation of an unfamiliar word. (auditory processing disorder)
• 難読症の子どもは、文や単語の中の類似性や相違性を判断することができない。文章の中の単語がスペース(空白)で区切られていることを認識することができない。新しく出会った単語のようなばあい、それを発音することができない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 失読症 難読症 識字障害 文字表出能力障害 Dyslexia Alexia ディスレクシア アレクシア)
2010年6月3日木曜日
*Brain *How to live as young old man
【脳みそ問題】
●ファイルの暗号化
話せば長くなる。
説明するのも、めんどう。
要するに、昨日(6月1日)から、HP(ホームページ)の
アプロードが、突然、できなくなった。
サーバーのほうで、「今後は、暗号化されていないファイルは
受け付けない」と言い出した。
今、流行しているガンブラーというウィルス対策のため、とか。
で、あわてて昨日、FAというソフトをダウンロードした。
ファイルを一度、暗号化するソフトである。
が、説明書どおり作業してみたが、エラーの連続。
昨夜は午前1時ごろまで悪戦苦闘を繰り返したが、そのあたりでギブアップ。
●頭重
おかげで今朝は、起きたときから頭が重かった。
その前に目を覚ましたあと、ふとんの中であれこれ、考えた。
どこかで操作方法を誤っているはず。
それを考えた。
考えたが、わからない。
FAというソフトは、外国のソフト。
日本語も専門用語が多くて、読んでもよくわからない。
「プロキシー」「リモートディレクトリー」「同期プラウズ」などなど。
そんな言葉が、ズラリと並ぶ。
それを考えているうちに、頭が重くなった。
もしうまくアプロードできなくなれば、最悪のばあい、
ホームページのサーバーをすべて変更しなければならない。
が、それは簡単にできることではない。
ホームページとホームページが、網の目のようにリンク
している。
またサーバーを替えれば、それで解決するという問題ではない。
からみあったコードを一本、一本ほぐしながら、つなぎなおさな
ければならない。
そんな作業がつづく。
それを考えているうちに、さらに頭が重くなった。
重くなったまま、起きた。
●批評
人間の脳みそは、それほど器用にはできていない。
脳みそが、不快ホルモンで満たされると、その影響はあらゆる
面に現れてくる。
で、起きてパソコンを立ち上げると、私のBLOGに、どこか
悪意を感ずるコメントが寄せられていた。
ふだんなら一読して、削除。
しかし脳みその調子が悪いときは、そういうコメントが、いやに
気になる。
頭の内側にペタリと張りついたような状態になる。
ついでに言うと、パソコンの世界では、からんでくる読者は、
相手にしないほうがよい。
相手がわかっているばあいは、よい。
そうでなければ、相手にしないほうがよい。
「八つ当たり」という言葉がある。
それと似たような状態になる。
パソコンのことで、うつ状態になっているから、ものごとにこだわりやすくなる。
●昼寝
昼ごろになると、軽い頭痛が始まった。
偏頭痛かと心配したが、それとはちがった。
前頭部が全体に重かった。
それを話すと、ワイフが湿布薬を張ってくれた。
首をマッサージしてくれた。
が、頭は重かった。
私は昼寝をした。
30分程度の昼寝は、ボケ防止になるが、1時間半前後の昼寝は
かえって頭をボケさせるそうだ。
そんな俗説をどこかで聞いた。
安定剤をのんで、30分ほど昼寝をした。
が、ここであきらめたのでは、パソコン歴37年が泣く。
私は方法を考えた。
●対策
まずダミーのホームページを開設する。
それを使って、そのファイルを暗号化してみる。
そのファイルを、サーバーに送信してみる。
簡単なファイルだから、失敗の原因もわかりやすいはず。
失敗して、ダメもと。
(実際には、FAというソフトは、ファイルがパソコンから
送信される直前に、いわばゲートのような役割をする。
ゲートから出るとき、ファイルは暗号化される。)
ところでときどき、「BLOGをいくつも発行して、たいへんでしょう」と
心配してくれる人がいる。
しかしそれはこの世界の(恐ろしさ)を知らない人の言葉。
最近は少なくなったが、BLOGにせよ、無料のHPサービスにせよ、
ある日突然、「閉鎖!」ということはよくある。
そのたびに、それまで蓄積した原稿が、みな、消えてしまう。
私もこの3、4年の間に、数回経験している。
今回も、いつの間にか、「1ファイル、最大3GBまでしかアプロード
できない」という条件がついてしまった。
私がメインに利用させてもらっている、HPサービスである。
私のHPのばあい、3GBを超えるファイルは、珍しくない。
そういうことがあるから、いつも複数のサービスを使って、同時に、
原稿を発表している。
つまり予防のため。
好きで、いくつも発行しているわけではない。
●解決!
で、この方法は、たいへん有効だった。
つまり小さなファイルを暗号化し、それを転送してみるという実験である。
あれほど悪戦苦闘したにもかかわらず、30分ほどで、その手順がわかった。
無事転送ができるようになった。
たとえて言うなら、1週間ほど便秘がつづいて、それが治ったとき
のような気分(?)。
とたん頭痛が消えた。
あの批判めいた書き込みも、気にならなくなった。
それをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
「きっとみんな困っているわ。教えてあげたら」と。
が、私は断った。
こうしてひとつの「山」を越えるたびに、ある種の優越感を覚える。
しばらくは、その優越感に浸りたい。
つまりたいていのユーザーは、「山」に当たるたびに、そこでくじける。
くじけて、パソコンから遠ざかる。
「山」を越えた者だけが、つぎのステップに進むことができる。
そこはまさしく弱肉強食の世界・・・というほど、おおげさな
ものではないが、それに近い。
もちろんコンピューターのプロなら、何でもないかもしれない。
が、私はコンピューターのプロではない。
1人のユーザーにすぎない。
コンピューターを使って仕事をする、ユーザーにすぎない。
・・・それにしても不親切なマニュアルである。
英語をそのまま直訳しただけ(?)。
しかも訳せない単語は、そのままカタカナ表示。
●結論
今回のことで学んだことは多い。
先にも書いたように、脳みそは、それほど器用にはできていない。
つまりそれぞれのばあいに応じて、使い分けることができない。
脳内のホルモンというのは、そういうもの。
一度ある種のホルモンが分泌されると、フィードバックが起きるまで、
そのホルモンに支配される。
(「フィードバック」というのは、そのホルモンを中和するために、
別のホルモンが分泌されることをいう。)
今回、解決したとたん、時間にすれば、10~20分足らずで、
頭重感は消えた。
同時に気分も晴れた。
しかしホルモン説だけで、こうした一連の感情の変化を説明できる
わけではない。
ホルモンの作用を受けて、神経伝達物質も影響を受ける。
悶々と悩んでいる間、私は何もやる気が起きなかった。
軽いうつ状態になった。
食事をしている間も、何か思いつめたような雰囲気だったと思う。
ワイフが見るに見かねて(?)、首をマッサージしてくれた。
●回復
夕方になっていつもの調子がやっと戻ってきた。
雑誌やビデオカメラのカタログに目を通すほどの余裕も、出てきた。
よかった!
いつまで続くかわからないが、今の私にとって最大の生きがいは、
こうして文章を書くこと。
考えて、何か新しいことを発見すること。
その緊張感とスリル。
それが楽しい。
・・・ということで、今夜は満足感をしっかりと実感しながら、
ぐっすりと眠られそう。
NG先生に頼まれた、「識字障害」についての原稿は、明日、書こう!
Hiroshi Hayashi++++++June.2010++++++はやし浩司
●雑感・あれこれ
●日本経済
書店で、何冊か、経済誌を立ち読みした。
どれも共通して説いているのは、日本経済の破綻は、すでに可能性の問題ではないということ。
時間の問題。
現在、日本経済は、薄い氷の上を恐る恐る歩いているようなもの。
何かのきっかけがあれば、そのまま奈落の底へ・・・。
朝鮮半島で何か起これば、あぶない。
韓国や中国の住宅バブルがはじければ、あぶない。
アメリカ経済がつまずけば、あぶない。
EUの経済破綻については、現在進行中!
その前兆として、日本円が海外へ逃避し始める。
円売りが加速し、円安になったときが、あぶない。
それをきっかけに雪崩(なだれ)をうったように、円は暴落する。
同時に日本を、ハイパーインフレが襲う。
どうやらそういうシナリオで進むらしい。
頼みの綱は政治だが、その政治は、ご覧のとおり。
鳩山内閣は、すでに政権担当能力を喪失している。
(昨日、辞職した。)
こうなれば、わが身は自分で守るしかない。
・・・ということで、考えることはみな、同じ。
金(ゴールド)価格は、目下、暴騰中。
ニッケルやアルミなど、金属価格がこの数か月低迷している。
それを勘案すると、金価格の暴騰は、尋常ではない。
まさに金バブル。
ここで金(ゴールド)に手を出せば、ババを引くことにもなりかねない。
要するに現在、世界経済は、メチャメチャ。
収拾のつかない泥沼に向かって、まっしぐら。
10分の1、あるいはそれ以下になることを覚悟で、タンス預金をつづけるか。
それとも危険な外債に手を出して、ハラハラしながら、毎日を過ごすか。
まさに八方ふさがり。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●5月の総括
++++++++++++++++++
5月・・・頭の活動は、低調だった。
新しい発見も、ほとんどなかった。
ただひとつ、こんなことに気づいた。
その土地、地域、地方の人たちは、
ともに似たような言いまわしの仕方、
似たような考え方をするということ。
+++++++++++++++++
●郷里
たとえば私は岐阜県の田舎町で生まれ育った。
恐らくというより、ぜったい、その町に生まれ育った人は、それに気づかないだろう。
しかし一歩離れた、この浜松という地方から見ると、それがよくわかる。
あの町の人たちは、似たような言い回しをする。
似たようなものの考え方をする。
つまり「独特」。
たとえば何か、ものを送ったとする。
盆暮れのつけ届けでもよい。
するとたいていみな、こう言う。
「大事に使わしてもらうで・・・」と。
「大切に使わせていただきますので・・・」
という意味である。
「悪いねエ・・・」と、言葉を濁す人も多い。
一方、この浜松では、「ありがとう」と言う。
それで終わる。
●「大事に使わしてもらうで・・・」
「悪いねエ・・・」にしてもそうだが、
この浜松で、「大切に使わせていただきますので・・・」
と言われると、言われたほうは、返答に困ってしまう。
「大切に使わせていただきますので、もっとほしい」
という意味にも、解釈できる。
(これは私の考えすぎか?)
「悪いねエ・・・」と言われると、やはり言われたほうは、返答に困ってしまう。
まさか「悪くないですよ」とは、言えない。
●アメリカ人は、ストレート
こうしたちがいは、アメリカ人とくらべてみると、よくわかる。
彼らは、何かにつけて、ストレート。
「遠慮」という言葉の意味すら、知らない。
ほとんどのばあい、「サンキュー」で終わってしまう。
わかりすぎるほど、わかりやすい。
つまり私の印象では、浜松の人たちは、岐阜の郷里の人たちと、アメリカ人の中間、もしくは郷里の人たちに近い方の、中間にいるということになる。
●本音と建前
岐阜の郷里の人たちは、それだけ(奥ゆかしい)ということになる。
が、その分だけ、心が読みにくい。
ときに何を考えているか、さっぱりわからなくなるときがある。
たとえば本音と建前を、そのつど、実にうまく使い分ける。
もっと言えば、裏で悪口を言いながら、表では平気でつきあう。
そういうことが、みな、平気でできる。
またそれができないと、あの町では生きていくことがむずかしい。
●視点を広める
で、さらに視点を外国に置いてみたらどうか。
私は今、浜松という町から、岐阜の郷里を見ている。
しかし外国という世界から、日本を見たら、どうか。
やはり同じように、そこに「日本人」が浮かび上がって
くるにちがいない。
さらに、視点を宇宙に置いてみたらどうか。
宇宙人の目で、地球人を見てみる。
やはりおなじように、そこに「地球人」が浮かび上がってくるにちがいない。
●ウソ
視野を広めるというのは、そういうことをいう。
(1)と(2)の関係を知ったら、それを(2)から(3)への関係へと、
視野を移動していく。
外国と比較してみるのもよい。
ここで私は、アメリカ人と比較してみたが、それはたいへん重要なことでもある。
先に私は本音と建前について触れた。
しかしアメリカ人には、それは通用しない。
彼らはそれを「ウソ」ととらえる。
欧米人がいかにウソにきびしいかは、今さらここに改めて書くまでもない。
ふつう一度ウソを言ったら、人間関係は、それで終わる。
●悪口
話を戻す。
私はこうしてものを書いているが、いろいろな鉄則を守っている。
そのひとつが、悪口を書いた人ととは、つきあわない。
つきあっている人の悪口は、書かない。
当然のことだが、郷里のあの町では、それが通用しない。
みなというわけではない。
私の周辺の人たちだけかもしれない。
が、私が知るかぎり、ほとんどの人は、平気でそれができる。
つまり裏で悪口を言いながら、表では平気でつきあう。
●原点は邑(むら)意識
岐阜の郷里の町は、それだけ日本的ということになる。
たとえばさらに一歩、山奥の部落に入ると、こんな会話が今でも、残っている。
通りでだれかに出会ったとすると、こう言って声をかける。
「オーイ、昼飯でも食っていかんけエ」と。
しかしこれは、ただのあいさつ。
そう言われたほうは、腹が減っていても、こう答える。
「おう、今、食ってきたところでノウ」と。
ウソにはウソで答える。
そういった日常的な会話が、ジグソーパズルのように寄り集まって、あの地域の文化を作り上げている。
それを総称して、「邑(むら)意識」という。
(ちょっと意味がちがうかな?)
