2012年1月4日水曜日

On Passions

☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
.  mQQQm            
. Q ⌒ ⌒ Q  ♪♪♪……   
.QQ ∩ ∩ QQ         
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ      
.  /~~~\  ⌒ ⌒      
. みなさん、   o o β       
.こんにちは!  (″ ▽ ゛)○   
.        =∞=  // 
□■□□□□□□□□□□□□□■□ ================= 
子育て最前線の育児論byはやし浩司   2012年 1月 4日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************

http://bwhayashi2.fc2web.com/page004.html

メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【映画・新少林寺を観る】2011/11/26

++++++++++++++++++はやし浩司

昼寝をしたあと、ワイフと映画『新少林寺』を観てきた。
星は5つの、★★★★★。
文句なしの5つ星。
過去、いろいろな映画を観てきた。
が、最後の『The End』の文字まで観たのは、
この数年で、この映画が、はじめて。

熱い涙が止まらなかった。
同時に、こう思い知らされた。
「私は仏教徒だったんだなあ」と。

私の体の中には、仏教が染みこんでいた。
子どものころからの思い出が、つぎつぎと
現れては消えた。
歓びや悲しみ、楽しかった思い出や、つらかった思い出……。
それが内なる世界から、熱い涙を押し出した。

映画『新少林寺』は、最後の10分間で、
これから私が生きる道に、大きな示唆を与えてくれた。
すばらしい映画だった。

もし『新少林寺』を観る機会があったら、
最後の最後まで観てほしい。
「The End」の文字が、しっかりと止まるまで……。

++++++++++++++++++はやし浩司

【欲望論】(本能とは)

●白い太もも(大腿部)

 家を出たとき、若い男と女が道路を歩いていた。
どこか物欲しそうに、しかし怪しげな歩き方だった。
が、何よりも目についたのは、女の白い太もも。
大腿部。
短いパンツに、ロング・ブーツをはいていた。
太ももは、99%、露出していた。
99%。
最後の1%で、左右のパンツがつながっていた。

●ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)

 2000年に入ってから、ミューチュアル・アッタチメント(相互愛着)という言葉が
使われるようになった。
母親(父親)と乳幼児の関係についていったもの。
つまりそれまでは、母親と乳幼児の関係は、一方的なものと考えられていた。
母親側から乳幼児へ。

 しかしそうではないことがわかってきた。
つまり乳幼児のほうからも、母親側に働きかけがあることがわかってきた。
あの乳幼児が、母親に、である。
わかりやすく言えば、乳幼児は、自ら、自分の(かわいさ)を演出することによって、親
の愛情を自分側にひきつけようとする。
エンゼル・スマイルもそのひとつと言われている。

 このことは逆に考えてみれば、よくわかる。
もし生まれたての赤ん坊が、母親に向かって、こう言ったとする。
「おい、ババア、乳よこせ!」と。

 とたん母親は乳をくれるのをやめてしまうだろう。
つまりその時点で、人類は絶滅の危機に立たされる。

●赤ちゃん返り

 幼児期によく知られた、愛情飢餓による現象に、「赤ちゃん返り」というのがある。
ほとんどは「下の子」が生まれたことにより、「上の子」が、赤ちゃんぽくなる現象をいう。
あの赤ちゃん返りは、本能的な部分に根ざしているため、叱ったり、説教しても意味はな
い。
そういうことをすれば、症状は、ますますひどくなる。
ばあいによっては、慢性的な発熱など、身体的症状などを伴うこともある。

 つまり乳幼児でも幼児でも、無意識のうちに、求める相手を自分に引きつけようとする。
ここにも書いたように、本能に近い部分から命令が発せられるため、本人がそれを意識す
ることはない。

●本題
 
 さて本題。

 太もも(大腿部)を99%見せて歩く、若い女。
明らかに男のS欲(禁止用語)を、刺激している。
しかしもちろん、本人には、その意識はない(……だろう)。
「どうしてそんな服装をしているの?」と聞けば、こう答えるにちがいない。
「ファッションよ」と。
つまり、オシャレ、と。

 しかし私はそうは考えない。
その理由のひとつが、ミューチュアル・アタッチメント。
乳幼児でも、その程度の本能がある。
いわんや思春期の娘、をや。

●無意識下の行動
 
 私の行動には、無意識に支配されるものが多い。
その例として赤ちゃん返りをあげた。
今までに何百という例を見てきた。
その子どもは、外から見たところ、本人の意思で行動しているように見える。

 その延長線上に、あの「太もも」がある。
そう考えたところで、論理的に無理はない。
つまり女性は無意識のうちにも、男性を誘惑するように行動する。
言い換えると、男性のほうが女性のそういった服装を見て、興奮するのではない。
女性のほうが、男性をして、そう思わせるように仕向ける。
先にも書いたように、本能に根ざしているだけに、本人がそれを意識することはない。
無意識のまま、そうする。

●「形あるものは、すべて無」(「新少林寺」)

 映画『新少林寺』で受けた感動が、まだ残っている。
その余韻もあって、過去に書いた原稿をいくつか探してみる。

++++++++++++++++++はやし浩司

●希望と期待

 希望にせよ、期待にせよ、それが「欲望」から発したものであれば、それは未来を約束
した希望や期待にはならない。
よく「光」という言葉を使う人がいる。
「希望は光」と。

 しかしそれは光ではない。
身を焦がす炎(ほのお)である。

たとえば子を育てる親の希望や期待には、際限がない。
受験にしても、やっとB高校へ入る力がついてくると、「何とかしてA高校へ」となる。
そのA高校が視野に入ってくると、今度は、「S高校へ」となる。

 こうして希望や期待は、際限なくふくらんでいく。
その結果、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。
ひとつの希望や期待がかなえられるたびに、その先でまた新たなる苦悩がやってくる。
処し方をまちがえると、家庭騒動、親子断絶、さらには家族崩壊へとつづく。
ただの「光」ではすまない。
つまり「炎」。
なぜか?
それが冒頭に書いたことである。
欲望から発しているからである。

●老後の希望

 若いうちは、まだよい。
それが意味のないものであっても、その希望や期待に、酔いしれることができる。
時間を無駄にしても、そこにはありあまるほどの余裕がある。
(本当は、余裕などないのだが……。)

 が、歳を取ると、そういうわけにはいかない。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
無駄にできる時間など、一瞬一秒もない。
そこで何度も書くが、エリクソンという学者は、「統合性の確立」という言葉を使った。
老齢期の生き方を説いたものである。
3年前に書いた原稿だが、参考になると思う。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)08年記

(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a
miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。
人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。
出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。
こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。
その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。
その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。
それが世代性ということになる。
その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1) 普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2) 没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3) 無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4) 高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5) 還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。
エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。
何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。
大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。
が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。
「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。
さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。

私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。
我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 
統合性の確立 無私 無我)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。
その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。
この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。

たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなり
ボランティア活動をしたところで、意味はない。
身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。
孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。
しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。
もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。

認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。
「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。
ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。
それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。
なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。
大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。
60歳をすぎれば、さらにそうである。
我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無」

 統合性を確立するためには、欲望を捨て、「無」の状態でなければならない。
功利、打算が入ったとたん、統合性は、霧散する。
ボランティア活動にしても、「無」でするから、意味がある。
何も期待しない。
見返りを求めない。
ただひたすら自分がすべきことをする。
それが「無」ということになる。

 で、2500年前に釈迦が説いた「無」と、近代に入ってサルトルが説いた「無の概念」
が、一致するということは、たいへん興味深い。
宗教の世界を、「観念論の世界」という。

一方、サルトルらが説いた世界を、「実存主義の世界」という。
まったく相反する世界の哲学が、最終的には、ひとつの世界に融合する。
(私自身は、釈迦は、宗教ではなく、現在に通ずる実存主義を説いたものと解釈している。
その釈迦の教えを、無理に宗教化したのは、後世の学者たちと解釈している。)
 釈迦は、「無」を哲学の根幹に置いた。
(いろいろ異論もあろうが……。)

一方、サルトルは、自由へのあくなき追求を経て、最終的には「無の概念」にたどりつく。
これについても、私はたびたび原稿を書いてきた。
 サルトルについて書いた原稿をさがしてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【自由であること】2009年記

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。
自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。
その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。
それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。

 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。「苦しみ」という代償である。自由とは、
『自らに由(よ)る』という意味。わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自
分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。明けても
暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。「自由がないから、さぞ
かし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。自由の国に住んでいる、私たち日
本人だけ。(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905~1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。人間が人間になったとき、その瞬間か
ら、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。わかりやすく言えば、
自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂
信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信する
という例は、少なくない。そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出
歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハ
ッピー。ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。みな、
それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。「私」
をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。いくら「私は私だ」と叫
んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、
私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放さ
せることができるか」を考えなければならない。しかしそれこそ、超難解な数学の問題を
解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の
問題を解くようなものではないか。少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問
題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるとき
がくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。個人の
立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取
り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。自由であることによる苦しみを考えたら、
布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。サルトルは、最後には、「無の概
念」をもって、この問題を解決しようとした。しかし「無の概念」とは何か? 私はこの
問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。そしてそれが、私の「自由
論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていた
ため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき 

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。
「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪
う。が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。
しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐
怖から、自分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経
験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会
話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる
習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。
その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイ
と押し殺さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、
さすがに私も声が震えた。
息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」、私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆ
えに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。
英語には『無条件の愛』という言葉がある。私が感じたのは、まさにその愛だった。しか
しその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●息子に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめること
でもない。「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、
許し、愛し、受け入れるということ。
「私」があるから、死がこわい。が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。一文
なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。
死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。では一緒に参りましょう」と言うこ
とができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。真の自由を手に入れ
たことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、
しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ
自由はある。またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。そういう人は多い。し
かしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実
自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがま
まにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任
をとることをいう。どこまでも研ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをい
う。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●釈迦の説く「無」

 では、釈迦は、「無」をどのように考えていたのか。
直接的には「空(くう)」という言葉を使った。
つぎの原稿は2006年に発表したものである。
が、本当は、もっと前に書いたかもしれない。
私はよく過去に書いた原稿を呼び出し、その原稿を改めるということをよくする。
しかし少なくとも、仏教と実存主義の融合に気づいたのは、このころということになる。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】2006年記

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。
四苦八苦の「四苦」である。
では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」であ
る。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。

(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることに
よる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦し
みをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをい
う。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。

簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、
行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し
前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)
→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、
説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦
しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。
無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり
涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということ
になる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。

 以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。

+++++++++++++++

●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっ
ても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるもの
は、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、
コンピュータの中の世界かもしれない。
 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の
目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面
には、ただの光の信号が集合されているだけ。
 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。
 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在し
て、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。
 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。
釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、
完成されたと言われている。
釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、6
00年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や
法華経などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではない
かと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひ
ょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこ
れが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされ
ている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるもの
を、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、
同じに考えてよいのではないか。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限ら
れた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、
「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。
億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、
この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と
思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味
であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかと
いうこと。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。
そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄に
することになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうど
う)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、
正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、
布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。
こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考
え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」とい
う程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。
中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そう
いう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、
その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自
分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格
が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になっ
たとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですとい
うような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、
私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)
に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんな
ことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まち
がったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間とし
て、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考
えてみたい。
(050925記)