現在では死語になってしまったが、亡霊のようなものは、あちこちに残っている。
それがあの独特の言い回しということになる。
●依存性
「邑(むら)」の中では、みながみな、たがいに依存しあいながら、生きている。
受け入れてしまえば、それは居心地のよい世界である。
が、一度それに反目すると、そのまま外の世界へ、はじき飛ばされてしまう。
『村八分』という言葉もある。
村に住む人にとっては、これほど恐ろしい言葉はない。
依存できないだけではない。
依存できない分だけ、自分で生きていかねばならない。
しかしそういう訓練を受けていない。
邑社会そのものがもつシステムが、それを許さない。
ただ誤解がないように一言。
どちらがよくて、どちらが悪いかということは、私にはわからない。
人、それぞれ。
郷里の人たちには、郷里のほうが、住みやすい。
浜松の人たちには、浜松のほうが、住みやすい。
どうであれ、その人が「住みやすければ」、それでよい。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●嫉妬、攻撃、恐怖
+++++++++++++++
乳幼児期の大敵。
タブー。
その3つが、嫉妬、攻撃、恐怖。
+++++++++++++++
嫉妬は原始的な感情であるがゆえに、
扱い方をまちがえると、確実に
子どもの心をゆがめる。
「原始的」というのは、他の哺乳動物に
共通する感情のひとつであるということ。
攻撃というのは、はげしい闘争心を
呼び起こすような感情をいう。
結果として言動が攻撃的になる。
またはげしい家庭内騒動、夫婦喧嘩など、
恐怖体験は、子どもの心をゆがめる。
「ゆがめる」というのは、ばあいによっては
精神障害につながる、重篤なケースを含む。
乳幼児期の母子関係の不全が、後々の
うつ病の「種」となるという説もある(九州大学Y)。
みなさん、気をつけましょう。
Hiroshi Hayashi+++++++May. 2010++++++はやし浩司
●こわばり
++++++++++++++++++++
このところ体のこわばりが、気になる。
筋肉が、そのまま固まってしまう。
しばらく同じ姿勢を保つ。
そのあと、体が、思うように動かなくなる。
最初に気がついたのは、今から5、6年ほど前のこと。
どこかの会場で、和室に案内された。
何人かの人たちと、正座したまま話をした。
時間にすれば、20~30分ほどだっただろうか。
そのあとのこと。
立ち上がろうとしたが、立ち上がれなくなってしまった。
足がこわばったまま、動かなくなってしまった。
ヨロヨロ……という感じではなく、ギコンギコンという
感じだった。
以来、正座するのを、できるだけ避けている。
が、足だけではない。
腕にせよ、首にせよ、なにかにつけ、体がこわばり
やすくなった。
が、この(こわばり)を軽くみてはいけない……そうだ。
ネットで調べてみると、重篤な病名がズラリと並ぶ。
とくにこわいのが、首から肩にかけての、こわばり。
脳梗塞の前兆ということも、あるそうだ。
+++++++++++++++++++++
●相談
こういうときは、5、6歳、あるいは10歳くらい年上の人に相談するとよい。
私が経験するようなことは、たいていみな、経験している。
「私もそうです」というような回答をもらって、それで解決する。
で、最近、50代の人と話すたびに、私はこう言う。
「老人研究をしたらいいですよ」と。
私のばあい、とくに老人の歩き方が気になった。
80歳を過ぎても、スタスタと歩ける人もいる。
70歳になったばかりというのに、ヨタヨタと歩く人もいる。
そんなとき、「どうしてこの人は、こんなふうに歩けるのだろう?」
「どうしてこの人は、歩けないのだろう?」と、考えるようになった。
以来、10年。
この分野では、私はかなり詳しくなった。
「老人研究」といっても、もちろん歩き方だけがテーマではない。
最終的には、人生観そのものも、テーマとなる。
●老後の人生観
「老人の人生観」というよりは、「老後の人生観」。
「どう生きるか」に併せて、「どう死ぬか」。
この2つを並行して考える。
それが老後の人生観ということになる。
つまり若いときは、生きることだけを考えればよかった。
しかし老後になると、それに(死に方)が加わるようになった。
それにはいろいろな意味が含まれる。
+++++++++++++++
09年の1月に書いた原稿を、
再掲載します。
+++++++++++++++
●統合性の確立
++++++++++++++++++++++++
今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。
それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。
そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。
++++++++++++++++++++++++++++
●帰りのバスの中で
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。
いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は
忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。
が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。
私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。
いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。
●60歳の統合性
(やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。
エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の
基礎を作れというようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を
植える」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。
(やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。
●統合性の失敗
私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に
失敗している人は、多い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。
明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。
家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。
しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。
そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。
●今、40歳前後の方へ、
エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。
もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことは
ない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。
いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。
●無私無欲
(やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)
ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされた
としても、それはあくまでも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。
仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。
それがここでいう統合性につながる。
●燃える
一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。
先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。
「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。
そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの
姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたり
している。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、
それを修理して走らせたりしている。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。
そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。
●あなたの未来
あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。
子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と
思っているかもしれない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代
単位で起こることであって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずも
ない。
40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。
こんな例がある。
●反面教師は、未来のあなた
ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が
母親そっくりの人間になっていた。
こういう例は、いくらでもある。
こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。
たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。
あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。
反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、
結局は、今度はあなたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。
●私のほうが、マシ?
しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、
実は価値があるのだ、と。
統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、
悶々とした日々を送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。
私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。
のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?
しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。
そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「家でブラブラしている」と。
ブラブラしていることが悪いというのではない。
で、「どんなことをしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。
「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。
本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。
統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。
●やってくる老後
老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。
60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。
現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを
実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。
まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。
●私の経験
これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、
うれしい。
40代~55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの
闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。
もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな
統合性は、その時点で霧散していただろう。
もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうようなことは、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。
●最後に……
むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、
うれしい。
感謝しなければならない。
その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。
……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。
(2009年1月記)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老後の生きがい 老後の統合性 統合性の一致 やるべきこと 老後にやるべきこと 老後の生き甲斐)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●ファイルの暗号化
話せば長くなる。
説明するのも、めんどう。
要するに、昨日(6月1日)から、HP(ホームページ)の
アプロードが、突然、できなくなった。
サーバーのほうで、「今後は、暗号化されていないファイルは
受け付けない」と言い出した。
今、流行しているガンブラーというウィルス対策のため、とか。
で、あわてて昨日、FAというソフトをダウンロードした。
ファイルを一度、暗号化するソフトである。
が、説明書どおり作業してみたが、エラーの連続。
昨夜は午前1時ごろまで悪戦苦闘を繰り返したが、そのあたりでギブアップ。
●頭重
おかげで今朝は、起きたときから頭が重かった。
その前に目を覚ましたあと、ふとんの中であれこれ、考えた。
どこかで操作方法を誤っているはず。
それを考えた。
考えたが、わからない。
FAというソフトは、外国のソフト。
日本語も専門用語が多くて、読んでもよくわからない。
「プロキシー」「リモートディレクトリー」「同期プラウズ」などなど。
そんな言葉が、ズラリと並ぶ。
それを考えているうちに、頭が重くなった。
もしうまくアプロードできなくなれば、最悪のばあい、
ホームページのサーバーをすべて変更しなければならない。
が、それは簡単にできることではない。
ホームページとホームページが、網の目のようにリンク
している。
またサーバーを替えれば、それで解決するという問題ではない。
からみあったコードを一本、一本ほぐしながら、つなぎなおさな
ければならない。
そんな作業がつづく。
それを考えているうちに、さらに頭が重くなった。
重くなったまま、起きた。
●批評
人間の脳みそは、それほど器用にはできていない。
脳みそが、不快ホルモンで満たされると、その影響はあらゆる
面に現れてくる。
で、起きてパソコンを立ち上げると、私のBLOGに、どこか
悪意を感ずるコメントが寄せられていた。
ふだんなら一読して、削除。
しかし脳みその調子が悪いときは、そういうコメントが、いやに
気になる。
頭の内側にペタリと張りついたような状態になる。
ついでに言うと、パソコンの世界では、からんでくる読者は、
相手にしないほうがよい。
相手がわかっているばあいは、よい。
そうでなければ、相手にしないほうがよい。
「八つ当たり」という言葉がある。
それと似たような状態になる。
パソコンのことで、うつ状態になっているから、ものごとにこだわりやすくなる。
●昼寝
昼ごろになると、軽い頭痛が始まった。
偏頭痛かと心配したが、それとはちがった。
前頭部が全体に重かった。
それを話すと、ワイフが湿布薬を張ってくれた。
首をマッサージしてくれた。
が、頭は重かった。
私は昼寝をした。
30分程度の昼寝は、ボケ防止になるが、1時間半前後の昼寝は
かえって頭をボケさせるそうだ。
そんな俗説をどこかで聞いた。
安定剤をのんで、30分ほど昼寝をした。
が、ここであきらめたのでは、パソコン歴37年が泣く。
私は方法を考えた。
●対策
まずダミーのホームページを開設する。
それを使って、そのファイルを暗号化してみる。
そのファイルを、サーバーに送信してみる。
簡単なファイルだから、失敗の原因もわかりやすいはず。
失敗して、ダメもと。
(実際には、FAというソフトは、ファイルがパソコンから
送信される直前に、いわばゲートのような役割をする。
ゲートから出るとき、ファイルは暗号化される。)
ところでときどき、「BLOGをいくつも発行して、たいへんでしょう」と
心配してくれる人がいる。
しかしそれはこの世界の(恐ろしさ)を知らない人の言葉。
最近は少なくなったが、BLOGにせよ、無料のHPサービスにせよ、
ある日突然、「閉鎖!」ということはよくある。
そのたびに、それまで蓄積した原稿が、みな、消えてしまう。
私もこの3、4年の間に、数回経験している。
今回も、いつの間にか、「1ファイル、最大3GBまでしかアプロード
できない」という条件がついてしまった。
私がメインに利用させてもらっている、HPサービスである。
私のHPのばあい、3GBを超えるファイルは、珍しくない。
そういうことがあるから、いつも複数のサービスを使って、同時に、
原稿を発表している。
つまり予防のため。
好きで、いくつも発行しているわけではない。
●解決!
で、この方法は、たいへん有効だった。
つまり小さなファイルを暗号化し、それを転送してみるという実験である。
あれほど悪戦苦闘したにもかかわらず、30分ほどで、その手順がわかった。
無事転送ができるようになった。
たとえて言うなら、1週間ほど便秘がつづいて、それが治ったとき
のような気分(?)。
とたん頭痛が消えた。
あの批判めいた書き込みも、気にならなくなった。
それをワイフに話すと、ワイフはこう言った。
「きっとみんな困っているわ。教えてあげたら」と。
が、私は断った。
こうしてひとつの「山」を越えるたびに、ある種の優越感を覚える。
しばらくは、その優越感に浸りたい。
つまりたいていのユーザーは、「山」に当たるたびに、そこでくじける。
くじけて、パソコンから遠ざかる。
「山」を越えた者だけが、つぎのステップに進むことができる。
そこはまさしく弱肉強食の世界・・・というほど、おおげさな
ものではないが、それに近い。
もちろんコンピューターのプロなら、何でもないかもしれない。
が、私はコンピューターのプロではない。
1人のユーザーにすぎない。
コンピューターを使って仕事をする、ユーザーにすぎない。
・・・それにしても不親切なマニュアルである。
英語をそのまま直訳しただけ(?)。
しかも訳せない単語は、そのままカタカナ表示。
●結論
今回のことで学んだことは多い。
先にも書いたように、脳みそは、それほど器用にはできていない。
つまりそれぞれのばあいに応じて、使い分けることができない。
脳内のホルモンというのは、そういうもの。
一度ある種のホルモンが分泌されると、フィードバックが起きるまで、
そのホルモンに支配される。
(「フィードバック」というのは、そのホルモンを中和するために、
別のホルモンが分泌されることをいう。)
今回、解決したとたん、時間にすれば、10~20分足らずで、
頭重感は消えた。
同時に気分も晴れた。
しかしホルモン説だけで、こうした一連の感情の変化を説明できる
わけではない。
ホルモンの作用を受けて、神経伝達物質も影響を受ける。
悶々と悩んでいる間、私は何もやる気が起きなかった。
軽いうつ状態になった。
食事をしている間も、何か思いつめたような雰囲気だったと思う。
ワイフが見るに見かねて(?)、首をマッサージしてくれた。
●回復
夕方になっていつもの調子がやっと戻ってきた。
雑誌やビデオカメラのカタログに目を通すほどの余裕も、出てきた。
よかった!
いつまで続くかわからないが、今の私にとって最大の生きがいは、
こうして文章を書くこと。
考えて、何か新しいことを発見すること。
その緊張感とスリル。
それが楽しい。
・・・ということで、今夜は満足感をしっかりと実感しながら、
ぐっすりと眠られそう。
NG先生に頼まれた、「識字障害」についての原稿は、明日、書こう!
Hiroshi Hayashi++++++June.2010++++++はやし浩司
●雑感・あれこれ
●日本経済
書店で、何冊か、経済誌を立ち読みした。
どれも共通して説いているのは、日本経済の破綻は、すでに可能性の問題ではないということ。
時間の問題。
現在、日本経済は、薄い氷の上を恐る恐る歩いているようなもの。
何かのきっかけがあれば、そのまま奈落の底へ・・・。
朝鮮半島で何か起これば、あぶない。
韓国や中国の住宅バブルがはじければ、あぶない。
アメリカ経済がつまずけば、あぶない。
EUの経済破綻については、現在進行中!
その前兆として、日本円が海外へ逃避し始める。
円売りが加速し、円安になったときが、あぶない。
それをきっかけに雪崩(なだれ)をうったように、円は暴落する。
同時に日本を、ハイパーインフレが襲う。
どうやらそういうシナリオで進むらしい。
頼みの綱は政治だが、その政治は、ご覧のとおり。
鳩山内閣は、すでに政権担当能力を喪失している。
(昨日、辞職した。)
こうなれば、わが身は自分で守るしかない。
・・・ということで、考えることはみな、同じ。
金(ゴールド)価格は、目下、暴騰中。
ニッケルやアルミなど、金属価格がこの数か月低迷している。
それを勘案すると、金価格の暴騰は、尋常ではない。
まさに金バブル。
ここで金(ゴールド)に手を出せば、ババを引くことにもなりかねない。
要するに現在、世界経済は、メチャメチャ。
収拾のつかない泥沼に向かって、まっしぐら。
10分の1、あるいはそれ以下になることを覚悟で、タンス預金をつづけるか。
それとも危険な外債に手を出して、ハラハラしながら、毎日を過ごすか。
まさに八方ふさがり。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●5月の総括
++++++++++++++++++
5月・・・頭の活動は、低調だった。
新しい発見も、ほとんどなかった。
ただひとつ、こんなことに気づいた。
その土地、地域、地方の人たちは、
ともに似たような言いまわしの仕方、
似たような考え方をするということ。
+++++++++++++++++
●郷里
たとえば私は岐阜県の田舎町で生まれ育った。
恐らくというより、ぜったい、その町に生まれ育った人は、それに気づかないだろう。
しかし一歩離れた、この浜松という地方から見ると、それがよくわかる。
あの町の人たちは、似たような言い回しをする。
似たようなものの考え方をする。
つまり「独特」。
たとえば何か、ものを送ったとする。
盆暮れのつけ届けでもよい。
するとたいていみな、こう言う。
「大事に使わしてもらうで・・・」と。
「大切に使わせていただきますので・・・」
という意味である。
「悪いねエ・・・」と、言葉を濁す人も多い。
一方、この浜松では、「ありがとう」と言う。
それで終わる。
●「大事に使わしてもらうで・・・」
「悪いねエ・・・」にしてもそうだが、
この浜松で、「大切に使わせていただきますので・・・」
と言われると、言われたほうは、返答に困ってしまう。
「大切に使わせていただきますので、もっとほしい」
という意味にも、解釈できる。
(これは私の考えすぎか?)
「悪いねエ・・・」と言われると、やはり言われたほうは、返答に困ってしまう。
まさか「悪くないですよ」とは、言えない。
●アメリカ人は、ストレート
こうしたちがいは、アメリカ人とくらべてみると、よくわかる。
彼らは、何かにつけて、ストレート。
「遠慮」という言葉の意味すら、知らない。
ほとんどのばあい、「サンキュー」で終わってしまう。
わかりすぎるほど、わかりやすい。
つまり私の印象では、浜松の人たちは、岐阜の郷里の人たちと、アメリカ人の中間、もしくは郷里の人たちに近い方の、中間にいるということになる。
●本音と建前
岐阜の郷里の人たちは、それだけ(奥ゆかしい)ということになる。
が、その分だけ、心が読みにくい。
ときに何を考えているか、さっぱりわからなくなるときがある。
たとえば本音と建前を、そのつど、実にうまく使い分ける。
もっと言えば、裏で悪口を言いながら、表では平気でつきあう。
そういうことが、みな、平気でできる。
またそれができないと、あの町では生きていくことがむずかしい。
●視点を広める
で、さらに視点を外国に置いてみたらどうか。
私は今、浜松という町から、岐阜の郷里を見ている。
しかし外国という世界から、日本を見たら、どうか。
やはり同じように、そこに「日本人」が浮かび上がって
くるにちがいない。
さらに、視点を宇宙に置いてみたらどうか。
宇宙人の目で、地球人を見てみる。
やはりおなじように、そこに「地球人」が浮かび上がってくるにちがいない。
●ウソ
視野を広めるというのは、そういうことをいう。
(1)と(2)の関係を知ったら、それを(2)から(3)への関係へと、
視野を移動していく。
外国と比較してみるのもよい。
ここで私は、アメリカ人と比較してみたが、それはたいへん重要なことでもある。
先に私は本音と建前について触れた。
しかしアメリカ人には、それは通用しない。
彼らはそれを「ウソ」ととらえる。
欧米人がいかにウソにきびしいかは、今さらここに改めて書くまでもない。
ふつう一度ウソを言ったら、人間関係は、それで終わる。
●悪口
話を戻す。
私はこうしてものを書いているが、いろいろな鉄則を守っている。
そのひとつが、悪口を書いた人ととは、つきあわない。
つきあっている人の悪口は、書かない。
当然のことだが、郷里のあの町では、それが通用しない。
みなというわけではない。
私の周辺の人たちだけかもしれない。
が、私が知るかぎり、ほとんどの人は、平気でそれができる。
つまり裏で悪口を言いながら、表では平気でつきあう。
●原点は邑(むら)意識
岐阜の郷里の町は、それだけ日本的ということになる。
たとえばさらに一歩、山奥の部落に入ると、こんな会話が今でも、残っている。
通りでだれかに出会ったとすると、こう言って声をかける。
「オーイ、昼飯でも食っていかんけエ」と。
しかしこれは、ただのあいさつ。
そう言われたほうは、腹が減っていても、こう答える。
「おう、今、食ってきたところでノウ」と。
ウソにはウソで答える。
そういった日常的な会話が、ジグソーパズルのように寄り集まって、あの地域の文化を作り上げている。
それを総称して、「邑(むら)意識」という。
(ちょっと意味がちがうかな?)
現在では死語になってしまったが、亡霊のようなものは、あちこちに残っている。
それがあの独特の言い回しということになる。
●依存性
「邑(むら)」の中では、みながみな、たがいに依存しあいながら、生きている。
受け入れてしまえば、それは居心地のよい世界である。
が、一度それに反目すると、そのまま外の世界へ、はじき飛ばされてしまう。
『村八分』という言葉もある。
村に住む人にとっては、これほど恐ろしい言葉はない。
依存できないだけではない。
依存できない分だけ、自分で生きていかねばならない。
しかしそういう訓練を受けていない。
邑社会そのものがもつシステムが、それを許さない。
ただ誤解がないように一言。
どちらがよくて、どちらが悪いかということは、私にはわからない。
人、それぞれ。
郷里の人たちには、郷里のほうが、住みやすい。
浜松の人たちには、浜松のほうが、住みやすい。
どうであれ、その人が「住みやすければ」、それでよい。
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
●嫉妬、攻撃、恐怖
+++++++++++++++
乳幼児期の大敵。
タブー。
その3つが、嫉妬、攻撃、恐怖。
+++++++++++++++
嫉妬は原始的な感情であるがゆえに、
扱い方をまちがえると、確実に
子どもの心をゆがめる。
「原始的」というのは、他の哺乳動物に
共通する感情のひとつであるということ。
攻撃というのは、はげしい闘争心を
呼び起こすような感情をいう。
結果として言動が攻撃的になる。
またはげしい家庭内騒動、夫婦喧嘩など、
恐怖体験は、子どもの心をゆがめる。
「ゆがめる」というのは、ばあいによっては
精神障害につながる、重篤なケースを含む。
乳幼児期の母子関係の不全が、後々の
うつ病の「種」となるという説もある(九州大学Y)。
みなさん、気をつけましょう。
Hiroshi Hayashi+++++++May. 2010++++++はやし浩司
●こわばり
++++++++++++++++++++
このところ体のこわばりが、気になる。
筋肉が、そのまま固まってしまう。
しばらく同じ姿勢を保つ。
そのあと、体が、思うように動かなくなる。
最初に気がついたのは、今から5、6年ほど前のこと。
どこかの会場で、和室に案内された。
何人かの人たちと、正座したまま話をした。
時間にすれば、20~30分ほどだっただろうか。
そのあとのこと。
立ち上がろうとしたが、立ち上がれなくなってしまった。
足がこわばったまま、動かなくなってしまった。
ヨロヨロ……という感じではなく、ギコンギコンという
感じだった。
以来、正座するのを、できるだけ避けている。
が、足だけではない。
腕にせよ、首にせよ、なにかにつけ、体がこわばり
やすくなった。
が、この(こわばり)を軽くみてはいけない……そうだ。
ネットで調べてみると、重篤な病名がズラリと並ぶ。
とくにこわいのが、首から肩にかけての、こわばり。
脳梗塞の前兆ということも、あるそうだ。
+++++++++++++++++++++
●相談
こういうときは、5、6歳、あるいは10歳くらい年上の人に相談するとよい。
私が経験するようなことは、たいていみな、経験している。
「私もそうです」というような回答をもらって、それで解決する。
で、最近、50代の人と話すたびに、私はこう言う。
「老人研究をしたらいいですよ」と。
私のばあい、とくに老人の歩き方が気になった。
80歳を過ぎても、スタスタと歩ける人もいる。
70歳になったばかりというのに、ヨタヨタと歩く人もいる。
そんなとき、「どうしてこの人は、こんなふうに歩けるのだろう?」
「どうしてこの人は、歩けないのだろう?」と、考えるようになった。
以来、10年。
この分野では、私はかなり詳しくなった。
「老人研究」といっても、もちろん歩き方だけがテーマではない。
最終的には、人生観そのものも、テーマとなる。
●老後の人生観
「老人の人生観」というよりは、「老後の人生観」。
「どう生きるか」に併せて、「どう死ぬか」。
この2つを並行して考える。
それが老後の人生観ということになる。
つまり若いときは、生きることだけを考えればよかった。
しかし老後になると、それに(死に方)が加わるようになった。
それにはいろいろな意味が含まれる。
+++++++++++++++
09年の1月に書いた原稿を、
再掲載します。
+++++++++++++++
●統合性の確立
++++++++++++++++++++++++
今日の成果。
私とワイフは、ずっとトップランナーだった。
諏訪湖の湖畔を歩くとき、いつもうしろを見ながら歩いた。
こんなところで順位を競っても意味はない。
わかっているが、私たちは、それを目標にしている。
週に2、3度、10キロ近く歩いているのも、そのため。
それぞれの人には、それぞれの目的がある。
観光を楽しみたい人。
友だちとおしゃべりを楽しみたい人。
ほかにも、いろいろあるだろう。
しかし私たちは、運動のため。
そのためには、タラタラと歩いていたのでは、意味がない。
サクサクと歩く。
汗をかく。
有酸素運動をする。
そのために歩く。
目標は、トップ。
目的地、一番乗り。
++++++++++++++++++++++++++++
●帰りのバスの中で
それをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。
「あなたの人生の縮図みたいね」と。
いつもトップだったというわけではないが、しかしその緊張感は
忘れなかった。
先手、先手で、人の前に立つ。
それは私のように一匹狼で生きていく人間にとっては、鉄則のようなもの。
二番手になったとたん、押しつぶされてしまう。
が、目的地に着いたら、そこで遊ぶ。
時間にも余裕がある。
その周辺の店をのぞいたりする。
これもワイフに言わせると、私の人生の縮図みたいということになる。
私はいつも、まず(すべきこと)を先にする。
それが終わったら、自分の(したいこと)をする。
その余裕がないときは、がまんする。
つまり(すべきこと)が残っているときは、(したいこと)をがまんする。
いつもこの鉄則を守っているというわけではないが……。
●60歳の統合性
(やるべきこと)と、(したいこと)は、基本的にちがう。
(やるべきこと)には、常に、ある種の苦痛がともなう。
できるなら、やらないですまそうとする。
そういうブレーキも働く。
人間は本来、怠けもの。
が、その(苦痛)を乗りこえなければ、(やるべきこと)は、できない。
エリクソンは、人生の正午と言われる満40歳前後から、(やるべきこと)の
基礎を作れというようなことを説いている。
(やるべきこと)を見つけ、その基礎固めをしていく。
それが5年とか10年とかいう年月を経て、その人の中で熟成していく。
何度も書くが、「60歳になりました。明日からゴビの砂漠でヤナギの木を
植える」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、身につかない。
(やるべきこと)を見つけ、現実にそれを実行していく。
それを「統合性の確立」という。
●統合性の失敗
私も含めてということになるかもしれないが、こうした統合性の確立に
失敗している人は、多い。
60歳という、年齢の節目に立ってみると、それがよくわかる。
明日は今日と同じ。
来月は今月と同じ。
来年は今年と同じ、と。
家ですることといえば、テレビを見て、雑誌を読んで、あとは眠るだけ。
たまの休みには、野球中継。
雨の日は、パチンコ。
読むのは、スポーツ新聞だけ。
体のためと称して、畑を借りて家庭菜園。
ときどき旅行をしたり、孫の世話をする。
楽しむことイコール、老後のあるべき姿と考えている人も多い。
しかしそれこそ、まさに死の待合室に入ったようなもの。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を、1か月にして生きるだけ。
そんな人生に、どれほどの意味があるというのか(失礼!)。
●今、40歳前後の方へ、
エリクソンは40歳と言ったが、40歳では遅いかもしれない。
30歳でもよい。
20歳でもよい。
将来に向けて、統合性の確立のため、今からその下地を作っていく。
それは何も老後のためだけではない。
いつか「私は自分の人生を生きた」という実感を、
自分のものにするため。
もしこの統合性の確立に失敗すると、老後そのものがみじめになるだけではない。
自分が生きてきたという証(あかし)、さらには足跡まで、無駄になってしまう。
人生も晩年になって、「私は何をしてきたのだ」と思うことほど、苦しいことは
ない。
(今の私もそうだが……。)
自分の人生を振り返っても、そこには何もない。
いや、いつの間にか、自分に替わって、別の人間が、それをしている。
私がしたことをしている。
私より、ずっとじょうずにしている。
それはそのまま自己否定へとつながってしまう。
●無私無欲
(やるべきこと)は、無私無欲でなければならない。
金銭的な利益、名誉や地位のためというのであれば、それは(やるべきこと)
ではない。
損得勘定をしない。
仮にその結果として、金銭的な利益を得たり、名誉や地位がもたらされた
としても、それはあくまでも結果。
結果であるから、一喜一憂することもない。
淡々とそれを迎える。
仕事で忙しい人もいるだろう。
家事で忙しい人もいるだろう。
子育てで忙しい人もいるだろう。
しかしそういう間でも、統合性のための基礎づくりを忘れてはいけない。
それは長くて苦しい道かもしれない。
先にも書いたように、できればやりたくないことかもしれない。
しかしそれでもつづける。
それがここでいう統合性につながる。
●燃える
一方、70歳を過ぎても若々しい人というのは、たしかにいる。
私の義兄もその1人。
先週訪ねたら、そこにピカピカのベンツが置いてあった。
義兄のベンツは、たしか中古だったはず。
しかし、ピカピカ。
「どうしたの?」と聞いたら、「塗装しなおした」と。
「メッキは磨きなおした。パッチ(ゴム部)は、新品に取り替えた。
シートは、張り替えてもらった」と。
そして先月(08年12月)は、長野県の奥まで、奥さん(=ワイフの
姉)とドライブしてきた、と。
生き様が前向きというか、若々しい。
ゴルフのクラブにしても、自分で設計して、それを業者に作らせたり
している。
趣味はバイクだが、40年前、50年前のバイクを拾ってきては、
それを修理して走らせたりしている。
「夢は、いつかバイクの展示場をかねた喫茶店を開くこと」と。
年齢は、正確には、今年76歳になる。
そういう義兄と話していると、こちらまで若返る。
話がはずむ。
●あなたの未来
あなたの未来を知りたかったら、あなたの両親を見ることだ。
遺伝子学的にも、満20歳くらいまでは、親子といっても、様子は大きくちがう。
が、20歳まで。
満20歳を過ぎると、親子は急速に似てくる。
似てくるというよりは、実際には、同一化する。
子どもが親に似るわけではない。
同一化する。
子どもである(あなたは)は、「私は親とはちがう」「親のようにはならない」と
思っているかもしれない。
が、それは甘い。
世の中には、「進化論」というものもあるが、それは100代とか、1000代
単位で起こることであって、あなたの代の1代や2代くらいでは、起こるはずも
ない。
40代を過ぎれば、あなたもあなたの両親も同じ。
50代を過ぎれば、さらにあなたもあなたの両親も同じ。
こんな例がある。
●反面教師は、未来のあなた
ある女性は若いころから、自分の母親を批判していた。
「私の母は、ずるい」「私の母は、世間体ばかり気にしている」と。
しかしその母親がなくなってしばらくすると、今度はその女性が
母親そっくりの人間になっていた。
こういう例は、いくらでもある。
こうした世代連鎖は、どうすれば防ぐことができるか。
そこで登場するのが、「精進(しょうじん)」ということになる。
日々の絶え間ない研さんのみによって、こうした世代連鎖を断ち切ることができる。
たとえばあなたの父親が、インチキな人だったとしよう。
女遊びは、当たり前。
親戚中から借金を重ね、そのつどそれを踏み倒す。
親をだます子はいるが、あなたの父親は、あなたという子をだます。
あなたはそういう父親を批判する。
父親を反面教師にしながら、自分はそうしないと心に誓う。
「私は父親とはちがう」と言う。
しかし反面教師のこわいところは、ここから始まる。
反面教師とするのは勝手でも、別のところで別の人格を作りあげないと、
結局は、今度はあなたがその反面教師そっくりの人間になる。
理由は明白。
あなたはその反面教師しか、知らないからである。
親子のばあいは、さらによく似る。
自分ではそれはわからないが、他人から見ると、それがわかる。
●私のほうが、マシ?