(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識 無の概念 空)

+++++++++++++++++++

もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。

+++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」とい
うことになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中
正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味で
ある。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほど
ほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんとい
う意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)
正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言
葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というの
は、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられ
たような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進に
ついても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、
釈迦は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんば
る。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重
要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得
た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝
に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のう
ちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「や
る!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中に
は、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その
考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生
活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちが
いが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人から
は、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、
利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考え
る人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思って
いないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサ
をよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心
の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、
カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自
分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、
相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のもの
である。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。

(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、
一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすれ
ばよい。

++++++++++++++++++

 話をもとにもどす。

 あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自
由であることの限界、つまり死の克服を考えた。

 この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私
はここに、東洋哲学と西洋近代哲学の融合を見る。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 東洋哲学と西洋哲学の融合 無の概念 無 はやし浩司 空)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●欲望の克服

 私たちが「欲望」と呼んでいるもの。
それらはすべて「無」に発する。
「性欲」を例にあげるまでもない。

ただの排泄欲にすぎない性欲が、人間社会そのものを支配している。
フロイトですら、「性的エネルギー」という言葉を使っている。
つまり「性的エネルギー」が、あらゆる動物(もちろん人間も含む)の生命力の根幹にな
っている、と。
(これに対して、フロイトの弟子のユングは、「生的エネルギー」という言葉を使っている。)

 人間は絶え間なく、この欲望の支配下に置かれ、奴隷となり、それに振り回される。
が、たいへん悲しいことに、そうでありながら、ほとんどの人は、それに気づくこともな
い。
「私は私」と思い込んでいる。
ただの奴隷でありながら、それが「私」と思い込んでいる。
よい例が、電車の中で化粧をする若い女性。

 自分の意思で化粧していると本人は思い込んでいる。
「あなたは自分の意思で化粧をしているのですか」と聞いても、その女性はこう答えるだ
ろう。
「もちろん、そうです」と。

 が、その女性とて、その奥深くから発せられる「性的エネルギー」の奴隷でしかない。
その「奴隷である」という部分が、加齢とともに、やがてわかってくる。

●では、どうするか

 ここから先は、製品で言えば、まだ試作品(プロトタイプ)。
が、今の私は、こう考える。
希望や期待が、欲望に根ざすものであるなら、希望や期待をもたないこと。
へたに希望や期待をもつから、そのつど壁にぶつかり、葛藤を繰り返す。
怒りもそこから生まれる。
恨みも、ねたみも、そこから生まれる。

 ある賢人は、こう言った。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
あとでそれについて書いた原稿をさがしてみるが、怒りが強ければ強いほど、あるいは恨
みやねたみが強ければ強いほど、その人自身の人間性が破壊される。

 が、希望や期待を捨てれば、怒ることはない。
人を恨んだり、ねたんだりすることもない。

……と書くと、では、「人は何のために、何を目標に生きればいいのか」と考える人もいる。
が、答は、シンプル。
『そのとき、その場で、やるべきことを、けんめいにすればいい』と。
トルストイをはじめ、多くの賢人たちも、異口同音に、「そこに生きる意味がある」と説く。
つまり懸命に生きるところに意味がある、と。
釈迦もその1人。

 結局は、そこへ行き着く。
「結果」というのは、かならず、あとからついてくる。

 ここにも書いたように、これは試作品としての結論ということになる。
このつづきは、一度、頭を冷やしたあとに、書いてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 欲望(煩悩)論 煩悩論 欲望論)

(補記)2010年7月記

●『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディッ
ク)

+++++++++++++++++++++

人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

+++++++++++++++++++++++++

●ある女性(67歳)

 ついでながら、東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上
古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、
恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みず
からの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもな
く、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。
「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。
そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に復讐して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた伯父に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8~10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その伯父はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
『怒りは、人格を崩壊させる』と説く賢者もいる。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」とはっきり言われて、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)

●結論

 いろいろ書いてきたが、人間は欲望の奴隷と考えてよい。
その欲望が、さまざまな感情を生む。
東洋医学でも、そう教える。
その感情の中でも、「怒り」「うらみ」「ねたみ」は、心を腐らす。
ときには人格を崩壊させる。

 そこで重要なことは、つまり日々の生活の中で重要なことは、この怒りをどう手なずけ
ていくかということ。
それを自己管理能力といい、その能力のあるなしで、その人の人格の完成度が決まる。

 釈迦も「怒り」をきびしく戒めている。
フォスディックの言葉を借りると、こうなる。

●『Anger is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を怒るということは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

 今朝のキーワードは、「怒り」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 新少林寺 空 無の概
念 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 四
苦八苦 仏教 はやし浩司 怒り 恨み)


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2011++++++はやし浩司・林浩司


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

***********************************

このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
話していただけませんか?

よろしくお願いします。              はやし浩司
***********************************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  
まぐまぐプレミア版(有料版)のお申し込みは……
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■                      
.   *※※
.※※  ***※
.*※※…※}※**   
. **++ ※))
. {※}※※ /
. ※*… /mQQQm
.**/| |Q ⌒ ⌒ Q  Bye!
.  = | QQ ∩ ∩ QQ   
.       m\ ▽ /m~= ○
.       ○ ~~~\\//
.=================================
.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
.=================================

2012年1月3日火曜日

*What is the forune teller?

【占星術というカルト】

●「占いを信ずる」……「はい」(27・0%)!

++++++++++++++++++++

雑誌「MOM」にこんな調査結果が載っていた。

「占いは好きですか」……「はい」と答えた人(79・0%)

「占いを信じますか」……「はい」と答えた人(27・0%)
          ……「いいときだけ、信じる」と答えた人(57・1%)
           (以上の両者を合計すると、84・1%!)

「どんな占いが好きですか」……星座占い(51・8%)
             ……手相(17・9%)
             ……タロット・カード(11・8%)
              (以下、血液型、生年月日、姓名判断、四柱推命……とつづく)

++++++++++++++++++++

●雑誌「MOM」

 雑誌「MOM」は、雑誌名からして、女性向けのもの。
ここに出てきた数字は、女性、とくに育児まっさかりの母親を対象にしたものと考えられる。
が、それにしてもというか、私はここに出てきた、「27%」「星座占い」という数字と言葉に驚いた。
約3人に1人の女性(母親)が、占いを信じていることになる。
しかも「星座占い」という、訳の分からないものを信じている人が多いという。

●占星術

 占星術は、立派な宗教である。
とくに占星術とイスラム教の間には、密接な関係がある。
占星術イコール、イスラム教、イスラム教イコール、占星術と考えてよい。
それについては、以前、いろいろな原稿を書いてきた。
さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術

+++++++++++++++++

今、静かに、かつ密かに、
占星術なるものが、流行している。

街中の片隅で、あるいは、
どこか陰湿なビルの一室で、
あやしげな儀式がが、まこと、
しやかに、行われている。

占星術で占ってもらっているのは、
大半が、若い女性だが、男性もいる。
もちろんそれなりの年配者もいる。

+++++++++++++++++

 占星術としてよく知られているのが、ギリシャで発達した、「黄道十二宮(ホロスコープ)占星術」である。
今、日本でいうところの占星術は、この流れをくんだものと考えてよい。
しかし占星術は、何も、それだけではない。
星が見えるところ、すべての世界に、それがある。
興味深いのは、イスラムの世界にも、それがあるということ。

 で、占星術では、「万物は、神によって創造された。
ならば、その万物の構成要素から、神の意思を推し量ることができるはず」というのが、その基本になっている。
わかりやすく言えば、太陽も、星も、そして人間も、すべて神が創造したものである。
だからそれら万物は、一体となって、統一性と連続性をもって運行している、と。

 そこで天体の星の位置や動きを知ることで、神の意思を知る。
ついで、それらと一体として連動している、人間の運命を知る、と。

 しかし常識で考えても、いろいろ矛盾がある。

 たとえば黄道十二宮占星術では、その人の生年月日を基準にするが、母体から離れ出て誕生した日を生年月日というのも、よくよく考えてみれば、おかしなこと。
原理的には、男の精子が、母親の子宮に着床したときをもって、生年月日と言うべきではないのか。
例がないわけではない。

 中国では、年齢をいうとき、(数え年)で数える。
つまり生まれたとき、すでに1歳とするのは、生まれる前の1年間を、母親の母体内で過ごしていると考えるからである。
イスラムの世界でも、その人の星位は、受胎時の星位によって決まると考えられている。

 ならば私やあなたの誕生年月日は、母体から切り離されたときではなく、ここにも書いたように、受胎したそのときをもって、決まると考えるのが正しい。
少なくとも、占星術では、出産日ではなく、受胎日を基準にして、その人個人の運勢を占うべきである。

 年齢だけではない。占星術といっても、ここに書いた出生によって、その人の運命を判断する、「出生占星術」、太陽、月、星などの動きから、世界や国の動きを判断する、「全体占星術」、いつどのような形で行動を始めるかを占う、「開始行動占星術」、そのつど天体の動きを参考に、質問者の質問に答える、「質問占星術」などがある。

 が、何といっても多いのが、ここに書いた、個人の運勢や運命を占う、「運命占星術」。

 しかし仮に、万物が神の創造物であるにしても、それは人間という単位。
あるいは生物という単位で、ものを考えるべきではないのか。
たとえば公園の広場に住む、アリを考えてみればよい。
もしそこにすむアリたちに、何かの異変が起きるとしたら、公園の工事や、清掃作業によるもの。しかしこのばあいでも、一匹、一匹のアリがどうこうなるというわけではない。公園に住むアリ全体が、その影響を受ける……。

 ……という話を書くことすら、バカげている。

 星の位置といっても、宇宙という3次元の空間にある星々を、地球という一点から、二次元、つまり天空という平面で見ているにすぎない。
星々までの距離は、計算に入れていない。

 つまり星の位置といっても、実に自己中心的な視点で、それを見て言っているにすぎない。
サソリ座だの、何のと、真顔で、口にすること自体、バカげている。
宇宙船で、100光年も先へ行けば、星座の位置、形、すべてが変わる。
1000光年も先に行けば、もっと、変わる。
星位という概念すら、消えてなくなる。

もうひとつつけ加えるなら、占星術は、つねに数学と結びついて発達してきた。
占星術イコール、数学と考えてよい。

 その「数学」が何であるかもわからないような、そこらのオバチャンが、口八丁、手八丁で、占星術をするから、話がおかしくなる。

 こうした占いは、人々の心のスキマをついて、これからもなくなることはないだろう。しかしこれだけは言える。

 「生きることとは考えること」という人にとっては、占いを認めることは、その生きることを放棄することに等しい。占いに頼るということは、考えることを、自ら放棄するようなもの。それでもよいと言うのなら、それはそれでかまわない。
そのあとの判断は、それぞれの人の勝手。私の知ったことではない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星術 占い 黄道十二宮占星術 ホロスコープ占星術 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 カルト 狂信)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

もう1作、見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●占星術(2)

 超自然的な絶対性。それが占いの基盤になっている。
占星術についても、例外ではない。
占星術も、もとはといえば、万物の創造主たる神の存在を、大前提にしている。
つまり占星術の世界では、この大宇宙も、そして地球上に住む、ありとあらゆる生物も、すべてが一体として、統一化され、かつ連動しているという考えを、基本とする。

 大宇宙は、そのまま私たちが住む小宇宙と、照応関係にあるとみる。

 これは何も占星術にかぎらないことだが、占星術も含めて、あらゆる占いには、宗教性がある。
事実、イスラム教の世界では、イスラム教は常に、占星術とともに、歩んできた。
とくに占星術については、占星術イコール、イスラム教と考えてよい。

 イスラム教の寺院の天井が、ドーム状になっているのも、そうした教えに基づく。
つまり、そのドームの形そのものが、大宇宙と連動する小宇宙を表現している。

 反対に、仮に、占いから、その宗教性を消してしまえば、占いは、占いとしての意味をなくす。
たとえばだれかがあなたの生年月日を聞いたあと、何やら意味のわからない計算盤を見つめながら、こう言ったとする。

 「あなたの寿命は、あと5年です。それを避けるためには、毎晩、床の北東の位置に、ローソクを立てて眠りなさい」と言ったとする。

 信ずるか、信じないかは、あなたの勝手。
……というより、それはあなたの宗教性による。
意識的であるにせよ、あるいは、ないにせよ、もしあなたが、不可思議なものにたいして、それを超えた(何か)を、感ずれば、あなたには、その宗教性があるということになる。
笑って無視すれば、あなたには、その宗教性がないということになる。

 その宗教性は、ふとしたきっかけで、信仰心に変身する。
信仰心といっても、おおざっぱに言えば、2種類ある。
ひとつは、教えを重要視するもの。
もうひとつは、超自然的なパワーを盲信するもの。
前者を、哲学主義というなら、後者は、神秘主義ということになる。

 もちろん、その中間もある。
色の濃さも、それぞれの宗教によって、ちがう。
宗派によっても、ちがう。
しかしたいていのばあい、宗教は、信者を問答無用式に黙らせるために、絶対的な存在を、信仰の中心に置く。
「イワシの頭も信心から」とは言うが、イワシの頭では、信者を黙らせることはできない。

 神や仏がよい。
あるいは太陽がよい、月がよい。さらには、星がよい、と。

 よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教が生まれる。
そしてその宗教も、ビジネスの世界と同じように、需要と供給のバランス関係によって、発展したり、衰退したりする。

 たとえば、私が子どものころには、占星術なるものは、日本には、存在しなかった。
どこかには、あったのかもしれないが、少なくとも、私たちの目の届くところには、なかった。
ただ歴史的には、天空の異変を見ながら、その国の吉凶を占うということは、日本でも、中国でもあったようだ。

 中国における古代天文学は、そうした視点から発達した。

 しかしそれが個人レベルの占星術、つまり運勢占星術として、日本で定着し始めたのは、私の記憶によれば、1970年代以後のことではなかったか。
こと「星」について言えば、日本人は、元来、無頓着な民族と言える。
星座、それにつづく天文学については、それについて研究したという史料は、ほとんどといってよいほど、残っていない。
(これは多分に、私の認識不足によるものかもしれないが……。)

 占星術も、その後、需要と供給のバランスの中で、発展した。
(発達したのではなく、発展した。誤解のないように。)
もっと端的に言えば、心にスキマのある人たちが、より、もっともらしい(占い)に飛びついた。
占星術は、そういう意味で、日本人の需要に、うまく答えたということになる。

 それ以前には、手相、姓名判断、八卦(はっけ)などが、占いとして、日本人の心のスキマを埋めていた。
私の実家では、毎年正月に、近くの神社から配られる、運勢判断を見ながら、その年の計画を立てる慣わしになっていた。

一方、占星術は、こうした旧来型の占いとちがい、どこか数学的であるという点と、「星」そのものがもつロマンチックな雰囲気が、若者の心をとらえた。
そして今に見る、占星術、全盛期を迎えるにいたった。

 書店でもコンビニでも、その種の本がズラリと並ぶ。
占星術師なる人物が、テレビに顔を出さない日は、ない。

 しかしこうした現象が、子どもにとって望ましい現象かどうかということになると、それは疑わしい。
占いそのものがもつ非論理性もさることながら、ここにも書いたように、占いは、神秘主義と結びつきやすく、それがそのまま宗教性へとつながっていく可能性が高い。
あの忌まわしいO真理教による、地下鉄サリン事件以来、カルトと呼ばれる狂信的宗教団体は、表向きは、なりを潜めている。
が、しかし今の今も、社会の水面下で、その勢力を拡大していることを忘れてはならない。

 こうした子どものもつ宗教性が、いつなんどき、そうしたカルトによって利用されるか、わかったものではない。
忘れてならないのは、占いは、立派な、信仰である。
しかもその信仰は、神秘主義そのものである。

 何の批判もなく、何の制約もなく、占星術なるものが、大手を振ってこの日本を闊歩(かっぽ)している。
それは子どもたちの未来にとっては、たいへん危険なことと考えてよい。

 ペルシャの散文家、ニザーミイー・アルーズィーは、こう書いている。

 「占星術師は、魂も性格も清く、人に好かれる人物でなければならない。
また外見上、いくらかの精神錯乱、狂気、預言めいたことを言うのが、この術の必須条件である」と。
つまり「異常な霊感こそが重要」(学研「イスラム教の本」)と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 占星術 子供の世界 占い 神秘主義 神秘主義的傾向 はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 イスラム教と占星術 狂気性)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力をなくした人々

 宗教性と理性は、常に対立関係にある。
とくに注意したいのが、宗教がもつ神秘性。
この神秘性に毒されると、理性そのものが破壊される。

このあたりで、もう一度、しっかりと結論を出しておきたい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●宗教とは何か(カルトについて考える)

【宗教VSカルト論】BYはやし浩司

●インチキ予言

 「2011年の5月21日に、世界はを終末を迎える」。
そんな予言をした宗教団体があった。
が、5月21日には、何も起こらなかった。

そこでその宗教団体の「長」は、計算ミスとし、
今度は10月21日に、終末を迎えると言い出した。
が、その10月21日にも、世界は終末を迎えることはなかった。
終末を迎えたのは、皮肉なことに、リビアのカダフィ大佐だった。
 その宗教団体は、「カダフィ教」を信奉する宗教団体だったのか。
ロイター・NEWSは、つぎのように伝える。

『今月21日を「世界の終末の日」と予言してメディアの注目を集めた米国のキリスト教徒ハロルド・キャンピング氏(90)が、「審判の日」を前に沈黙を守っている。

 ラジオ局「ファミリー・ステーション」を主宰するキャンピング氏は今年、5月21日を「最後の審判の日」と予言して一躍話題の人となった。
その後、当日に何も起こらなかったのは計算ミスだと釈明し、新たに10月21日を世界の終末の日と予言し直した』(以上、ロイター)と。

●終末論

 キリスト系のカルト教団体は、よく「終末」という言葉を口にする。
英語で「apocalypticism(終末論)」と書くことからもわかるように、それが「ーism(主義)」になることもある。

つまり教えの「柱」。
「世界はやがて終末を迎える」という大前提で、教義を組み立てる。

 が、カルトがカルトと呼ばれる所以(ゆえん)は、ここにある。
不安と希望、バチと利益(りやく)、終末と救済を、いつもペアにし、信者を獲得し、誘導する。

 とくに終末論は、ユダヤ教のお家芸。
ユダヤ人は、紀元前1000年の昔から、そのつど歴史の中で迫害されてきた。
そのつどユダヤ教では、終末論を唱えた。
つまりそういう暗い歴史の中で、「終末論」は、「ーism」として、独立した。

●思い込み

 現在、人間はいろいろな問題をかかえている。
国際経済は、ガタガタ。
アジアに目をやれば、タイの大洪水。
この日本も、原発問題で右往左往。
 が、それら十把ひとからげにして、「終末」は、ない。
いわんやそれを預言し、日時まで特定する。

人にはそれぞれ(思い込み)というのはある。
が、それにも程度というものがある。
その程度を組織的に越えたとき、それを私たちは「カルト」と呼ぶ。
つまり「狂信」。

 アメリカだけの話ではない。
この種のインチキ預言は、世界中のいたるところで発生している。
もちろんこの日本でもある。

4~5年前だったか、「北朝鮮が攻めてくる」と預言した仏教系の宗教団体があった。
13世紀に起きた蒙古襲来になぞらえ、それを預言した。
各新聞の1面を借り切って、それを預言した。
が、その日には何も起こらなかった。

●エアーポケット

 不安や心配が重なると、心に穴が開く。
スキができる。
スキができると、合理的な判断力が低下する。
そのとき、人は、とんでもないことを信ずるようになる。
ふつうの状態なら、一笑に付すようなことでも、信ずるようになる。
私はこれを「心のエアーポケット」と呼んでいる。

 が、この心のエアーポケットは、だれにでもある。
私にもあるし、あなたにもある。

たとえば「家庭内宗教戦争」。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●家庭内宗教戦争(2004年3月の原稿より)

 こういう時代なのかもしれない。
今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は多い。
夫婦の間で、そして親子の間で。

 たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。
いや、本当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしまう。
そして気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。

 ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。

 「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。

 明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。
そして夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。

 家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。
価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、どうでもよい部分については、それなりにうまくいく。
しかし基本的な部分では、わかりあえなくなる。

 その妻は、夫にこう言った。
 「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。
それがかろうじて、こうして何とか、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおかげよ。
それがわからないのオ!」と。

 そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。
彼らが言うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。

 が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そんなの見たくもない!」と。

 こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむける。

だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろんのこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。
「接するだけでも、バチが当たる」と教えているところもある。

●ある親子のケース

 富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。
あと少しで、2000年というときだった。

 U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。
その一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。

 全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。
もともとは、さらに大きな母体団体から分離した団体だと聞いている。
わかりやすく言えば、その母体団体の中の、過激派と呼ばれる信者たちだけが、別のSS教をつくって独立した。
それがSS教ということになる。

 教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。
それが約1時間。それが終わると、集会、勉強会。そして布教活動。

 相談してきた男性は、こう言った。

 「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せなくなりました。
週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。
 それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、勧誘を始めたことです。
 何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。

 部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の勝手ではないか」と思うかもしれない。
しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想像を絶するものである。

 「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。
今は、どんなことを言っても、受けつけません。
親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。

●カルトの下地

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、カルト教団は生まれ、そして成長する。

 だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味はない。
原因のほとんどは、その信者自身にある。
もっと言えば、そういう教団に身を寄せねばならない、何かの事情が、その人自身に、あったとみる。

 冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。

 どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。
仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えているよう。
その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそうになってしまう。

 何のための人生?
 なぜ生きているのか?
 どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにある?
 どこに求めればよいのか?
 何もできないむなしさ。

力なさ。
そして無力感。

 しかし不安。世相は混乱するばかり。
社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。
何のために、どう生きたらよいのか。
心配ごともつきない。
自分のことだけならともかくも、子どもはどうなるのか?