しかしこんなことも言える
たぶんに自己弁解がましいが、悩んだり苦しんだりするところに、
実は価値があるのだ、と。
統合性の一致にしても、ほとんどの人は、それが何であるかもわからず、
悶々とした日々を送っている。
しかしその(悶々とすること)自体に価値がある。
というのも、少し前、そういうことをまったく考えない人に出会った。
そのとき私が感じた(落差)というか、(驚き)には、格別なものがあった。
私とて、統合性の確立ができたわけではない。
いまだに、悶々としている。
懸命にさがそうとしている。
が、その男性は、ノー天気というか、統合性の「ト」の字も考えていなかった。
のんき?
無神経?
無頓着?
楽天的?
享楽的?
せつな的?
しばらくいっしょに話したが、打ち返ってくるものが、何もない。
同じように、人生を60年近く生きてきたはずなのに、何もない。
本当に、何もない。
そこで私が、「退職後は何をしているの?」と聞くと、「家でブラブラしている」と。
ブラブラしていることが悪いというのではない。
で、「どんなことをしているの?」と聞くと、先に書いたような答が返ってきた。
「野球中継があるときは、テレビでそれを見て過ごす」
「休みには魚釣り。雨が降ればパチンコ」と。
本は読まない。
読むのはスポーツ新聞だけ。
音楽は聴かない。
映画も見ない。
あとは孫ができたとかで、ときどき孫の世話をしている、と。
統合性の確立どころか、その入り口にも立っていない(失礼!)。
だからこう思った。
まだ、私のほうが、マシ、と。
●やってくる老後
老後は、確実にやってくる。
あっという間にやってくる。
しかも老後というのは、意外に長い。
60歳から始まったとしても、20年近くある。
幼児が成人するまでの年月に等しい。
しかしこれは、「どう過ごすか」という問題ではない。
「やるべきことをやらないと、死ぬこともできない」という問題である。
現実に私もその年齢になり、老後の入り口に立って、その恐ろしさを
実感しつつある。
仕事がなくなる恐怖。
役目がなくなる恐怖。
だれにも相手にされなくなる恐怖。
こうした恐怖は、そのまま自分をどんどんと小さくしていく。
そんな状態で、この先、20年を、どうやって生きていったらよいのか。
またそんな状態で、生きていかれるはずもない。
まず手始めに、仕事を失ってはいけない。
どんな小さな仕事でも、それにしがみついていく。
それに町内の仕事にしても、それができるなら、どんどんとしていく。
みなの役に立つ。
みなから、役に立つ人間として評価される。
●私の経験
これは私の経験だが、私は今にしてみると、1円もお金をもらわなかったのが、
うれしい。
40代~55歳くらいまでは、電話相談に明け暮れた。
それ以後は、無料でマガジンを出したり、無料で相談に応じている。
そのときは、「どうしてこんなバカなことをしているのだ」という思いとの
闘いでもあった。
しかしそれが今、少しずつだが、光り始めている。
もしあのとき、そして今、お金を受け取っていたら、私のささやかな
統合性は、その時点で霧散していただろう。
もちろん今していることが、(私のすべきこと)とは、思っていない。
しかし私が今、住んでいる世界では、それしか思いつかない。
それこそ「では、これからゴビの砂漠に行って、ヤナギの木を植えてきます」と
いうようなことは、私にはできない。
だいたい、その下地がない。
だから、やるしかない。
その先に何があるかわからないが、ともかくも、やるしかない。
●最後に……
むずかしい話はさておき、朝起きたとき、(やるべきこと)がそこにあるだけでも、
うれしい。
感謝しなければならない。
その(やるべきこと)が、あなたには、あるだろうか。
あればよし。
そうでなければ、あとは自分の心と体に、ムチを打つしかない。
「楽をしたい」という思いはだれにでもある。
が、その(思い)に敗れたとたん、あなたは一気に、孤独の世界へと落ちていく。
……ということで、明日からまた新しい週が始まる。
「がんばるぞ」と自分に掛け声をかけて、この話は、おしまい。
どうであるにせよ、私は生きていかねばならない。
今までもそうして生きてきたし、今も生きている。
これからもそうして生きていくだろう。
(2009年1月記)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老後の生きがい 老後の統合性 統合性の一致 やるべきこと 老後にやるべきこと 老後の生き甲斐)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
2010年6月2日水曜日
*Magazine (June 2nd)
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 10年 6月 2日号
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6月2日……1367号
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休みます。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●心の壊れた人
++++++++++++++++++++
世の中には、心の壊れた人がいる。
他人の不幸を興味本位でのぞいて、
それを酒の肴(さかな)にして、楽しんで
いる人がいる。
さらに進んで、「他人の不幸話ほど、おもしろい
ものはない」と言ったバカさえいる。
A氏(65歳)は、私にこう言った。
「あいつ(A氏の従兄)が、パーキンソン病に
なったそうだ。
今度見に行ってやろう」と。
A氏とA氏の従兄は、仲が悪かった。
10年にわたって、いがみあったこともある。
そのためA氏の従兄がパーキンソン病に
なったことが、うれしくてしかたないと
いったふうだった。
が、A氏には、それがわからない。
つまり自分の心が、すでに壊れていることが
わからない。
不幸にして不幸な乳幼児期を過ごしている。
それが直接的な原因ではないにしても、
「見に行こう」はない。
まさに、悪魔。
悪魔の言葉。
で、何と、そのあとしばらくしてから、A氏は
こう言った。
何でも妹氏(6歳下)を連れて、見舞いに
行ってきた、と。
もちろん「見舞い」ではない。
「見物」である。
一見、同情するフリをしていたが、その言葉には、
心がこもっていない。
口先だけで、「かわいそう」という言葉を
繰り返していた。
++++++++++++++++++++
●他人の不幸をのぞく人
他人の不幸を、興味本位でのぞける人というのは、そうはいない。
いないが、少なくないことも事実。
が、のぞくのはその人の勝手としても、のぞかれる人は、たまらない。
そのとたん、苦しみや悲しみが倍加する。
(倍加程度では、すまない。)
友人のT氏(63歳)が、こんな話をしてくれた。
T氏が、兄や母の介護問題で苦しんでいたとき、同じようにして、のぞかれた
ことがあるという。
そういう人たちは、いかにも心配していますというフリをしながら、近づいて
くる。
が、その実、何も心配などしていない。
こんなことがあったという。
T氏の兄が胃潰瘍がこじれて入院したときのこと。
見舞いに行ったら、T氏の兄は家の商売のことを心配していたという。
そこでT氏は、またその翌日、再び、今度は、小遣いをもって、兄を見舞った。
で、その数日後のこと。
T氏の親類のB氏(従兄)から、電話があった。
皮肉たっぷりの言い方だったという。
いわく、「おまえの兄さん、入院したぞ。入院したぞ。知っているか?」と。
間延びした、どこかネチネチした言い方だった。
そこでT氏が、「知っています。おととい見舞ってきましたから」と。
その言葉に驚いて、B氏は、「えっ、……見舞っ……た?」と。
以後、T氏はB氏とは、関係を断ったという。
●自己認識
心の壊れた人には、奇妙な一貫性がある。
一事が万事。
万事が一事。
脳のCPU(中央演算装置)が壊れているため、自分の心が壊れていることに
気づくことはない。
ないばかりか、自己中心性が強いため、他人もまた自分と同じと考える。
あるいは自分を基準として、ものを考える。
他人を見る。
つまりどこまでも心のさみしい人ということになる。
●他人の不幸はのぞかない
生きていくことには、いくつかの大原則がある。
そのひとつ。
『他人の不幸はのぞかない』。
それとわかっていても、あるいが気がついていても、そっとしておいてやる。
もちろん相手から相談でもあれば、話は別。
そうでなければ、そっとしておいてやる。
見舞いにしても、一度、家人に相談してから行くのが、常識。
いきなり相手の家に押しかけて、「見舞いに来ました」はない。
来られたほうも、困る。
ばあいによっては、(多くのばあいそうなのだが……)、かえって不愉快。
が、そういう常識の備わっていない人が多いから、困る。
もしそれがわからなければ、自分のこととして考えてみればよい。
どこのだれが、自分の無様(ぶざま)な姿を、人前にさらけ出したいか?
いきなり来られたのでは、かえってそのままそれをさらけ出すことになる。
そういう見舞いが平気でできる人というのは、相手の気持ちが理解できない。
「見舞いに来てやったから、喜んでいるはず」という、きわめて自己中心的な
『ハズ論』だけで、自分の行為を正当化してしまう。
これが先に書いた、「一貫性」ということになる。
●さらに……!
さらにこんな話も聞いた。
その人、Kさん(75歳女性)は、1年近く、うつ病で家の中に閉じこもっていた。
家の中でもいちばん暗いところに、身を横たえていた。
そんな女性のところへ、ある日、親類の女性(70歳)が見舞いにやってきた。
Kさんは、最初、面会を拒否した。
「だれにも会いたくない」と言った。
が、見舞いに来た親類の女性は、強引に部屋の奥まで入っていき、Kさんの枕元に
ひざまづいたという。
そして何と、あろうことか、お経を読み始めた……!
その親類の女性というのは、どこかの宗教団体に属していた。
そこで覚えたお経を、Kさんの前で唱えたというのだ。
狂信性もここまでくると、怒れるより先に、笑えてくる。
(もちろんKさんの病気を笑っているのではない。
見舞いに来た親類の、その女性の頭(おつむ)のほうを笑う。)
無神経な人は、どこにでもいる。
そんなバカなことで鬱病が治るくらいなら、医者などいらない。
もっともその女性のばあいは、本気で(?)、Kさんのことを心配していたのかも
しれないが……。
●精進(しょうじん)
あなたの周りにも、ここに書いたような人がいるかもしれない。
しかしそういう人とは、できるだけ早く、離れたほうがよい。
長くつきあって、よいことは何もない。
ないばかりか、その人の毒気に染まってしまうことすら、ある。
一方、あなたはあなたで、もしそういう傾向があるなら、あとは「精進」あるのみ。
そういう自分と闘う。
闘って、そういう自分を自分の中から、追い出す。
方法は簡単。
いくつかの原則論を定め、それに従って生きる。
(1)ウソはつかない。
(2)約束は守る。
(3)人の悪口は言わない。
(4)グチは言わない。
(5)他人の不幸には干渉しない。
(6)他人の不幸は、自分のものと考える。
(7)他人の不幸を望まない。
(8)他人の不幸を笑わない。
そして何よりも大切なことは、(9)心の壊れた人とは、つきあわない。
●奇妙な一貫性
奇妙な一貫性について、補記する。
ここに書いたB氏(T氏の従兄)に、直接会ったことはない。
ないが、その周辺の人から、こんな話を聞いた。
B氏には2人の息子がいる。
そのうちの1人が、D症という、生まれながらの病気にかかっている。
現在は、35歳前後とか。
B氏は、その息子のことを、隠している。
ぜったいに表(外)には、出さないという。
最近、もう1人の息子が結婚式をあげたが、その結婚式にも列席させなかったという。
「インフルエンザで急に熱を出しまして……」と、結婚式の場では、そう言って、
弁解していたという。
これが私が言う「奇妙な一貫性」である。
(他人の不幸を笑う)→(自分の不幸も、他人に笑われると思う)、と。
つまり他人の不幸を笑った分だけ、今度は、その人自身が苦しむということ。
だから私はあえて(6)の「他人の不幸は、自分のものと考える」という原則を並べた。
それが日常的にできるようになると、その分だけ、心が広くなる。
その心で、自分の不幸まで、包み込むことができるようになる。
(付記)
先日、近くのショッピングセンターの食堂へ行ったら、家族で食事をしている
人たちを見かけた。
6~7人のグループだった。
祖父母、若い父母、それに2~3人の子ども。
その子どもの中の1人(6歳くらい)が、ここに書いたD症の子どもだった。
が、そのグループの人たちは、まったく平然と、楽しそうにみなで食事をしていた。
それを見た私の方まで、楽しくなるような雰囲気だった。
その子どもは、D症だったが、家族の暖かい愛情に包まれていた。
その温もりが、私のほうまで伝わってきた。
私の心まで暖かくした。
よい家族というのは、そういう家族をいう。
よい人たちというのは、そういう人たちをいう。
ここに書いた、「他人の不幸を笑う人」というのは、その(よい人)と、ちょうど反対の
位置にいる人と考えると、わかりやすい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 他人の不幸 他人の不幸を笑う人 他人の不幸論 不幸をのぞく人
よい人たち 愚かな人たち。はやし浩司 よい人 心の暖かい人 心の温もり)
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
●その人の基本
++++++++++++++++++
その人とは、何か?
その人の基本とは、何か?
それが60歳を過ぎると、「輪郭」として
わかるようになる。
おおざっぱに、わかるようになる。
自分のことでもよい。
配偶者のことでもよい。
親類のことでもよい。
「あの人は、こういう人」と。
その「輪郭」は、実は乳幼児期に作られる。
乳幼児期に作られたまま、それが原型となって、
みな、おとなになっていく。
四角い人は、四角い人のまま、。おとなになっていく。
丸い人は、丸い人のまま、おとなになっていく。
+++++++++++++++++
●オオカミ姉妹
ここ数日、オオカミ姉妹の話が気になる。
もう一度、昨日書いた原稿を、ここに書き出してみる。
●オオカミに育てられた姉妹
++++++++++++++++++
オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。
この2人の姉妹について、私はあちこちで
書いてきたし、講演会でも、よく話してきた。
が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。
(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤!)・新曜社)より)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
この中でとくに注意しなければならないことは、(10)~(12)。
年齢を追って、もう一度、整理してみる。
姉のカマラは、推定年齢8歳で見つかっている。
その姉は、「6年後」、つまり推定年齢、14歳で、やっと直立して歩行するようになった。
「7年後」、つまり推定年齢、15歳で、45語の言葉を話せるようになった。
もしカマラが、ごくふつうの家庭で生まれ育ったなら、満1歳前後には、直立して歩き、
満2歳前後には、ある程度の会話ができるようになっていただろう。
しかしカマラのばあい、直立して歩けるようになるまでに、見つかってから6年も
かかっている!
45語の言葉を話せるようになるまでに、7年もかかっている!
さらに別の記録によれば、カマラにしても、また同じころフランスで見つかった
ビクトールという少年にしても、最後まで、人間らしい感情や心を取り戻すことは
なかったという。
●三つ子の魂
この野生児の例は、乳幼児期における(親子のふれあい)がいかに重要なもので
あるかを説明するために、よく取り上げられる。
と、同時に、そのころその人の「輪郭」ができるということも、明確に示している。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその実、その「私」は、乳幼児期にその「輪郭」ができあがったとみてよい。
その結果が今であり、今の「私」は、その結果に過ぎない。
心のやさしい人、心の冷たい人。
穏やかな性質の人、はげしい気性の人。
何ごともやる気満々の人、いつも逃げ腰の人。
ものごとをよく考える人、考えない人。
他人に感動しやすい人、感動しない人などなど。
わかりやすい例としては、ケチ(ためこみ屋)と呼ばれる人がいる。
発達心理学的に説明すれば、肛門期(フロイト)に、愛情飢餓を経験すると、内へ内へと、
ものをためやすくなる。
それがケチになったり、ためこみ屋になったりする。
長男、長女のこのタイプの人が多いのは、下の子(弟、妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に陥ったためと考えられている。
まさに『三つ子の魂、百まで』ということになる。
●自己診断法
そこで「自分探し」ということになる。
が、言い替えると、「自分の輪郭探し」ということになる。
つまり自分で自分の輪郭を知る。
それは可能なのか。
またその方法は、あるのか。
「私」という人間の輪郭が、乳幼児期に作られたことはわかる。
が、その輪郭といったものは、どういうものなのか。
ひとつの診断法として、こんなものがある。
「私は子どものころから……」という文章につなげて、自分のことを書いてみる。
あまり深く考えないで、思いついたままを書くのがコツ。
あなたも一度、この診断をしてみるとよい。
===============
「私」を知る、自己診断法
===============
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
===============
以上、20問用意してみた。
その結果を見ながら、自己分析をしていく。
●私のばあい
私も、してみる。
(ヨーイ、スタート!)
○私は、子どものころから……(何にでも興味をもった。
○私は、子どものころから……(捜し物が、苦手だった。
○私は、子どものころから……(さみしがり屋だった。
○私は、子どものころから……(外ではにぎやかな子どもだった。
○私は、子どものころから……(甘い食べ物が好きだった。
○私は、子どものころから……(負けん気が強かった。
○私は、子どものころから……(個人的に活動することが多かった。
○私は、子どものころから……(集団行動が苦手だった。
○私は、子どものころから……(寒がりだった。
○私は、子どものころから……(ものを作るのが好きだった。
○私は、子どものころから……(他人の心を読むのが苦手だった。
○私は、子どものころから……(女の子が苦手だった。
○私は、子どものころから……(絵を描くのが好きだった。
○私は、子どものころから……(好奇心が旺盛だった。
○私は、子どものころから……(いじけやすく、ささいなことをよく気にした。
○私は、子どものころから……(庭のある家に住みたかった。
○私は、子どものころから……(貧乏がこわかった。
○私は、子どものころから……(酒や酒のにおいが、嫌いだった。
○私は、子どものころから……(行動的だった。
○私は、子どものころから……(正義感が強かった。
=================
●自己分析
同じようなテストを、私のワイフや、生徒たち(中高校生)にしてもらったことが
ある。
が、不思議なことに、他人のばあいは、「輪郭」がよく見える。
「この子は、こういう子だな」と。
しかし自分のこととなると、「輪郭」がよくわからない。
あのフロイトも、自分の夢判断を、弟子のユングに頼んでいる。
そういう意味でも、自分のことを知るのは、むずかしい(?)。
それはさておき、そこであなたは、私の回答を読んで、私の「輪郭」をどのように
思っただろうか。
あなたは私を、どのような「輪郭」をもった人間と思っただろうか。
が、ここではその内容は、あまり重要ではない。
また私の自己分析をするのが、目的ではない。
あなたが私についてどんな印象をもったにせよ、その印象、つまりここでいう「輪郭」
は、私の乳幼児期に作られたものということ。
それが現在の「私」の骨格になっている。
もちろんこのことは、あなた自身についても、当てはまる。
●臨界期仮説(critical period hypotheses)
「臨界期」という言葉が、ここ数年、急速に注目されるようになってきた。
もともとは、「言葉の発達についての仮説」として生まれた。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
+++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++
言語学および第二言語習得における臨界期仮説(英: critical period hypotheses)とは、臨界
期とよばれる年齢を過ぎると自然な言語能力の習得が不可能になる、という仮説である。
母語の習得および外国語の習得の両方に対して使われる。
臨界期の時期には諸説あるが、だいたい出生から思春期(12歳から15歳ごろ)までである
とされている。第一(L1)・第二言語(L2)両方の習得に関して年齢が重要な要素となって
いることは定説となっているが、はたして臨界期なるものが本当に存在するのか、また存
在するとしたらそれがいつなのかなどについては長い議論があり、仮説の域を出ていない。
野生児または孤立児と呼ばれる幼児期に人間社会から隔絶されて育った子供は、後に教育
を受けても言語能力、特に文法に従った文を作る能力については著しく劣ることが知られ
ている[1]。
また、外国語の学習でも、一家で国外へ移住した移民の親より子供のほうが外国語を早く、
また上手に使いこなせるようになることは広く知られている。母語・外国語両方の習得の
成否について年齢が大きな影響を与えていることは、日常の経験からも、言語学の研究結
果[2]からも納得されることである。
年齢が上がると言語を習得することが困難になる原因についてはさまざまな説が提唱され
ている。しかし、年齢以外のファクターを除外できていない可能性があるという批判もあ
り、たとえば脳生理学的な変化や心理的影響を原因とする説などもあるが、21世紀初頭現
在でははっきりとは解明されていない。
それに加え、個々の言語能力についての臨界期は異なるという説もある。たとえば発音に
ついてはかなり低い年齢に臨界期が存在するという強い証拠があるが、語順などの統語的
規則についての臨界期は遅いという主張もある[3]。また、語彙については明確な臨界期が存
在しないとの説もある[4]。
+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++
だからといって、「臨界期仮説」を、言語に限ることはない。
先にあげたオオカミ姉妹についても、「言語」だけが問題になっているわけではない。
「言語」は、もろもろの才能の一部でしかない。
とくに注目すべきは、「人間らしい心」ということになる。
少し拡大解釈すれば、「人間らしい心」にも、臨界期があるということになる。
またそう解釈してよいことは、冒頭に書いたように、それが60歳を過ぎると、「輪郭」
としてわかるようになる。
たとえば身近にいる、X氏ならX氏に焦点を当ててみる。
Yさんでもよいし、Z氏でもよい。
そういう人たちの人生を、全体としてながめてみる。
するとそこにその人の「輪郭」が浮かびあがってくる。
心の暖かい人は、暖かい。
心の冷たい人は、冷たい。
ウソのつけない人もいる。
一方、ウソばかりついている人もいる。
そしてその「輪郭」というのは、その人が子どものときのそれと、現在のそれと、
それほど違わないことに気づく。
つまりそれぞれの人は、「心」も、いくつかの臨界期を経て、作られていくのがわかる。
言い替えると、そのときどきの適切な時期に、適切な環境の中で、適切な(ふれあい)を
経験することによって、「心」も作られていくということ。
繰り返しになるが、60歳を過ぎると、それがよくわかるようになる。
そこで結論。
かつてアインシュタインは、こう言った。
「教育というのは、学校で学んだことをすべて忘れてしまったあとに、残っているもの」
と。
この言葉を拝借すると、こうなる。
「私というのは、私をすべて忘れてしまったあとに、そこにぼんやりと浮かびあがって
くるもの」と。(100426)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 私とは 私論 野生児 カマラ アマラ オオカミ少女 オオカミ姉
妹 輪郭論 臨界期)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●道徳とMoral(モラル)
++++++++++++++++++
私はずっと、「道徳」イコール、「Moral」、
「Moral」イコール、「道徳」と考えていた。
しかし日本語と英語は、必ずしも一致しない。
よい例が、「尊敬」と「respect」である。
日本語で、「尊敬する」というと、「相手を尊く、
敬う」という意味で使われる。
英語で「respect」というと、日本語の
「尊敬」よりは、ずっと意味が軽い。
「一目置く」とか、「敬愛する」とか、そんな
ニュアンスになる。
日常的にもよく使う。
たとえば自分の子どもが発表会の場なので、
堂々と自分の意見を言ったりすると、親は
自分の子どもに向かって、「I respect
you.」などと言ったりする。
「よくやったね!」という意味に近い。
「尊敬する」という意味では、むしろ、
「I am proud of you.(あなたを
誇りに思う)」のほうが、よく使われる。
そういうちがいを無視して、日米の子どもの意識を
比較調査しても、あまり意味がない。
たとえば「あなたはあなたの父親を尊敬しますか」
という質問項目があったとする。
質問を受けた日本の子どもは、そう聞かれると、身を
構えてしまう。
真顔になってしまう。
一方、英語国の子どもなら、「Do you respect
your father?(あなたの父親を尊敬しますか)」
と聞かれれば、あまり深く考えないで、「Yes!」と答えるだろう。
同じことが、「道徳」についても言える。
「道徳」というと、日本では、「すでに規範として確立された、
守るべき規律」という意味で使われている。
道徳を否定する人はいない。
一方、「Moral」というと、辞書などには、
「規律」という訳語が載っている。
「規律一般」をいう。
大修館ジーニアス英和辞典にも、「原義、風俗習慣」とある。
その中には、「よい規律」もあれば、「悪い規律」も
ある。
日本語でいう「道徳」とは、かなり意味がちがう。
ただ「モラル」というカタカナ言葉は、「道徳」と同じ意味で
使われることが多い。
そのあたりに、誤解の元(もと)がある。
日本語で、「モラル」というと、そのまま「道徳」という
意味で使われる。
たとえば「モラルが低下した」と言えば、道徳心が低下
したという意味になる。
「それはモラルの問題」というような言い方をするときもある。
で、誤解というのは、コールバーグの説いた、「脱道徳論」
である。
コールバーグは、道徳の完成度が高くなればなるほど、
人は、「脱道徳」になると説く。
最終的には、「人間は普遍的価値を求め、命を中心に置いた
ものの考え方をする」(新曜社・「心理学とは何だろうか」)と。
が、ここで首をかしげる。
日本人なら、みな、首をかしげる。
道徳というのは、先にも書いたように、「確立された規範」をいう。
「それから脱するということは、どういうことか?」と。
実際、「このような発達段階が真に存在するだろうか」と
疑問を投げかけている学者もいる(お茶の水大学M教授)。
しかしここに、今まで書いてきたことを当てはめてみると、
謎が解ける。
コールバーグは、「規律などというものは、必要最低限のものである。
自ら考え、行動し、責任を取ることこそ重要」と説いている。
そういう意味で、「脱・規律」という言葉を使った。
そしてそれを誤訳ではないが、「脱道徳」としたから、
日本人には、理解できなくなってしまった。
(注:「心理学とは何だろうか」の中では、「脱慣習的段階」と
なっている。)
本来なら、コールバーグの書いた論文を原書で読んだ
上で、この原稿を書かねばならない。
コールバーグは、本当に「Moral」という言葉を
使ったのだろうか?