 国際情勢は?
 環境問題は?

 そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。
いくら「私は私だ」と叫んでも、その私はどこにいるのか?
 生きる目的は何か?
 それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
 どこにどう救いを求めたらよいのか?

 ……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。
その穴のあいたところに、ちょうどカギ穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。
 それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。
彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとたん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。

 信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。
とたん、孤独感も消える。すばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にする。

 しかし……。
 それは錯覚。
幻想。
幻覚。
亡霊。

 一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。
思想を注入してもらうかわりに、自らの思考力をなくす。
だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。

 少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。
あるいは教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。
さらに足の裏を診断してもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお金を教団に寄付した信者もいた。

 常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。

 が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。
そういう信者でも、会って話をしてみると、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人である。
「どこかおかしのか?」と思ってみるが、どこもちがわない。

 だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠陥のない人は、いない。

●どうすればよいか?

 妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係は、すでに破壊されたとみてよい。
夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になったと考えてよい。
親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。
親はともかくも、子どものほうは、もう親を親とも思っていない。

 しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚を禁止している。
またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養を第一に考えている。
 そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始めた」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。

 こうなったら、もう方法は、三つしかない。

(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。

 私は、第3番目の方法をすすめている。
富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言った。

 「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明してみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どうだ!』と。

 つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。
会社の経営者としては、すでに適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすかの、どちらかを覚悟しなさい。
夫婦でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。

 そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひたすら無視。また無視です。

 この問題だけは、あせってもダメ。
無理をしても、ダメ。
それこそ5年、10年単位の時間が必要です。
頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。

 あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。
今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。

●常識の力を大切に!

 今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。
信者数もふえている。
つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。

 では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。
どう自分たちを守ればよいのか。

 私は、常識論をあげる。
常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。

 むずかしいことではない。
おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、あなたの心を守る。

 家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。
「おかしいものは、おかしいと思おうではないか。
それはとても大切なことだ」と。

 そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。
これも方法は、簡単。ごくふつうの人として、ふつうの生活をすればよい。
ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩をする。
もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。
(おかしなもの)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。

 あとは、自ら考えるクセを大切にする。
習慣といってもよい。
何を見ても、ふと考えるクセをつける。
そういうクセが、あなたの心を守る。

 さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ!
 みなさんといっしょに、戦うぞ!
 世の正義のため、平和のため、平等のために!

 ……と少し力んだところで、このつづきは、またの機会に!

(はやし浩司 カルト カルト信仰)
(040328)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●信者がいるから宗教団体は生まれる

 先の原稿を書いてからだけでも、もう7年になる。
実はこの問題については、私が30歳ぐらいのときから書き始めているので、30年以上になる。

 が、今でもこのタイプのインチキ教団は、跡を絶たない。
モグラ叩きのモグラのように、叩いても叩いても、顔を出す。
それもそのはず。

 宗教団体があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教団体が生まれる。
たとえばあの終戦直後。
今で言う「新興宗教」が、それこそ雨後の竹の子ように生まれた。
中には「信心すれば金持ちになれる」と説き、急成長した宗教団体もある。
たぶんにカルト的だったが、その日の食べ物に困る人たちにとっては、そんな判断力はない。
「金持ちになれるなら……」と、多くの人が、その宗教に飛びついていった。

●スピリチュアル?

 ……という話は、たびたび書いてきた。
では、どうすればよいかについても、たびたび書いてきた。
ただ言えることは、こうしたカルト教団の「芽」は、児童期のかなり早い段階でできるということ。

 原稿をさがしてみたら、2007年の12月に書いた原稿が見つかった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 霊感商法が、またまた増殖しているという(中日新聞・2007・12・20)。

 いわく、「悪質な霊感商法が、再び増えている背景には、(前世)(生まれ変わり)などの言葉がメディアをにぎわせ、(ヒーリング)(スピリチュアル)といったブームがあるようだ」(同紙)と。

わかるか?

アホな番組を一方で、無分別に垂れ流すから、それを真に受けた純朴な人たちが、だまされる。

全国霊感商法対策弁護士連絡会で活動している、WH弁護士は、つぎのように語っている。

 「有名人がスピリチュアルについて語るなど、ブームにより警戒心が薄れ、霊感商法への敷居が低くなった。被害にあいやすくなっている」(同紙)と。

 たとえば……、
「死んだお父さんが、助けを待っている」
「(あなたは)昔、祖父が殺したヘビの生まれかわりだ」(同紙)などといって、祈祷料を取られたり、物品を買わされたりする、と。

 「今月4日(=12月4日)に行われた電話相談で、寄せられた電話はわずか4時間ほどの間に、59件、被害金額では計1億3300万円にのぼった。2000万円もの被害を訴えた人もいたという」(同紙)ともある。

中には、「スピリチュアルな子育て法」などという、これまた「?」な育児本まである。書店へ行くと、この種の本が、ズラリと並んでいる。

 「前世」だの、「来世」だの、バカなことを口にするのは、もうやめよう。
釈迦ですら、そんなことは一言も言っていない。
ウソだと思うなら、『法句経』を、ハシからハシまで読んでみることだ。
そんなアホな思想が混在するようになったのは、釈迦滅後、数百年もしてからのこと。ヒンズー教の輪廻転生論がそこに入り込んだ。

いわんや、占星術?
 ばか!
 アホ!
 インチキ!

 あのね、占星術は、立派なカルト。
そういうものを、天下の公器をつかって、全国に垂れ流す。そのおかしさに、まず、私たちが気づかねばならない。
私がたまたま見たテレビ番組の中では、どこかのオバチャンが、こう言っていた。

「あなたの背中には、ヘビがとりついている。毎朝、20回、シャワーで洗いなさい」と。

もう、うんざり!
 反論するのも、いや!
 ばか臭い!

が、問題は、子どもたち。

 10年ほど前だが、私が調査したところでも、約半数の子どもたち(小学生、3~6年生)が、占い、まじないを信じていた。
今は、もっと多いのでは……? そしてそれが日本の子どもたちの理科離れの一因になっているとも考えられる。

 子どもたちに与える影響を、少しは考えろ。
あるいは自分の頭で、少しは考えて、番組を作れ!
それとも君たちは、どこかのカルト教団と結託しているのか?

 年末にかけて、この種の番組が、ますますふえている。
思考力をなくしたテレビ局。思考力をなくしたプロデューサー。そして視聴者たち。
日本人は、ますますバカになっていく。私には、そんな気がしてならないのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもの指導では

 学校教育の場では、宗教論、政治論はタブーになっている。
その理由はよくわかる。
宗教論にせよ、政治論にせよ、それらは両刃の剣。
宗教を否定しても、それ自体が宗教論になる。
政治論にしても、一方を否定すれば、その反射的効果として、他方の支持につながる。
私も、いろいろな失敗をした。

 それについては、このあとに原稿を添付しておく。
日付は不明だが、2001年ごろ書いた原稿ではないかと思う。
 が、家庭においては、もしあなたが私の意見に賛同してくれるなら、子どもの前では、きっぱりと否定したらよい。
そういう毅然とした態度、姿勢が、子どもの中で、合理的な判断力を育てる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【宗教論】byはやし浩司(2001年ごろの原稿より)

●宗教について

●霊の存在

 霊は存在するか、それともしないか。

 この議論は、議論すること自体、無意味。「存在する」と主張する人は、「見た」とか、「感じた」とか言う。
これに対して、「存在しない」と主張する人は、「存在しないこと自体」を証明しなければならない。
数学の問題でも、「解く」のは簡単だ。
しかしその問題が「解けないことを証明する」のは、至難のワザである。

 ただ若い人たちの中には、霊の存在を信じている人は多い。
非公式の調査でも、約七〇~八〇%の人が、霊の存在を信じているという(テレビ報道など)。
「信ずる」といっても、度合いがあるから、一概には論ずることはできない。
で、それはそれとして、子どもの世界でも、占いやまじないにこっている子ども(小中学生)はいくらでもいる。
またこの出版不況の中でも、そういった類(たぐい)の本だけは不況知らず。
たとえば携帯電話の運勢占いには、毎日一〇〇万件ものアクセスがあるという(二〇〇一年秋)。

 私は「霊は存在しない」と思っているが、冒頭に書いたように、それを証明することはできない。
だから「存在しない」とは断言できない。しかしこういうことは言える。

 私は生きている間は、「存在しない」という前提で生きる。「存在する」ということになると、ものの考え方を一八〇度変えなければならない。
これは少しおかしなたとえかもしれないが、宝くじのようなものだ。
宝くじを買っても、「当たる」という前提で、買い物をする人はいない。
「当たるかもしれない」と思っても、「当たらない」という前提で生活をする。
もちろん当たれば、もうけもの。そのときはそのときで考えればよい。

 同じように、私は一応霊は存在しないという前提で、生きる。
見たことも、感じたこともないのだから、これはしかたない。
で、死んでみて、そこに霊の世界があったとしたら、それこそもうけもの。
それから霊の存在を信じても遅くはない。
何と言っても、霊の世界は無限(?)

 時間的にも、空間的にも、無限(?)
 そういう霊の世界からみれば、現世(今の世界)は、とるに足りない小さなもの(?)
 
 私たちは今、とりあえずこの世界で生きている。
だからこの世界を、まず大切にしたい。
神様や仏様にしても、本当にいるかいないかはわからないが、「いない」という前提で生きる。ただ言えることは、野に咲く花や、木々の間を飛ぶ鳥たちのように、懸命に生きるということ。
人間として懸命に生きる。
そういう生き方をまちがっていると言うのなら、それを言う神様や仏様のほうこそ、まちがっている。

 ……というのは少し言いすぎだが、仮に私に霊力があっても、そういう力には頼らない。頼りたくない。
私は私。どこまでいっても、私は私。

 今、世界的に「心霊ブーム」だという。それでこの文を書いてみた。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(1)

 小学一年生のときのことだった。
私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもちゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。
母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。
そこで私は、仏壇の前で手をあわせて祈った。仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなかった。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。
年始の初詣は欠かしたことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。
が、それが一転するできごとがあった。ある英語塾で講師をしていたときのこと。
高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。
私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。

 そのとき以来、私は神や仏に願い事をするのをやめた。
「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人がいる。
私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。
いや、何かの願い事をしようと思っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

 「奇跡」という言葉がある。
しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間に起こることなどありえない。
「願いごと」にしてもそうだ。
「クジが当たりますように」とか、「商売が繁盛しますように」とか。
そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

 一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナーには、一日一〇〇万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。
どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても一日一〇〇万件とは!

 あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。
今からたった二五年前には、「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。
奇跡といえば、よっぽどこちらのほうが奇跡だ。その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……?

 人間の理性というのは、文明が発達すればするほど、退化するものなのか。
話はそれたが、こんな子ども(小五男児)がいた。
窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。
「先生、ぼくは超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

宗教について(2)

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがある。
 たとえば親鸞の『回向論』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、あの回向論である。
これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令によってしているにすぎない。
だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれてはいても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿氏)となる。

 しかしこれでは意味がわからない。
こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわからなくなる。
宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。
要するに親鸞が言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。
悪人が念仏を唱えるから、そこに信仰の意味がある。
つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。
しかしそれでもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。
「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のことではないか。
頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。
つまりそういう子どもこそ、ほめられるべきだ」と。
もう少し別のたとえで言えば、こうなる。
「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そういうのは教育とは言わない。
問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

宗教について(3)

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。
その教団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。
いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。
他宗教を信じている者ほど、身体障害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。
こんな文章を、身体に障害のある人が読んだら、どう思うだろうか。
あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろうか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになった。
「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。
こういうものの考え方は、明らかにまちがっている。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼らが言うところの慈悲ではないのか。

 私だっていつも、批判されている。
子どもたちにさえ、批判されている。
中には「バカヤロー」と悪態をついて教室を出ていく子どももいる。
しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。
神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。
いわんや神や仏をや。批判されたくらいで、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。
悪魔だ。だいたいにおいて、地獄とは何か?

 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということが地獄なのか。
しかしそれは地獄でも何でもない。
教育者の目を通して見ると、そんなことまでわかる。

 そこで私は、ときどきこう思う。
キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、と。
ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理解できる。
さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。
たとえば「先生、先生……」と、すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。
「何とかいい成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。
いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。
自分で努力することをやめてしまう。
そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

 人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら努力することをやめてしまう。
医学も政治学もそこでストップしてしまう。
それはまずい。
しかしそう考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。
朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤い自動車だった。
私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(4)

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。
こんな失敗をしたことがある。
一人の子ども(小三男児)がやってきて、こう言った。
「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。
そこで私はこう言った。
 「バチなんてものは、ないのだよ。
それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜んだはずだ」と。

 翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。
「貴様はうちの孫に、何てことを教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。
その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者だった。

 また別の日。
一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。「
先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。
私は「真理」のことだと思ってしまった。
そこで「真理というのは、そういうものかもしれませんね。
実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。
その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。
が、どうも会話がかみ合わない。そこで確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。
一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。
夏の暑い日で、それが汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。
そこで私が「これは何?」とそのひもに手をかけると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。
叫んで、「汚れるから、さわらないで!」と、私を押し倒した。
その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者だった。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

宗教について(5)

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。
そういう人たちを、とやかく言うことは許されない。
よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。
宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
だから宗教を否定しても意味がない。
それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。
その数は、全国の美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。
それだけの宗教団体があるということは、それだけの信者がいるということ。
そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰している。
その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。
「先生、神様って、いるの?」と。
私はそういうとき「さあね、ぼくにはわからない。
おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。
あるいは「あの世はあるの?」と聞いてくる。
そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。
霊魂や幽霊についても、そうだ。
ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、少し抵抗があるが、要するに、手相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。
信じていないというより、もとから考えの中に入っていない。

 私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。
「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」ということで、その日にした。
いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということも、あとから母に言われて、はじめて知った。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独

 孤独であることは、まさに地獄。
無間地獄。だれにも心を許さない。
だれからも心を許されない。
だれにも心を開かない。だれからも心を開かれない。
だれも愛さない。
だれからも愛されない。
……あなたは、そんな孤独を知っているか?

 もし今、あなたが孤独なら、ほんの少しだけ、自分の心に、耳を傾けてみよう。
あなたは何をしたいか。
どうしてもらいたいか。それがわかれば、あなたはその無間地獄から、抜け出ることができる。

 人を許そうとか、人に心を開こうとか、人を愛しようとか、そんなふうに気負うことはない。
あなたの中のあなた自身を信ずればよい。
あなたはあなただし、すでにあなたの中には、数一〇万年を生きてきた、常識が備わっている。その常識を知り、その常識に従えばよい。

 ほかの人にやさしくすれば、心地よい響きがする。
ほかの人に親切にすれば、心地よい響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分の心に誠実に、どこまでも誠実に生きる。
ウソをつかない。
飾らない。虚勢をはらない。
あるがままを外に出してみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通り過ぎるのを感ずるはずだ。

 ほかの人に意地悪をすれば、いやな響きがする。
ほかの人を裏切ったりすれば、いやな響きがする。
すでにあなたはそれを知っている。
もしそれがわからなければ、自分に誠実に、どこまでも誠実に生きてみる。
人を助けてみる。人にものを与えてみる。
聞かれたら正直に言ってみる。
あなたはきっと、そのとき、心の中をすがすがしい風が通りすぎるのを感ずるはずだ。

 生きている以上、私たちは、この孤独から逃れることはできない。
が、もし、あなたが進んで心を開き、ほかの人を許せば、あなたのやさしい心が、あなたの周囲の人を温かく、心豊かにする。
一方、あなたが心を閉ざし、かたくなになればなるほど、あなたの「孤独」が、周囲の人を冷たくし、邪悪にする。
だから思い切って、心を解き放ってみよう。むずかしいことではない。
静かに自分の心に耳を傾け、あなたがしたいと思うことをすればよい。
言いたいと思うことを言えばよい。
ただただひたすら、あなたの中にある常識に従って……。それであなたは今の孤独から、逃れることができる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●常識をみがく

 おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
たったこれだけのことで、あなたはあなたの常識をみがくことができる。
大切なことは、「おかしい」と思うことを、自分の心の中で決してねじ曲げないこと。押しつぶさないこと。

 手始めに、空を見てみよう。
あたりの木々を見てみよう。
行きかう人々を見てみよう。そして今何をしたいかを、静かに、あなたの心に問いかけてみよう。
つっぱることはない。
いじけることはない。
すねたり、ひがんだりすることはない。
すなおに自分の心に耳を傾け、あとはその心に従えばよい。

 私も少し前、ワイフと口論して、家を飛び出したことがある。
そのときは、「今夜は家には戻らない」と、そう思った。
しかし電車に飛び乗り、遠くまできたとき、ふと、自分の心に問いかけてみた。
「お前は、ひとりで寝たいのか?
 ホテルの一室で、ひとりで寝たいのか?」と。
すると本当の私がこう答えた。
「ノー。ぼくは、家に帰って、いつものふとんで、いつものようにワイフと寝たい」と。

 そこで家に帰った。
帰って、ワイフに、「いっしょに寝たい」と言った。それは勇気のいることだった。
自分のプライド(?)をねじまげることでもあった。
しかし私がそうして心を開いたとき、ワイフも心を開いた。
と、同時にワイフとのわだかまりは、氷解した。

 仲よくしたかったら、「仲よくしたい」と言えばよい。
さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
一緒にいたかったら、「一緒にいたい」と言えばよい。
あなたの心に、がまんすることはない。
ごまかすことはない。勇気を出して、自分の心を開く。
あなたが心を開かないで、どうして相手があなたに心を開くことができるのか。

 本当に勇気のある人というのは、自分の心に正直に生きる人をいう。
みなは、それができないから、苦しんだり、悩んだりする。
本当に勇気のある人というのは、負けを認め、欠点を認め、自分が弱いことを認める人をいう。
みなは、それができないから、無理をしたり、虚勢をはったりする。

おかしいものは、おかしいと思う。
おかしいものは、おかしいと言う。
一見、何でもないことのように見えるかもしれないが、そういうすなおな気持ちが、孤独という無間地獄から抜け出る、最初の一歩となる。
(以上、2001年ごろに書いた原稿)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年10月23日の朝に

 ロイターNEWSを読んで、改めて「宗教とは何か」について考えた。
 言うまでもなく宗教とは、教えに沿ってするもの。
儀式ではない。
教え。
中身。
儀式をしたからといって、宗教を信じていることにはならない。
儀式がまちがっているというのではない。
ただ儀式には、えてして、盲目性がともなう。
その盲目性が、こわい。
理性の目を曇らす。

 が、最近の私は、さらにちがった考え方をするようになった。
カルトに身を寄せる人は、それぞれ、それなりの理由があって、そうする。
しかしそれは同時に、自分の時間、つまり命を無駄にする行為である、と。
そういうふうに考えるようになった。

 そうでなくても、真理への道は遠い。
寄り道をしているヒマはない。
おかしな思想を、(思想と言えるようなモノではないが……)、注入されれば、その時点で回り道をすることになる。

 若いときはそれでもよいかもしれない。
いろいろな経験のひとつとして、回り道をする。
しかし60歳を過ぎると、そうはいかない。
命そのものが、秒読み段階に入る。
私のばあいも、平均余命まで、あと15年になった。
「15年」というと、長い年月に感ずるかもしれない。
しかしそれもあっという間に過ぎる。
それが60歳を過ぎると、実感として、よくわかるようになる。

 現に今、こうして過去に書いた原稿をさがしてみた。
それをここに添付した。
日付を調べてみると、2001年ごろに書いた原稿ということがわかる。
つまり、もうそれから10年の年月がたっている。
「もう10年!」と驚くと同時に、「この先の10年も、同じようにあっという間に過ぎていくにちがいない」と思う。

 だから回り道をしているヒマはない。
……という意味で、カルトには気をつけたほうがよい。
私たちは私たちで、自らの足で立って生きていく。
不完全でもよい。
失敗つづきでもよい。
懸命に生きていく。
そこに私たちが生きている意味がある。

 要するにこれから先も、わけのわからないことを口にするカルト教団がつぎつぎと現れてくるはず。
そういうものには、じゅうぶん、警戒したらよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 カルト 予言 預言 信仰とは はやし浩司 宗教論 宗教 はやし浩司 占い まじない)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2011年01月03日朝

 今朝は、占いからはじまり、宗教について考えてみた。
この文章の中に出てくる、「富山市U市の男性」というのは、「新潟県X市の男性」である。
よく覚えている。
私の家まで、2度も来てくれた。
またそのあと、毎年、新潟産の米を届けてくれた。

 もう10年近くも前のことである。
今、その男性を思い浮かべながら、「元気だろうか?」と思った。
遠い昔のような気もするが、ごく最近のできごとのような気もする。

 大切なことは、思考力。
自分で考えるという思考力。
最後に、思考力について書いた原稿を掲載する。
こうしたカルトと闘うためには、思考力しかない。


Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●思考力とは何か

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。 

「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、
「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル(「パンセ」)、
さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。
それほど楽なことではない。
それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。
いろいろな条件を組み合わせながら解くのだが、それで解ければよし。
しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。
子どもたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

 もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救われる。
大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間のレッテルを張られてしまう。
だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。
が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じような苦痛がついて回る。

 それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそうでない。
そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。
一度そうなると、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性

……10年1律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。
とくに人生論や価値観など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。

●退化性

……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。
それはスポーツ選手が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。

●先鋭化

……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。
ものの考え方が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。
もちろんこのほか、年齢的な問題もある。
私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。
集中力が衰えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。
そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止する人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。
個人差というより、それまでにどのような教育を受けたかで決まる。
概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構造になっていない。
それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると考えられる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 思考力 パンセ パスカル カルトと闘う 宗教と神秘主義 はやし浩司 宗教論 霊について スピリチュアル インチキ)2012/01/03記


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司

*Kan Naoto, the ex-Prime Minister of Japan, we say thanky you very much!