そういう疑問がないわけではない。
それもわからず、こういう原稿を書くこと自体、
いいかげん。
私にもそれがよくわかっている。
わかっているが、あえてそれを調べて書く必要もない。
私は私のやり方で、つまり勝手にコールバーグの「脱道徳論」
を、考えなおしてみればよい。
+++++++++++++++++
●脱・規律論
規律に対しては、3つの段階に分けられる。
(道徳ではなく、あくまでも「規律」。)
(1)前規律段階
「規律」に盲目的に従い、自立した思考力のない段階。
たとえば「軍規にはこうあるから」などという理由で、批判を加える
ことなく、それに従ったりすること。
(2)規律段階
「規律」といっても、そのつど取捨選択しながら従うという段階。
たとえば「規則ではそうなっているが、今は、緊急事態だから、別の考え方
をする」というのが、それ。
(3)脱規律段階
規律の存在は認めながらも、自分で考え、行動し、責任を取る段階。
一般的な規律よりもさらにきびしい規律を、自分に課すことが多い。
たとえば主義主張を守るため、あえて既存の規律に背を向けて、行動するなど。
当然のことながら、後者ほど、道徳(Moral)の完成度が高い人
ということになる。
が、このことは、フロイトが説いた、(1)エスの人、(2)自我の人、
(3)超自我の人の分類法に、どこか似ている。
フロイトは、欲望のおもむくまま行動するする人を、「エスの人」、
臨機応変にそのつど理性的に判断する人を、「自我の人」、
そしてどんなばあいも、理性に従い、まちがったことをしない人を、
「超自我の人」と呼んだ。
●道徳
それが人間が守るべき規範として確立された「規律」である
とするなら、守るのが当然。
「規則」とは、ちがう。
「規律」とも、ちがう。
「基準」とも、ちがう。
道徳は、道徳。
しかしここで最大の疑問が生じてくる。
そも道徳なるものは、存在するのかという疑問である。
わかりやすくするため、「道徳」を、「善悪判断」と
言い換えてもよい。
が、ここでも問題が生ずる。
「善とは何か?」「悪とは何か?」と。
またそれは教育によって、子どもたちに伝えられるものなのだろうか。
NG先生(元小学校校長)は、こう述べている。
「道徳の時間で道徳を教えていると、先生好みの、きれいごとばかり
並べる子どもが出てくる」と。
つまりこう言ったり、書いたりすれば、先生が喜ぶだろうという意見や
解答を、先回りして子どもが発表したり、書くようになる、と。
また「そういう技術ばかり、先に身につけてしまう」(NG先生)と。
が、それでは道徳教育にならない。
●仮面
が、さらに不都合なことが起きる。
見てくれの「善」を子どもに押しつけると、やがて子どもは仮面をかぶる
ようになる。
俗に言う、「いい子」ぶるようになる。
親の過干渉や過関心、あるいは過剰期待が強すぎても、子どもは、いい子ぶる
ようになる。
イプセンの『人形の家』の中の。「人形子」(後述、原稿添付)を、思い起こすまでもない。
つまり仮面をかぶることによって、本来の自分、もっと言えば、本来の子ども自身、
さらには本来の人間性まで、心の隅に押し殺してしまう。
それがいかに危険なものであるかは、ユングのシャドウ論を読めばわかる。
(シャドウ論については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)
●結論
人間が、社会的動物として生きていくためには、「規律」は必要である。
それは当然であるとしても、しかしその規律は、絶対的なものではない。
臨機応変に、変化し、そのつど柔軟さをもっていなければならない。
が、さらに一歩進んで、「規律があるから・・・」という、規律依存型の
考え方から、「規律のあるなしにかかわらず、自らを律する」という、自立型の
考え方に進んでいく。
それが「脱・規律」ということになる。
コールバーグが説いた、「脱・道徳」とは、ちがうものかもしれない。
本当のことを言えば、「道徳」でも、「モラル」でも、はたまた「Moral」でもよい。
コールバーグにこだわる必要はない。
私たちは私たち自身の頭で考え、行動すればよい。
自分で責任を取ればよい。
コールバーグの決めたことを、「規範」とするなら、それを超えた理論を展開する。
それこそがまさに、「脱・規律」ということになる。
(100426)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 脱規律論 脱道徳論 脱規範 道徳 道徳教育 コールバーグ)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●人形子について
+++++++++++++++
●人形子(にんぎょうし)
08年6月の原稿より。
++++++++++++++++++++
A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。
あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。
そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。
そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。
++++++++++++++++++++
ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1~2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。
できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。
やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。
先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。
学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。
そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)
冒頭で、「10人のうち、1~2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2~3人に
なるかもしれない。
が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。
というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。
つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。
こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。
一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。
親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。
「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。
「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。
自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。
「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。
学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。
しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。
では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。
が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。
何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。
非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。
(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)
たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。
このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。
「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。
しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。
(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)
++++++++++++++++++++++++
【引きこもりvs家庭内暴力】
++++++++++++++++
将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。
それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。
問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。
この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。
思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。
そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。
つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。
が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12~14歳前後か。
ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。
中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。
そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。
が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。
ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。
そこであなたの子どもは、どうか?
あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。
もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。
子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。
賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 10年 6月 2日号
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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●心の壊れた人
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世の中には、心の壊れた人がいる。
他人の不幸を興味本位でのぞいて、
それを酒の肴(さかな)にして、楽しんで
いる人がいる。
さらに進んで、「他人の不幸話ほど、おもしろい
ものはない」と言ったバカさえいる。
A氏(65歳)は、私にこう言った。
「あいつ(A氏の従兄)が、パーキンソン病に
なったそうだ。
今度見に行ってやろう」と。
A氏とA氏の従兄は、仲が悪かった。
10年にわたって、いがみあったこともある。
そのためA氏の従兄がパーキンソン病に
なったことが、うれしくてしかたないと
いったふうだった。
が、A氏には、それがわからない。
つまり自分の心が、すでに壊れていることが
わからない。
不幸にして不幸な乳幼児期を過ごしている。
それが直接的な原因ではないにしても、
「見に行こう」はない。
まさに、悪魔。
悪魔の言葉。
で、何と、そのあとしばらくしてから、A氏は
こう言った。
何でも妹氏(6歳下)を連れて、見舞いに
行ってきた、と。
もちろん「見舞い」ではない。
「見物」である。
一見、同情するフリをしていたが、その言葉には、
心がこもっていない。
口先だけで、「かわいそう」という言葉を
繰り返していた。
++++++++++++++++++++
●他人の不幸をのぞく人
他人の不幸を、興味本位でのぞける人というのは、そうはいない。
いないが、少なくないことも事実。
が、のぞくのはその人の勝手としても、のぞかれる人は、たまらない。
そのとたん、苦しみや悲しみが倍加する。
(倍加程度では、すまない。)
友人のT氏(63歳)が、こんな話をしてくれた。
T氏が、兄や母の介護問題で苦しんでいたとき、同じようにして、のぞかれた
ことがあるという。
そういう人たちは、いかにも心配していますというフリをしながら、近づいて
くる。
が、その実、何も心配などしていない。
こんなことがあったという。
T氏の兄が胃潰瘍がこじれて入院したときのこと。
見舞いに行ったら、T氏の兄は家の商売のことを心配していたという。
そこでT氏は、またその翌日、再び、今度は、小遣いをもって、兄を見舞った。
で、その数日後のこと。
T氏の親類のB氏(従兄)から、電話があった。
皮肉たっぷりの言い方だったという。
いわく、「おまえの兄さん、入院したぞ。入院したぞ。知っているか?」と。
間延びした、どこかネチネチした言い方だった。
そこでT氏が、「知っています。おととい見舞ってきましたから」と。
その言葉に驚いて、B氏は、「えっ、……見舞っ……た?」と。
以後、T氏はB氏とは、関係を断ったという。
●自己認識
心の壊れた人には、奇妙な一貫性がある。
一事が万事。
万事が一事。
脳のCPU(中央演算装置)が壊れているため、自分の心が壊れていることに
気づくことはない。
ないばかりか、自己中心性が強いため、他人もまた自分と同じと考える。
あるいは自分を基準として、ものを考える。
他人を見る。
つまりどこまでも心のさみしい人ということになる。
●他人の不幸はのぞかない
生きていくことには、いくつかの大原則がある。
そのひとつ。
『他人の不幸はのぞかない』。
それとわかっていても、あるいが気がついていても、そっとしておいてやる。
もちろん相手から相談でもあれば、話は別。
そうでなければ、そっとしておいてやる。
見舞いにしても、一度、家人に相談してから行くのが、常識。
いきなり相手の家に押しかけて、「見舞いに来ました」はない。
来られたほうも、困る。
ばあいによっては、(多くのばあいそうなのだが……)、かえって不愉快。
が、そういう常識の備わっていない人が多いから、困る。
もしそれがわからなければ、自分のこととして考えてみればよい。
どこのだれが、自分の無様(ぶざま)な姿を、人前にさらけ出したいか?
いきなり来られたのでは、かえってそのままそれをさらけ出すことになる。
そういう見舞いが平気でできる人というのは、相手の気持ちが理解できない。
「見舞いに来てやったから、喜んでいるはず」という、きわめて自己中心的な
『ハズ論』だけで、自分の行為を正当化してしまう。
これが先に書いた、「一貫性」ということになる。
●さらに……!
さらにこんな話も聞いた。
その人、Kさん(75歳女性)は、1年近く、うつ病で家の中に閉じこもっていた。
家の中でもいちばん暗いところに、身を横たえていた。
そんな女性のところへ、ある日、親類の女性(70歳)が見舞いにやってきた。
Kさんは、最初、面会を拒否した。
「だれにも会いたくない」と言った。
が、見舞いに来た親類の女性は、強引に部屋の奥まで入っていき、Kさんの枕元に
ひざまづいたという。
そして何と、あろうことか、お経を読み始めた……!
その親類の女性というのは、どこかの宗教団体に属していた。
そこで覚えたお経を、Kさんの前で唱えたというのだ。
狂信性もここまでくると、怒れるより先に、笑えてくる。
(もちろんKさんの病気を笑っているのではない。
見舞いに来た親類の、その女性の頭(おつむ)のほうを笑う。)
無神経な人は、どこにでもいる。
そんなバカなことで鬱病が治るくらいなら、医者などいらない。
もっともその女性のばあいは、本気で(?)、Kさんのことを心配していたのかも
しれないが……。
●精進(しょうじん)
あなたの周りにも、ここに書いたような人がいるかもしれない。
しかしそういう人とは、できるだけ早く、離れたほうがよい。
長くつきあって、よいことは何もない。
ないばかりか、その人の毒気に染まってしまうことすら、ある。
一方、あなたはあなたで、もしそういう傾向があるなら、あとは「精進」あるのみ。
そういう自分と闘う。
闘って、そういう自分を自分の中から、追い出す。
方法は簡単。
いくつかの原則論を定め、それに従って生きる。
(1)ウソはつかない。
(2)約束は守る。
(3)人の悪口は言わない。
(4)グチは言わない。
(5)他人の不幸には干渉しない。
(6)他人の不幸は、自分のものと考える。
(7)他人の不幸を望まない。
(8)他人の不幸を笑わない。
そして何よりも大切なことは、(9)心の壊れた人とは、つきあわない。
●奇妙な一貫性
奇妙な一貫性について、補記する。
ここに書いたB氏(T氏の従兄)に、直接会ったことはない。
ないが、その周辺の人から、こんな話を聞いた。
B氏には2人の息子がいる。
そのうちの1人が、D症という、生まれながらの病気にかかっている。
現在は、35歳前後とか。
B氏は、その息子のことを、隠している。
ぜったいに表(外)には、出さないという。
最近、もう1人の息子が結婚式をあげたが、その結婚式にも列席させなかったという。
「インフルエンザで急に熱を出しまして……」と、結婚式の場では、そう言って、
弁解していたという。
これが私が言う「奇妙な一貫性」である。
(他人の不幸を笑う)→(自分の不幸も、他人に笑われると思う)、と。
つまり他人の不幸を笑った分だけ、今度は、その人自身が苦しむということ。
だから私はあえて(6)の「他人の不幸は、自分のものと考える」という原則を並べた。
それが日常的にできるようになると、その分だけ、心が広くなる。
その心で、自分の不幸まで、包み込むことができるようになる。
(付記)
先日、近くのショッピングセンターの食堂へ行ったら、家族で食事をしている
人たちを見かけた。
6~7人のグループだった。
祖父母、若い父母、それに2~3人の子ども。
その子どもの中の1人(6歳くらい)が、ここに書いたD症の子どもだった。
が、そのグループの人たちは、まったく平然と、楽しそうにみなで食事をしていた。
それを見た私の方まで、楽しくなるような雰囲気だった。
その子どもは、D症だったが、家族の暖かい愛情に包まれていた。
その温もりが、私のほうまで伝わってきた。
私の心まで暖かくした。
よい家族というのは、そういう家族をいう。
よい人たちというのは、そういう人たちをいう。
ここに書いた、「他人の不幸を笑う人」というのは、その(よい人)と、ちょうど反対の
位置にいる人と考えると、わかりやすい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 他人の不幸 他人の不幸を笑う人 他人の不幸論 不幸をのぞく人
よい人たち 愚かな人たち。はやし浩司 よい人 心の暖かい人 心の温もり)
Hiroshi Hayashi+教育評論++April.2010++幼児教育+はやし浩司
●その人の基本
++++++++++++++++++
その人とは、何か?