【菅直人前首相、吉田昌郎所長、ありがとう!】

●励まし

 昨日(01月01日)、何通かのメールが届いた。
うち1通は、男性からのもの。
もう1通は、女性からのもの。

そのまま紹介させてもらう。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【KO氏より、はやし浩司へ】

貴兄のブログで菅前首相、吉田前工場長を絶賛されているので驚き、嬉しく思いました。
特に菅前首相は史上最悪の首相と様々な分野で評価されていますので。

私は東工大機械工学卒で菅さんの後輩、吉田さんの先輩に当たります。
菅さんも自分の行為は歴史が評価するというようなことを言っていますが、まさにそういうことになるのだと思います。
私は早期退職、セミリタイア状況で、技術アドバイザーとして週に2日程度活動しております。
また高校OB会の地元の会長をやって(やらされて)おります。
原発関係ではあの清水前社長や天野IAEA事務局長が、高校先輩になります。

宇宙飛行士の古川さんは後輩ですが、彼のことだけは嬉しいことでした。
環境・エネルギー関係そしてハワイについてのブログをUPしていますので、お時間のある時に見ていただけたら幸甚です。

【GTさんから、はやし浩司へ】

はやしさん、こんばんは。
GTです。
日本はお正月ですね。
韓国は、旧正月なので、今日から普通の生活が始まっています。
はやしさんも韓国に住まれていらっしゃったんですね。
当時だったら、反日感情も大変だったのではないでしょうか?
いろんな経験をされていて、すばらしいです。
お返事ありがとうございました。

温かい無視ってそういう事だったんですね。
実際信じて待つって大変なことですよね。
義母なんかは未だにこれができなくて、息子(私のだんな)は責任感がないようです。
下の子が何かをやろうとしていると、すかさず「こうするんだよ~」と口を出すので、下の子も「ハルモニ(おばあちゃん)いや!」って、言います。
自力でやりたがっているので。
端から見ているとよく見えるけれど、実際私はどうなのか客観的に見てみる必要がありますね。
基本的に待つようにしていますが、時間がかかってつい教えようとすると、怒り出してしまって、そうなると、「あ、待っているべきだったのに」と気づくことがあります。
ほんとに子供が親を教育してくれていますね。

それから、はやしさんの「そのうちおさまってくる」という言葉を信じて、今年は下の子を保育園に送らないと腹をくくって、関わっていこうと覚悟を決めました。
聞いてくださってありがとうございました。

にっちもさっちもいかない状態が楽になりました。
ありがとうございました。

GTより

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●励まし

 私は毎日、こういう読者の方たちに支えられている。
またそれがあるからこそ、こうしてものを書くことができる。

KOさん、GTさん、ありがとうございました!
今年も、がんばります。
よろしくお願いします。

●菅直人前首相

 たいへん恥ずべきことだが、私は「菅直人前首相」を、「管直人前首相」を書いていた。
正しくは、「管」ではなく、「菅」。
KO氏は、以下の私の書いた原稿に、先に転載したコメントを寄せてくれた。
もう一度、そのとき私が書いた原稿を、掲載する。
日付は、2011年09月12日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本を救った、菅直人前首相と吉田昌郎所長

+++++++++++++++++

あの日、あのとき、菅直人前首相は、
日本を救った。
それはまぎれもない事実である。

読売新聞は、以下のように内幕を伝える。

+++++++++++以下、読売新聞、2011-9-12+++++++++++

 枝野幸男前官房長官は7日、読売新聞のインタビューで、東京電力福島第一原子力発電所事故後の3月15日未明、東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。

 東電関係者は、これまで全面撤退の申し出を否定している。菅前首相や海江田万里前経済産業相は「東電が作業員の撤退を申し出てきた」と説明してきたが、枝野氏は今回、撤退問題に関する具体的な経過を初めて公にした。

 枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そういう言い方だった」と指摘した。

 枝野氏によると、清水氏はまず、海江田氏に撤退を申し出たが拒否され、枝野氏に電話したという。枝野氏らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関に見解を求めたところ、吉田氏は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見方を示した。

 菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と幹部らに迫った。

 枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人が首相で良かった」と評価した。

+++++++++++以上、読売新聞、2011-9-12+++++++++++

●菅直人前首相の大英断

 東京工業大学出身の菅直人前首相であったからこそできた、大英断である。
もしあのとき東京電力が、福島第一原発を放棄していたら、菅直人前首相が言うように、「東京ですら、人っ子1人、いない状態になっていた」。

 もう一度、読売新聞の記事を整理してみる。

(1)東電の清水正孝社長(当時)と電話で話した際、作業員を同原発から全面撤退させたい、との意向を伝えられたと語った。

(2)が、東電側は、これまで全面撤退の申し出を否定している。

(3)しかし政府側は、東電側が全面撤退を申し出てきたと、全員が認識した。
いわく、『枝野氏は、清水氏の発言について「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そういう言い方だった」と指摘した』と。

 つまり東電側は、そういう言い方をしてきた。
その後の東電側の動きを重ね合わせてみると、東電側は、事故直後早々と、「全面撤退」を考えていたことがわかる。
「政府側の安全基準を満たしていたから、(私たちには責任はない)」(報道)などという発言もそのひとつ。

(4)原発の直接責任者である吉田氏は、「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見方を示した。

 これはあとになってわかることだが、吉田氏は、東電側のあいまいな指示を無視、海水を注入しつづけ、原子炉の爆発を防いだ。
もしあの段階で、吉田氏の英断がなければ、福島第一原発は大惨事を招いていたはず。

(5)ここからがとくに重要。
読売新聞は、つぎのように伝えている。

『菅氏はこの後、清水氏を首相官邸に呼んで問いただしたが、清水氏は今後の対応について明言しなかったという。このため、菅氏は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と幹部らに迫った』と。

●福島第一原発・吉田昌郎所長

 「The Wall Street Journal」(2011年5月27日)、日本語版は、以下のように伝える。

++++++++++++以下、The Wall Street Journal++++++++++++

本社の停止命令に背いて注水を続けていた福島第1原発の吉田昌郎所長、彼の判断をどう評価すべきか、社会人としていろいろ考えた人が多かったのではないだろうか。
同所長は、会社の命に背いて注水を続けたことに加え、その報告を怠って政府や国会を混乱させたことの責任を問われ処分されるという話だ。
昨日、テレビに大写しになった吉田所長は、うつろな顔をしていた。
会社の判断を無視したのは確かだ。
しかし、会社の注水停止判断は、技術者なら誰でも認めるような明らかな間違いだったのだ。
確かに、もう少し早く報告できただろうという気はする。

++++++++++++以上、The Wall Street Journal++++++++++++

 この吉田氏の行為に対して、菅直人前首相は、『視察後、首相が名指しで謝意を表明したのは東京から同行した武藤栄副社長ではなく、吉田所長だったそうだ』(日本経済新聞・4月8日)とある。

 なお東京電力側が海水の注入をためらったのは、一度「海水」を注入すると、原子炉そのものが使い物にならなくなるからである。
東京電力側は、あの場に及んでも、そんなことを心配していた(?)。

●もしあのとき……

 もしあのとき菅直人前首相ならびに、吉田昌郎所長の英断がなければ、日本は完全に沈没していた。

 事実を、よく見てほしい。

 100万キロワット(福島第一原発の原子炉1機分のみ)の加圧水型軽水炉(PWR)が事故を起こしたとする。
そのとき内蔵する核分裂精製物の量は、11577京ベクレル。
うち20%が放出されたとして、2290京ベクレル。
とほうもない量である。

 電気出力100万キロワットの原発を、数年運転すると、1万3600京ベクレルの放射性物質が生まれる。
「その量は、広島型原爆の数千発分に相当する」(横尾試算「原発事故」宝島社)。

 数千発分だぞ!

ちなみに、チェルノブイリでは、1880京ベクレルの放射性物質が放出されたという(京大グループ調査。)

 が、もしあのとき福島第一原発が放棄されていたら、原子炉の爆発は避けられなかった。
それが4機+2機。
つぎつぎと爆発。

 それで計算すると、11万京ベクレルx4=44万京ベクレル(以上、瀬尾試算、「原発事故」宝島社)
チェルノブイリの比ではない。
東京都も含めて、東北地方には、人はだれも住めなくなっていた!

 その深刻さを鑑みるにつけ、菅直人前首相、吉田昌郎所長を、日本を救った大英雄と言わずして何という。
ともに東京工業大学出身であったからこそ、こうした判断ができた。
だから、枝野氏は菅氏の対応について「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人が首相で良かった」と評価した。

●後書き

 やがてあの事故が、詳細に検証される日がやってくるだろう。
そしてそれがわかったとき、みな、こう言うにちがいない。

 「菅直人さん、ありがとう! 吉田昌郎さん、ありがとう!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 日本の英雄 日本を救った2人の英断。)

以上、2011年09月12日の原稿より

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●なぜ、菅直人前首相ではだめだったのか?

 菅直人前総理大臣が、首相の座を降り、ちょうど4か月になる。
(菅直人氏は、2011年09月02日に、内閣総理大臣を辞職。)
が、この4か月、日本は、よくなったのか。
何か、変わったのか。

 現在は、野田佳彦首相が、総理大臣職を引き継いでいる。
が、私はいまだに野田佳彦首相が、どんな人物なのか、よくわからない。
顔が見えてこない。
見えてこないから、批評のしようがない。

ただここで言えることは、野田佳彦首相が、菅直人氏をやめさせてまで、首相になる価値のある人物だったかどうかというになると、私はそうは思わない。

談合政治?
八方美人?
無色透明で、言葉はうまいが、中身がない?
当たり障りのない、無難政治家?
長期政権をねらっている?
こうした(?)マークを、野田佳彦首相には、10個ほど並べたい。

 これはあくまでも仮定の話だが、あの3・11震災時に、もし野田首相が事故を取り仕切っていたとしたら、この日本はどうなっていたか。
それを想像するだけでも、ぞっとする。
東京電力と保安院の言い分に押され、福島第一原発は、放棄。
そのあと発電所はつぎつぎと爆発、メルトダウン。

 最近になって、事故直後、菅直人前首相が、あたりかまわず怒鳴り散らしていたという報道が伝わっている。
「感情をむき出しにするような人物は、首相として失格」と。

 バカヤロー!

 あの時点において、感情をむき出しにしない首相はいない。
むき出しになってくれたからこそ、東京電力側は、菅直人前首相の言うことを聞いた。
菅直人前首相の命令に従った。

 こう書くと、福島県の人たちには申し訳ない。
が、今、福島県以外の人たちが、(私たち静岡県人も含めてだが)、事故以前とほとんど変わりない生活ができているのは、菅直人前首相、ならびに吉田昌郎所長のおかげである。
そのことを思えば、ささいなミスや失敗など、腸から出るガスのようなもの。

 菅直人前首相は、「いつか、私の正しさは歴史が証明してくれる」というようなことを言っている。
それはその通りで、その歴史は、すでに今、始まりつつある。
読売新聞(11-09-12)の記事は、それを証明する、貴重な証拠のひとつということになる。
私たちはこの事実を、後世の人たちに伝えていかねばならない。

 菅直人前首相、吉田昌郎所長、あなたがたは日本を救った、大英雄である。
大恩人である。
ありがとう!

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 菅直人首相 英雄 大英断 吉田昌郎 英雄 日本を救った恩人 福島第一原発事故 はやし浩司 英雄 菅直人)

●GTさんへ

 GTさんは、子どもの母子分離不安について、相談してきた。
それに対して、私は2つのポイントをあげた。

(1) 温かい無視
(2) 求めてきたときが、与えどき、と。

 その「温かい無視」について、「では、具体的にはどうすればいいのか?」と。
それについて、GTさんには、つぎのような返事を書いた。

【はやし浩司より、GTさんへ】

GT様へ

こんばんは。

こちらは昨日まで寒くてしかたありませんでした。
韓国はもっと寒いかと思います。

「温かい無視」は、子育ての鉄則のひとつです。
要するに、子どもの側に視点を置き、子どもが親の鋭い
視線を感じないようにするということです。

どうしても今の時期は、過関心、過干渉に
なりやすいので、注意します。

子どものやりたいようにやらせながら、しかし愛情だけは
しっかりともつということです。

ラッセルは、「限度」という言葉を使いました。
「限度をわきまえろ」と。

子どもに任すところは任す。
親の思い通りにならないことについては、じっとがまんし、耐える。
その耐える部分が。愛情ということになります。

(子どもを愛するということは、つらいことですよ。)

韓国という地で、がんばっておられるGT様を尊敬します。
何かとたいへんだろうと思います。

私も1967年、交換学生として、韓国に行きました。
テグ、ソウルなどを転々としました。
ヤンセイ大学、テグ大学などなど。

男のくせに、リファ女子大学(ソウル)にも行きました。
宿舎はなんと、ナムサンにあった、(今でもあるそうですが)、
タワーホテルでした。

当時の韓国は、本当に貧しかったです。
ミョンドンの大通りも、ロープに裸電球をぶらさげただけの明かりしか
ありませんでした。

ただ、焼肉がおいしかったです。

(当時の日本人には、焼肉は高級料理で、とても食べられませんでした。)

いろいろ思い出があります。
では、

はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

 冒頭にあげた、GTさんからのメールは、その返事。

 GTさん、今年もよろしくお願いします。
2011年から2012年をまたいだ、もう1年のつきあいということになりますね。
では、今夜は、これで失礼します。
どうか、お元気で!

はやし浩司

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司


2012年1月2日月曜日

*You make your own dream. John Lennon

【生き様論】「己こそ、己のよるべ」
(はやし浩司 2012-01-01夜記)

++++++++++++++++++++++++

年賀状を1枚、1枚、読む。
読みながら、こう思う。
「若いころは気づかなかったが、みな、それぞれの思いをもち、
年賀状を書いているのだなあ」と。

思いといっても、いろいろある。
平たく言えば、「こだわり」。

ことさら幸福であることを演出してみせる人、
虚勢を張る人、
有意義な人生を送っていることを自慢する人、
活躍ぶりを書いてくる人、などなど。

人はそれぞれ何かの負い目をもって生きている。
そういった負い目が、そのまま年賀状に表れる。
それが悪いというのではない。
人、それぞれ。
かく書く私だって、年賀状の中に、自分の負い目を織り込む。

子どものころからお金(マネー)に苦労した人は、
立派なビルを建てたことを、誇らしげに書いてくる。
家族に恵まれなかった人は、多人数の家族に囲まれた
写真のある年賀状を送ってくる。

その点、生徒がくれる年賀状には、イヤミがない。
ありのままを、そのまま書いてくる。
自分を飾らない。
おとなのような、腹芸を使わない。

では、私は、どうなのか?

これは年賀状をどうとらえるかによっても決まるが、
私は子どものころから、「年賀状というのは、それを
読んでくれる人を楽しませるもの」と考えていた。
だから毎年、趣向をこらし、あれこれと工夫した。

最近は、もっぱら読んでくれる人にとって、役立つことを
書くようにしている。
今年は、漢方で説く、五臓六腑論を図示したものを載せた。

が、このやり方が正しいというわけではない。
「年賀状は、人と人の絆(きずな)を深めるもの」と説く人もいる。
そういう人たちは、たがいに消息を知らせることで、
絆を深めている(?)。

要するに書き方も、人それぞれなら、解釈の仕方も、
人それぞれということ。
ただ最近の私は、年賀状をもらいながら、こう考える。
表面的な文言ではなく、また写真でもなく、「この人は
この年賀状で、みなに、何を伝えたいのか?」と。

そういう視点で見ると、中にはイヤミな年賀状もあるにはある。
こちらが聞きたくもないような話を、あえて年賀状の中に
織り込んでくる。
そういうときは、こう思う。
「ならば、どうして年賀状など、送ってくるのか?」と。

もちろん99・9%の年賀状は、もらってうれしい。
知りあいが元気でやっているのを知るのは、楽しいというより、
それによって、ほっとした安堵感を覚える。
ともすれば狭くなりがちな世界に、空間を与えてくれる。
過去という時間を与えてくれる。

ともかくも、人はそれぞれの負い目を抱きながら、生きている。
年賀状には、それがストレートに表れる。
年賀状を、そういう目で見るのも、また楽しい。

では、また硬い話を……。
平均余命まで、残り、15年を切った。
つまらないことを書き、時間を無駄にするのは、やめた。

+++++++++++++++++++++++++

【己こそ、己のよるべ論】

●ジョン・レノン

ジョン・レノンは、つぎのように言っている。

★You make your own dream. That's the Beatles' story, isn't it? That's Yoko's story . That's what I'm saying now. Produce your own dream. If you want to save Peru, go save Peru. It's quite possible to do anything, but not to put it on the leaders and the parking meters. Don't expect Jimmy Carter or Ronald Reagan or John Lennon or Yoko Ono or Bob Dylan or Jesus Christ to come and do it for you. You have to do it yourself. That's what the great masters and mistresses have been saying ever since time began. They can point the way, leave signposts and little instructions in various books that are now called holy and worshipped for the cover of the book and not for what it says, but the instructions are all there for all to see, have always been and always will be. There's nothing new under the sun. All the roads lead to Rome. And people cannot provide it for you. I can't wake you up. You can wake you up. I can't cure you. You can cure you.
……John Lennon, In Music/John Lennon

君は、自分の夢を作るよね。それはビートルズの物語だよね。それはヨーコの物語だよ。そのことを今、ぼくは言っているよ。君自身の夢を生み出しなよ。ペルーを救いたかったら、ペルーへ行って、救えばいい。何だってできるよ。しかしね、それをどこかのリーダーに任せたり、パーキングメーターに任せちゃ、だめだよ。

ジミー・カーターや、ロナルド・レーガンや、ジョン・レノンや、ヨーコ・オノや、ボブ・ディラン、あるいはイエス・キリストが、君のためにやってきて、君のためにするなんて、期待しちゃ、だめだよ。自分でしなければ、いけないよ。

それは、この世が始まってからというもの、偉大な人たちが、みんな言っていることだよ。彼らはみな、いろいろな本の中で、道を示して、道しるべを立て、少しのやり方を示すことはできるよ。本の表紙を飾るために、神聖なとか、いろいろ書いてはあるけどね。しかしそのやり方というのは、そこにあるんだ。今までもあったし、これからも、ね。

太陽の下には、何も新しいものはないよ。すべての道はローマにつづくよ。だれも、君のためにはしてくれないよ。ぼくだって、君を起こすことはできない。癒(いや)すことはできない。君だけが、それをできるよ。
(ジョン・レノン・「In Music」の中で)

●仏教では

 ついでに言えば、釈迦だって、何もできない。
あなたに道を示すことはできても、あたなを助けることはできない。
いくらあなたが一心不乱に祈ったとしても、だ。
釈迦は、こう言っている。
『己こそ、己のよるべ』(法句経)と。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれ(誰)によるべぞ』(法句経)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●中日新聞に掲載記事より

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれによるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

(「原始」という言葉は、後の仏教学者たちが、(さげすむ目的)で使った。
北伝仏教を、「大乗仏教」と呼ぶのも、そのひとつ。
「自分たちの仏教こそが本物」という理由で、「原始」という言葉を使い、「大乗」という言葉を使った。
「原始」という言葉に、誤った先入観をもってはいけない。)

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。
その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。
子育ての基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。
が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。
大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。
「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。
子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。
自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

法句経については、
何度も書いてきた。
以下の原稿は、2002年7月に書いたもの。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【家庭内宗教戦争】

 福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。
いわく「妻が、新興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。
長い手紙だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。

●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。

●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫してしまう。

●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれていなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。

●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やしている。
布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。

●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけで、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。

●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」と、逆にやり返される。

 今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。
たいていは夫が知らないうちに妻がどこかの教団に入信するというケース。
最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超えると、急に、おおっぴらに信仰するようになる。
そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。

 こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラになった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。
すでにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。
それに気がつかなかったのは、夫だけということになる。

よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自分の勢力を伸ばす。
しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べている。

 『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。

生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダのやり方ではない。
ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。
死の臨終に際しても、こう言っている。

 「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたもって、実践し、盛んにしなさい。
それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。

そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。

 また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。
事実、「あとの書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。

たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。
そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」と主張している。
それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、そのうちのひとつであるということは常識。

中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威・故人)も、「原始仏典を読む」の中で、「原典批判研究を行っている諸学者の間では、異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いている。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。
この一節は、その法句経の一節である。

 私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。

●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っていない。
いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。