その人の基本とは、何か?
それが60歳を過ぎると、「輪郭」として
わかるようになる。
おおざっぱに、わかるようになる。
自分のことでもよい。
配偶者のことでもよい。
親類のことでもよい。
「あの人は、こういう人」と。
その「輪郭」は、実は乳幼児期に作られる。
乳幼児期に作られたまま、それが原型となって、
みな、おとなになっていく。
四角い人は、四角い人のまま、。おとなになっていく。
丸い人は、丸い人のまま、おとなになっていく。
+++++++++++++++++
●オオカミ姉妹
ここ数日、オオカミ姉妹の話が気になる。
もう一度、昨日書いた原稿を、ここに書き出してみる。
●オオカミに育てられた姉妹
++++++++++++++++++
オオカミ姉妹(カマラとアマラ)について、
たびたび書いてきた。
「野生児」とも呼ばれる。
1920年10月に、インドで見つかった
2人の姉妹をいう。
この2人の姉妹について、私はあちこちで
書いてきたし、講演会でも、よく話してきた。
が、正確でない部分も多々、あった。
いろいろな資料をもとに、もう一度、
オオカミ姉妹について、整理しておきたい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(1)1920年10月、カルカッタの南、ゴダムリという村で見つかった。
(2)オオカミが住んでいた、シロアリの塚の中から、見つかった。
(3)2人の少女は、そのまま孤児院に入れられた。
(4)名前を、カマラ(姉、推定年齢8歳)、アマラ(推定年齢1歳)と名づけられた。
(5)A.L.シング夫妻らによって、養育された。
(6)当初、2人の姉妹は、オオカミのようにひざまづいてものを食べた。
(7)4つ足で走り、オオカミのような叫び声をあげた。
(8)アマラは約1年後に死亡。
(9)カマラは推定年齢17歳まで、生きた。
(10)その過程で、衣食住の生活習慣を身につけた。
(11)6年後には直立して歩行した。(推定年齢、14歳。)
(12)7年後には、45語を話せるようになった。
(13)中枢神経系に、器質的な異常は認められなかった。
(以上、「心理学とは何だろうか」(無藤!)・新曜社)より)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
この中でとくに注意しなければならないことは、(10)~(12)。
年齢を追って、もう一度、整理してみる。
姉のカマラは、推定年齢8歳で見つかっている。
その姉は、「6年後」、つまり推定年齢、14歳で、やっと直立して歩行するようになった。
「7年後」、つまり推定年齢、15歳で、45語の言葉を話せるようになった。
もしカマラが、ごくふつうの家庭で生まれ育ったなら、満1歳前後には、直立して歩き、
満2歳前後には、ある程度の会話ができるようになっていただろう。
しかしカマラのばあい、直立して歩けるようになるまでに、見つかってから6年も
かかっている!
45語の言葉を話せるようになるまでに、7年もかかっている!
さらに別の記録によれば、カマラにしても、また同じころフランスで見つかった
ビクトールという少年にしても、最後まで、人間らしい感情や心を取り戻すことは
なかったという。
●三つ子の魂
この野生児の例は、乳幼児期における(親子のふれあい)がいかに重要なもので
あるかを説明するために、よく取り上げられる。
と、同時に、そのころその人の「輪郭」ができるということも、明確に示している。
ほとんどの人は、「私は私」と思っている。
しかしその実、その「私」は、乳幼児期にその「輪郭」ができあがったとみてよい。
その結果が今であり、今の「私」は、その結果に過ぎない。
心のやさしい人、心の冷たい人。
穏やかな性質の人、はげしい気性の人。
何ごともやる気満々の人、いつも逃げ腰の人。
ものごとをよく考える人、考えない人。
他人に感動しやすい人、感動しない人などなど。
わかりやすい例としては、ケチ(ためこみ屋)と呼ばれる人がいる。
発達心理学的に説明すれば、肛門期(フロイト)に、愛情飢餓を経験すると、内へ内へと、
ものをためやすくなる。
それがケチになったり、ためこみ屋になったりする。
長男、長女のこのタイプの人が多いのは、下の子(弟、妹)が生まれたことにより、
愛情飢餓の状態に陥ったためと考えられている。
まさに『三つ子の魂、百まで』ということになる。
●自己診断法
そこで「自分探し」ということになる。
が、言い替えると、「自分の輪郭探し」ということになる。
つまり自分で自分の輪郭を知る。
それは可能なのか。
またその方法は、あるのか。
「私」という人間の輪郭が、乳幼児期に作られたことはわかる。
が、その輪郭といったものは、どういうものなのか。
ひとつの診断法として、こんなものがある。
「私は子どものころから……」という文章につなげて、自分のことを書いてみる。
あまり深く考えないで、思いついたままを書くのがコツ。
あなたも一度、この診断をしてみるとよい。
===============
「私」を知る、自己診断法
===============
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
○私は、子どものころから……(
===============
以上、20問用意してみた。
その結果を見ながら、自己分析をしていく。
●私のばあい
私も、してみる。
(ヨーイ、スタート!)
○私は、子どものころから……(何にでも興味をもった。
○私は、子どものころから……(捜し物が、苦手だった。
○私は、子どものころから……(さみしがり屋だった。
○私は、子どものころから……(外ではにぎやかな子どもだった。
○私は、子どものころから……(甘い食べ物が好きだった。
○私は、子どものころから……(負けん気が強かった。
○私は、子どものころから……(個人的に活動することが多かった。
○私は、子どものころから……(集団行動が苦手だった。
○私は、子どものころから……(寒がりだった。
○私は、子どものころから……(ものを作るのが好きだった。
○私は、子どものころから……(他人の心を読むのが苦手だった。
○私は、子どものころから……(女の子が苦手だった。
○私は、子どものころから……(絵を描くのが好きだった。
○私は、子どものころから……(好奇心が旺盛だった。
○私は、子どものころから……(いじけやすく、ささいなことをよく気にした。
○私は、子どものころから……(庭のある家に住みたかった。
○私は、子どものころから……(貧乏がこわかった。
○私は、子どものころから……(酒や酒のにおいが、嫌いだった。
○私は、子どものころから……(行動的だった。
○私は、子どものころから……(正義感が強かった。
=================
●自己分析
同じようなテストを、私のワイフや、生徒たち(中高校生)にしてもらったことが
ある。
が、不思議なことに、他人のばあいは、「輪郭」がよく見える。
「この子は、こういう子だな」と。
しかし自分のこととなると、「輪郭」がよくわからない。
あのフロイトも、自分の夢判断を、弟子のユングに頼んでいる。
そういう意味でも、自分のことを知るのは、むずかしい(?)。
それはさておき、そこであなたは、私の回答を読んで、私の「輪郭」をどのように
思っただろうか。
あなたは私を、どのような「輪郭」をもった人間と思っただろうか。
が、ここではその内容は、あまり重要ではない。
また私の自己分析をするのが、目的ではない。
あなたが私についてどんな印象をもったにせよ、その印象、つまりここでいう「輪郭」
は、私の乳幼児期に作られたものということ。
それが現在の「私」の骨格になっている。
もちろんこのことは、あなた自身についても、当てはまる。
●臨界期仮説(critical period hypotheses)
「臨界期」という言葉が、ここ数年、急速に注目されるようになってきた。
もともとは、「言葉の発達についての仮説」として生まれた。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
+++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++
言語学および第二言語習得における臨界期仮説(英: critical period hypotheses)とは、臨界
期とよばれる年齢を過ぎると自然な言語能力の習得が不可能になる、という仮説である。
母語の習得および外国語の習得の両方に対して使われる。
臨界期の時期には諸説あるが、だいたい出生から思春期(12歳から15歳ごろ)までである
とされている。第一(L1)・第二言語(L2)両方の習得に関して年齢が重要な要素となって
いることは定説となっているが、はたして臨界期なるものが本当に存在するのか、また存
在するとしたらそれがいつなのかなどについては長い議論があり、仮説の域を出ていない。
野生児または孤立児と呼ばれる幼児期に人間社会から隔絶されて育った子供は、後に教育
を受けても言語能力、特に文法に従った文を作る能力については著しく劣ることが知られ
ている[1]。
また、外国語の学習でも、一家で国外へ移住した移民の親より子供のほうが外国語を早く、
また上手に使いこなせるようになることは広く知られている。母語・外国語両方の習得の
成否について年齢が大きな影響を与えていることは、日常の経験からも、言語学の研究結
果[2]からも納得されることである。
年齢が上がると言語を習得することが困難になる原因についてはさまざまな説が提唱され
ている。しかし、年齢以外のファクターを除外できていない可能性があるという批判もあ
り、たとえば脳生理学的な変化や心理的影響を原因とする説などもあるが、21世紀初頭現
在でははっきりとは解明されていない。
それに加え、個々の言語能力についての臨界期は異なるという説もある。たとえば発音に
ついてはかなり低い年齢に臨界期が存在するという強い証拠があるが、語順などの統語的
規則についての臨界期は遅いという主張もある[3]。また、語彙については明確な臨界期が存
在しないとの説もある[4]。
+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++
だからといって、「臨界期仮説」を、言語に限ることはない。
先にあげたオオカミ姉妹についても、「言語」だけが問題になっているわけではない。
「言語」は、もろもろの才能の一部でしかない。
とくに注目すべきは、「人間らしい心」ということになる。
少し拡大解釈すれば、「人間らしい心」にも、臨界期があるということになる。
またそう解釈してよいことは、冒頭に書いたように、それが60歳を過ぎると、「輪郭」
としてわかるようになる。
たとえば身近にいる、X氏ならX氏に焦点を当ててみる。
Yさんでもよいし、Z氏でもよい。
そういう人たちの人生を、全体としてながめてみる。
するとそこにその人の「輪郭」が浮かびあがってくる。
心の暖かい人は、暖かい。
心の冷たい人は、冷たい。
ウソのつけない人もいる。
一方、ウソばかりついている人もいる。
そしてその「輪郭」というのは、その人が子どものときのそれと、現在のそれと、
それほど違わないことに気づく。
つまりそれぞれの人は、「心」も、いくつかの臨界期を経て、作られていくのがわかる。
言い替えると、そのときどきの適切な時期に、適切な環境の中で、適切な(ふれあい)を
経験することによって、「心」も作られていくということ。
繰り返しになるが、60歳を過ぎると、それがよくわかるようになる。
そこで結論。
かつてアインシュタインは、こう言った。
「教育というのは、学校で学んだことをすべて忘れてしまったあとに、残っているもの」
と。
この言葉を拝借すると、こうなる。
「私というのは、私をすべて忘れてしまったあとに、そこにぼんやりと浮かびあがって
くるもの」と。(100426)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 私とは 私論 野生児 カマラ アマラ オオカミ少女 オオカミ姉
妹 輪郭論 臨界期)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●道徳とMoral(モラル)
++++++++++++++++++
私はずっと、「道徳」イコール、「Moral」、
「Moral」イコール、「道徳」と考えていた。
しかし日本語と英語は、必ずしも一致しない。
よい例が、「尊敬」と「respect」である。
日本語で、「尊敬する」というと、「相手を尊く、
敬う」という意味で使われる。
英語で「respect」というと、日本語の
「尊敬」よりは、ずっと意味が軽い。
「一目置く」とか、「敬愛する」とか、そんな
ニュアンスになる。
日常的にもよく使う。
たとえば自分の子どもが発表会の場なので、
堂々と自分の意見を言ったりすると、親は
自分の子どもに向かって、「I respect
you.」などと言ったりする。
「よくやったね!」という意味に近い。
「尊敬する」という意味では、むしろ、
「I am proud of you.(あなたを
誇りに思う)」のほうが、よく使われる。
そういうちがいを無視して、日米の子どもの意識を
比較調査しても、あまり意味がない。
たとえば「あなたはあなたの父親を尊敬しますか」
という質問項目があったとする。
質問を受けた日本の子どもは、そう聞かれると、身を
構えてしまう。
真顔になってしまう。
一方、英語国の子どもなら、「Do you respect
your father?(あなたの父親を尊敬しますか)」
と聞かれれば、あまり深く考えないで、「Yes!」と答えるだろう。
同じことが、「道徳」についても言える。
「道徳」というと、日本では、「すでに規範として確立された、
守るべき規律」という意味で使われている。
道徳を否定する人はいない。
一方、「Moral」というと、辞書などには、
「規律」という訳語が載っている。
「規律一般」をいう。
大修館ジーニアス英和辞典にも、「原義、風俗習慣」とある。
その中には、「よい規律」もあれば、「悪い規律」も
ある。
日本語でいう「道徳」とは、かなり意味がちがう。
ただ「モラル」というカタカナ言葉は、「道徳」と同じ意味で
使われることが多い。
そのあたりに、誤解の元(もと)がある。
日本語で、「モラル」というと、そのまま「道徳」という
意味で使われる。
たとえば「モラルが低下した」と言えば、道徳心が低下
したという意味になる。
「それはモラルの問題」というような言い方をするときもある。
で、誤解というのは、コールバーグの説いた、「脱道徳論」
である。
コールバーグは、道徳の完成度が高くなればなるほど、
人は、「脱道徳」になると説く。
最終的には、「人間は普遍的価値を求め、命を中心に置いた
ものの考え方をする」(新曜社・「心理学とは何だろうか」)と。
が、ここで首をかしげる。
日本人なら、みな、首をかしげる。
道徳というのは、先にも書いたように、「確立された規範」をいう。
「それから脱するということは、どういうことか?」と。
実際、「このような発達段階が真に存在するだろうか」と
疑問を投げかけている学者もいる(お茶の水大学M教授)。
しかしここに、今まで書いてきたことを当てはめてみると、
謎が解ける。
コールバーグは、「規律などというものは、必要最低限のものである。
自ら考え、行動し、責任を取ることこそ重要」と説いている。
そういう意味で、「脱・規律」という言葉を使った。
そしてそれを誤訳ではないが、「脱道徳」としたから、
日本人には、理解できなくなってしまった。
(注:「心理学とは何だろうか」の中では、「脱慣習的段階」と
なっている。)
本来なら、コールバーグの書いた論文を原書で読んだ
上で、この原稿を書かねばならない。
コールバーグは、本当に「Moral」という言葉を
使ったのだろうか?
そういう疑問がないわけではない。
それもわからず、こういう原稿を書くこと自体、
いいかげん。
私にもそれがよくわかっている。
わかっているが、あえてそれを調べて書く必要もない。
私は私のやり方で、つまり勝手にコールバーグの「脱道徳論」
を、考えなおしてみればよい。
+++++++++++++++++
●脱・規律論
規律に対しては、3つの段階に分けられる。
(道徳ではなく、あくまでも「規律」。)
(1)前規律段階
「規律」に盲目的に従い、自立した思考力のない段階。
たとえば「軍規にはこうあるから」などという理由で、批判を加える
ことなく、それに従ったりすること。
(2)規律段階
「規律」といっても、そのつど取捨選択しながら従うという段階。
たとえば「規則ではそうなっているが、今は、緊急事態だから、別の考え方
をする」というのが、それ。
(3)脱規律段階
規律の存在は認めながらも、自分で考え、行動し、責任を取る段階。
一般的な規律よりもさらにきびしい規律を、自分に課すことが多い。
たとえば主義主張を守るため、あえて既存の規律に背を向けて、行動するなど。
当然のことながら、後者ほど、道徳(Moral)の完成度が高い人
ということになる。
が、このことは、フロイトが説いた、(1)エスの人、(2)自我の人、
(3)超自我の人の分類法に、どこか似ている。
フロイトは、欲望のおもむくまま行動するする人を、「エスの人」、
臨機応変にそのつど理性的に判断する人を、「自我の人」、
そしてどんなばあいも、理性に従い、まちがったことをしない人を、
「超自我の人」と呼んだ。
●道徳
それが人間が守るべき規範として確立された「規律」である
とするなら、守るのが当然。
「規則」とは、ちがう。
「規律」とも、ちがう。
「基準」とも、ちがう。
道徳は、道徳。
しかしここで最大の疑問が生じてくる。
そも道徳なるものは、存在するのかという疑問である。
わかりやすくするため、「道徳」を、「善悪判断」と
言い換えてもよい。
が、ここでも問題が生ずる。
「善とは何か?」「悪とは何か?」と。
またそれは教育によって、子どもたちに伝えられるものなのだろうか。
NG先生(元小学校校長)は、こう述べている。
「道徳の時間で道徳を教えていると、先生好みの、きれいごとばかり
並べる子どもが出てくる」と。
つまりこう言ったり、書いたりすれば、先生が喜ぶだろうという意見や
解答を、先回りして子どもが発表したり、書くようになる、と。
また「そういう技術ばかり、先に身につけてしまう」(NG先生)と。
が、それでは道徳教育にならない。
●仮面
が、さらに不都合なことが起きる。
見てくれの「善」を子どもに押しつけると、やがて子どもは仮面をかぶる
ようになる。
俗に言う、「いい子」ぶるようになる。
親の過干渉や過関心、あるいは過剰期待が強すぎても、子どもは、いい子ぶる
ようになる。
イプセンの『人形の家』の中の。「人形子」(後述、原稿添付)を、思い起こすまでもない。
つまり仮面をかぶることによって、本来の自分、もっと言えば、本来の子ども自身、
さらには本来の人間性まで、心の隅に押し殺してしまう。
それがいかに危険なものであるかは、ユングのシャドウ論を読めばわかる。
(シャドウ論については、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。)
●結論
人間が、社会的動物として生きていくためには、「規律」は必要である。
それは当然であるとしても、しかしその規律は、絶対的なものではない。
臨機応変に、変化し、そのつど柔軟さをもっていなければならない。
が、さらに一歩進んで、「規律があるから・・・」という、規律依存型の
考え方から、「規律のあるなしにかかわらず、自らを律する」という、自立型の
考え方に進んでいく。
それが「脱・規律」ということになる。
コールバーグが説いた、「脱・道徳」とは、ちがうものかもしれない。
本当のことを言えば、「道徳」でも、「モラル」でも、はたまた「Moral」でもよい。
コールバーグにこだわる必要はない。
私たちは私たち自身の頭で考え、行動すればよい。
自分で責任を取ればよい。
コールバーグの決めたことを、「規範」とするなら、それを超えた理論を展開する。
それこそがまさに、「脱・規律」ということになる。
(100426)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 脱規律論 脱道徳論 脱規範 道徳 道徳教育 コールバーグ)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●人形子について
+++++++++++++++
●人形子(にんぎょうし)
08年6月の原稿より。
++++++++++++++++++++
A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。
あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。
そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。
そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。
++++++++++++++++++++
ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1~2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。
できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。
やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。
先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。
学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。
そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)
冒頭で、「10人のうち、1~2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2~3人に
なるかもしれない。
が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。
というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。
つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。
こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。
一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。
親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。
「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。
「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。
自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。
「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。
学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。
しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。
では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。
が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。
何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。
非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。
(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)
たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。
このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。
「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。
しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。
(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)
++++++++++++++++++++++++
【引きこもりvs家庭内暴力】
++++++++++++++++
将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。
それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。
問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。
この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。
思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。
そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。
つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。
が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12~14歳前後か。
ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。
中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。
そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。
が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。
ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。
そこであなたの子どもは、どうか?
あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。
もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。
子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。
賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 自分を演ずる子ども 仮面をかぶる子供 仮面をかぶる子ども)
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はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?
よろしくお願いします。 はやし浩司
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まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
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.**/| |Q ⌒ ⌒ Q Bye!
. = | QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m~= ○
. ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================
2010年6月1日火曜日
*How to accept the Old Ages
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
【老後の受諾】
++++++++++++++++++
どう老後を受け入れるか?
これは私の年齢の者たちにとっては、大問題。
いくら「私はまだ若い!」と叫んでも、その声は、
暗い闇の向こうに、そのまま吸い込まれてしまう。
もがく、苦しむ、抵抗する。
希望と失望、これを繰り返す。
しかしやがてそれも限界にたどりつく。
たどりついて、受け入れる。
老後を受け入れる。
+++++++++++++++++++
●葛藤期
ときとして事実を認めるのは、つらい。
受け入れるのは、さらに、つらい。
しかし事実は事実。
その事実は、だれにも曲げられない。
避けられない。
「老後」も、そのひとつ。
だから葛藤する。
「拒否」と「受諾」、
「絶望」と「希望」、
「依存」と「独立」、
「悲哀」と「感謝」、
「怒り」と「喜び」……。
交互にそれらが心の中で行き交う。
が、何よりもつらいことに、加齢とともに、「不安」と「心配」が、増大する。
●老後の準備
が、人は、それほど長い期間、不安や心配に耐えられない。
やがて大きな選択に迫られ、老後を受け入れる。
そこにある「事実」を受け入れる。
そして一歩ずつだが、老後の準備を始める。
が、それはけっして「終わりの始まり」ではない。
老後イコール、人生の終わりではない。
まさに別世界。
私とワイフは、つい先日、こんな結論を出した。
(1)どちらか一方が、先に死ぬまで、2人でがんばる。
(2)どちらか一方が死んだら、残されたほうは、有料老人ホームに入る。
(3)自活できなくなったら、そのまま特養老人ホームに入る。
(4)そこで静かに死を迎える、と。
とたん、気が楽になった。
葛藤から、解放された。
●「遊ぶ」
私は若いころ、仕事ばかりしていた。
その反動かもしれない。
この年齢になってはじめて、「遊ぶ」という言葉の意味がわかった。
「遊ぶ」といっても、享楽的に、欲望を追求することではない。
「遊ぶ」というのは、心の中に風を通すこと。
無駄なことをして、(本当は無駄ではないが)、「損」を心の中で克服すること。
それはたとえて言うなら、見知らぬ土地で、花の種を植えるようなことをいう。
二度と行かない土地かもしれないが、そこで花の種を植える。
それが「遊ぶ」という言葉の意味。
それだけではない。
この年齢になってはじめて、……つまり老後を受け入れるようになってはじめて、
「損」の意味もわかるようになった。
人は死によって、すべてを失う。
その「損」にくらべたら、私たちが日常的に経験する「損」など、何でもない。
生きていること自体が、「得」。
その「得」にくらべたら、そこらにある「損」など、何でもない。
いくら損をしても、それを「損」と感じるようなら、まだ幸い。
生きているから、そう感ずる。
●あとは風任せ
あとは風任せ。
「命」など、私がいくらがんばっても、どうにもならない。
そう、先日、悪性リンパ腫にかかって、闘病生活をしているOKさん(59歳)が、
こう教えてくれた。
「林先生、死の宣告なんてものはね、前から来るんじゃありませんよ。
うしろから突然やってきて、肩をたたきながらやってきますよ」と。
ただ健康だけは、自分の意思と力で何とかなる。
完ぺきではないが、多少は動かせる。
だから運動をする。
体を鍛える。
肉体の健康と併せて、脳みその健康もそうだ。
ただぼんやりと日々を過ごし、それで「私は健康でいたい」は、ない。
……本当のところ、まだ葛藤はつづいている。
しかし方向性が定まったことで、かなり気が楽になった。
あとはその方向性に従って、準備を始めるだけ。
今は、そのとき。
(2010/06/01)
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
【就学前の学習・5歳児・数の学習・BW教室byはやし浩司】+小学2年生
【幼児教室byはやし浩司】幼児の指導&BW子どもクラブ・BW教室の公開教室(浜松市)byはやし浩司 BW Children’s Club, Hamamatsu Japan by Hiroshi Hayashi はやし浩司の実践教室と幼児の指導およびレッスン風景+子育てのポイント、指導法ほか
Hiroshi Hayashi+教育評論++June.2010++幼児教育+はやし浩司
【老後の受諾】
++++++++++++++++++
どう老後を受け入れるか?
これは私の年齢の者たちにとっては、大問題。
いくら「私はまだ若い!」と叫んでも、その声は、
暗い闇の向こうに、そのまま吸い込まれてしまう。
もがく、苦しむ、抵抗する。
希望と失望、これを繰り返す。
しかしやがてそれも限界にたどりつく。
たどりついて、受け入れる。
老後を受け入れる。
+++++++++++++++++++
●葛藤期
ときとして事実を認めるのは、つらい。
受け入れるのは、さらに、つらい。
しかし事実は事実。
その事実は、だれにも曲げられない。
避けられない。
「老後」も、そのひとつ。
だから葛藤する。
「拒否」と「受諾」、
「絶望」と「希望」、
「依存」と「独立」、
「悲哀」と「感謝」、
「怒り」と「喜び」……。
交互にそれらが心の中で行き交う。
が、何よりもつらいことに、加齢とともに、「不安」と「心配」が、増大する。
●老後の準備
が、人は、それほど長い期間、不安や心配に耐えられない。
やがて大きな選択に迫られ、老後を受け入れる。
そこにある「事実」を受け入れる。
そして一歩ずつだが、老後の準備を始める。
が、それはけっして「終わりの始まり」ではない。
老後イコール、人生の終わりではない。
まさに別世界。
私とワイフは、つい先日、こんな結論を出した。
(1)どちらか一方が、先に死ぬまで、2人でがんばる。
(2)どちらか一方が死んだら、残されたほうは、有料老人ホームに入る。
(3)自活できなくなったら、そのまま特養老人ホームに入る。
(4)そこで静かに死を迎える、と。
とたん、気が楽になった。
葛藤から、解放された。
●「遊ぶ」
私は若いころ、仕事ばかりしていた。
その反動かもしれない。
この年齢になってはじめて、「遊ぶ」という言葉の意味がわかった。
「遊ぶ」といっても、享楽的に、欲望を追求することではない。
「遊ぶ」というのは、心の中に風を通すこと。
無駄なことをして、(本当は無駄ではないが)、「損」を心の中で克服すること。
それはたとえて言うなら、見知らぬ土地で、花の種を植えるようなことをいう。
二度と行かない土地かもしれないが、そこで花の種を植える。
それが「遊ぶ」という言葉の意味。
それだけではない。
この年齢になってはじめて、……つまり老後を受け入れるようになってはじめて、
「損」の意味もわかるようになった。
人は死によって、すべてを失う。
その「損」にくらべたら、私たちが日常的に経験する「損」など、何でもない。
生きていること自体が、「得」。
その「得」にくらべたら、そこらにある「損」など、何でもない。
いくら損をしても、それを「損」と感じるようなら、まだ幸い。
生きているから、そう感ずる。
●あとは風任せ
あとは風任せ。
「命」など、私がいくらがんばっても、どうにもならない。
そう、先日、悪性リンパ腫にかかって、闘病生活をしているOKさん(59歳)が、
こう教えてくれた。
「林先生、死の宣告なんてものはね、前から来るんじゃありませんよ。
うしろから突然やってきて、肩をたたきながらやってきますよ」と。
ただ健康だけは、自分の意思と力で何とかなる。
完ぺきではないが、多少は動かせる。
だから運動をする。
体を鍛える。
肉体の健康と併せて、脳みその健康もそうだ。
ただぼんやりと日々を過ごし、それで「私は健康でいたい」は、ない。
……本当のところ、まだ葛藤はつづいている。
しかし方向性が定まったことで、かなり気が楽になった。
あとはその方向性に従って、準備を始めるだけ。
今は、そのとき。
(2010/06/01)
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