●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。

しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。
(だからといって、仏の心に甘えてはいけないが……。)
そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分から離れたからといって、バチなど与えない。

とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしない。
大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだろうか。
バチなど与えるだろうか。
ものごとは常識で考えたらよい。

●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドアを閉ざす。
「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫
婦のあり方をもう一度、反省してみる。
時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目をさまさせる唯一の方法である。

 ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻三二頁)と言っている。
友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、そして全幅の心を開いて迎えあう関係をいう。
夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。

繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。
すでにその前から、危機的状況にあったとみる。

 ただこういうことだけは言える。

 この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。
あるいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。
そういう人でも、つぎの鉄則だけは守ってほしい。

(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。

(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。

(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにしてほしいということ。読んで、決して、損はない。

(02-7-24)

【注】

 法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。
話し言葉のままと言ってもよい。
もともと吟詠する目的で書かれた文章である。
それが法句経の特徴でもあるが、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解できる内容だという(中村元氏)。
しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。

 仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。
寺の僧侶が読む経典にしても、ほとんどの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。
肝心の中国人が聞いてもわからないのだからどうしようもない。

さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいない。
いるわけがない。

(サンスクリット語の当て字によるものというのが、その理由である。
たとえば、サンスクリット語では、「ナム」=「帰依する」、「ミョウホウ」=「不思議な」、「レンゲ」=「因果な物語」を、それぞれ意味する。
それぞれに漢語(中国語)の漢字を当てた。

だから「南無妙法蓮華」は、「不思議な因果な物語」という意味になる。
南無も、妙法も、蓮華も、すべて当て字。)

そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうやうやしく読みあげる。
そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。
日本の仏教のおかしさは、すべてこの一点に集約される。

 それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそれ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。

中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏教は、釈迦の説いた本来の仏教ではない)を唱えていたが、それが世界の常識。
こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本ということになる。

 たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてあるが、来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。
むしろ法句経の中には、釈迦が来世を否定しているようなところさえある。
法句経の中の一節を紹介しよう。

 『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※

 来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。
そういう意味では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。
「チベット密教そのもの」と主張する学者もいる。

 チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりする。
護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。
みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩をたいているところを見たことがあると思う。
あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教の儀式ではない。
釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。

『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。
外のものによって、完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかな心とはならない。
バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻一六九ページ)と。

 仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過去論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教 ダンニパダ ゴータマ・ブッダ はやし浩司 木片を焼いて バラモン はやし浩司 中村元 中村 元 原始仏教 北伝仏教 大乗仏教 はやし浩司 パーリ原本協会)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2003年6月、今から9年ほど前に
こんなことを書いていた。

宗教とは何か。
それについて書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●未来と過去

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。
ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。
しかしこれには、当然、個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。
反対に、40歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。
もちろんどちらがよいとか、悪いとかいうのではない。
ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。
それはほとんど毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。
そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、ない。
が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、私の生きザマが、それにかかわってくる。
私にとって大切なのは、「今」。
10年後、あるいは20年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことでしかない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。
しかし釈迦の経典※をいくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。
イエス・キリストも、天国の話はしたが、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。
日本に入ってきた仏教典のほとんどは、釈迦滅後4、500年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてできた経典である。
とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。
あるいは「あればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。
本当のところはよくわからないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなものを、神や仏が、相手にするわけがない。
少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手にしない。
どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。
大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。
小市民的で、スケールも貧弱。
仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づけないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。
与えられた「今」を、徹底的に生きる。
それしかない。
それに老後は、そこまできている。
いや、老人になるのがこわいのではない。
体力や気力が弱くなることが、こわい。
そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむようになったら、おしまいということ。
あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまいということ。
そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進することこそ、大切だ」と教えている。
しかも「死ぬまで」と。
わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。
そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。
人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。
過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。

 1年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++

【前向きの人生、うしろ向きの人生】

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。
偉そうなことは言えない。
しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。
しかしできるなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。
自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)がいた。
その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だった。
くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を5人ほど雇うほどまでになった。
が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで追い込まれた。
(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから二年後に他界している。)

 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をしていた。
が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。
その人には、私と同年代の娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。
「母は、異常なまでにケチになりました」と。
たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出したという。
「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。
値段も、2000円とか3000円とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。
つぎからつぎへと、大波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。
波があることが悪いのではない。
波がなければないで、退屈してしまう。
船が止まってもいけない。
航海していて一番こわいのは、方向がわからなくなること。
同じところをぐるぐる回ること。
もし人生がその繰り返しだったら、生きている意味はない。
死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。
雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。
唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がいる。
しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。
いくら釣りがうまくなっても、いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだというのか。
そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。
昨年、私はある会で講演をさせてもらったが、その会を主宰している女性が、八〇歳を過ぎた女性だった。
乳幼児の医療費の無料化運動を推し進めている女性だった。
私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚いた。
「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。

「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばらしい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。
しかしそういう航海からは、ドラマは生まれない。
人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。
そしてそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。
人生の大波小波は、できれば少ないほうがよい。
そんなことはだれにもわかっている。
しかしそれ以上に大切なのは、その波を越えて生きる前向きな姿勢だ。
その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向きになる。
そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。
信仰があるから、人は信仰するのではない。
あくまでも信仰を求める人がいるから、信仰がある。
よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなければ、神など生まれなかった。
もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって説明するのだろうか。
これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。
ひょっとしたら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。
しかし嘆くことはない。
そのあと、また別の生物が進化して、この地上を支配することになる。
たとえば昆虫が進化して、昆虫人間になるということも考えられる。
その可能性はきわめて大きい。
となると、その昆虫人間の神は、今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。
隕石の衝突が恐竜の絶滅をもたらしたという。
となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。
そのときの恐竜には神はいなかったのかということになる。
数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数十万年など、マバタキのようなものだ。
お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。
しかし数十万円では、パソコン一台しか買えない。
数億年と数十万年の違いは大きい。
モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年~6000年ほど前のこと。
たったの6000年である。
それ以前の数十万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているのではない。
この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多い。
だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。
そしてその論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。
(だからといって、神や仏を否定しているのではない。念のため。)
仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするものではない。

ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。
キリスト教のことはよくわからないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどうかを決めるのは、私たち自身である。
仏や神の意思ではない。
またそのふんばるからこそ、そこに人間の生きる尊さや価値がある。
ドラマもそこから生まれる。
 
が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。
毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その一人と言ってもよい。
同じようなことは子どもたちの世界でも、よく経験する。
たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。
そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。
いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが……)、さらに困る。
もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。

「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。
そう言ったのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(七五歳くらい)だった。

が、何も私は、そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。
またその女性に向かって、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。
その女性の生きザマは生きザマとして、尊重してあげねばならない。
この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言ってはならない。
まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずすようなもの。
ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。
何らかのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。
どうすれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。
そしてどうすれば、うしろ向きに生きなくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまいと思っている。
そういう人生は敗北だと思っている。
が、いつか私はそういう人生を送ることになるかもしれない。
そうならないという自信はどこにもない。
保証もない。毎日、毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。
私とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うなら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。
歯をくいしばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世界に、吹き飛ばされてしまう。
しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。
生きる価値もそこから生まれる。
もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。

……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく気になる。
電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察する。
先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考えているのだろう」と。
そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまでわかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題から逃げようとしているのではないか。
その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと考えている人も多い。
中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。
クシャクシャになったオートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。

人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。
愚かになるだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。
しかしふと油断すると、いつの間か自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。
それは実に甘美な世界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。
何も考えなければ、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。
それは体の健康と同じで、日々に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。
ゴータマ・ブッダは、それを「精進(しょうじん)」という言葉を使って表現した。
精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始める。
そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。
つまりいつも前向きに進んでこそ、その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(以上、2003年06月13日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自分の力で生きる

 生きることは、孤独なこと。
自由に生きようと思えば思うほど、
またひとりで生きようと思えば思うほど、
孤独。

が、孤独を恐れてはいけない。
孤独であるのが、当たり前。

 最後にマザーテレサの言葉をあげる。
あのイエス・キリストも孤独だった、と。
マザーテレサは、そう説いている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●孤独は、無間の地獄

孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。この中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger.

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としてのパンを求める空腹を意味したのではなかった。

彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

(終わりに)

 マザー・テレサのこの言葉には、本当に勇気づけられる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 孤独論 マザーテレサ hunger 渇き イエスキリスト はやし浩司 マザーテレサ キリストも孤独だった イエス・キリスト 孤独論 はやし浩司 マザー・テレサ)

(はやし浩司 2012-01-01夜記)


Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司



2012年1月1日日曜日

●What I think on this celebrated day Jan. 1st 2012

【運命と自由について】(はやし浩司 2012-01-01)

+++++++++++++++++++++++

硬い話をする前に……。

昨夜寝る前に、宝くじの当選番号を調べた。
毎年、10枚だけ、買うようにしている。
その番号、何と、2等と、たったの30番ちがい!
2等は、1億円。

(2等は、37組101799番。
私がもっていたのは、101760~101769番!)

ハズレはハズレ。
が、宝くじというのは、当たって喜ぶ人より、
わずかにハズれ、悔しがる人のほうが、はるかに多い。
だったら、買わないほうがよい。

ワイフは、「だいぶ、近づいたわね」と喜んでいる。
「次回は、当たるわよ」と。
私は「二度と接近遭遇はないだろう」と。

こうして新春の夢は、フワ~ッと消えた。

では、硬い話……。

++++++++++++++++++++

●運命論

 2004年12月24日に、運命論について書いた。
今からちょうど7年前になる。
それをそのまま掲載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●運命論

 ある文学者は、こう言った。
『幸福な家庭は、みな、よく似ている。
しかし不幸な家庭は、みな、ちがう。
一つとて、同じものはない』※と。
どこかの文学者だったが、名前は忘れた。

(※トルストイの「アンナ・カレーニナ」冒頭の言葉。)

 その不幸な家庭。
こんな話がある。

両親は、その女性が3歳のときに、離婚。
原因は、父親の酒乱と借金。
が、そのあとまもなく、父親は、自殺。
その女性が23歳になったとき、実の兄(当時、30歳)も自宅に放火、そして自殺。
言い忘れたが、その女性が叔母のところに引き取られたのが、彼女が、6歳のとき。
しかし叔母の夫(叔父)に、性的虐待を受け、それが理由で、今度は、別の叔母の家に預けられた。
彼女が10歳のときのことだった。

 現在は、浜松市の東にあるT町という町に住んでいる。
この話は、控えめに書いたが、事実である。
今は、無数の心のキズと戦いながらも、その女性は、2人の子どもをもち、幸福な家庭を築いている。

 私は「運命」を否定しない。
その人とは関係のないところで、無数の糸がからんで、その人の人生を決めてしまう。
そういうことは、よくある。
それを「運命」というなら、運命は、ある。

 しかも不幸がつづくときには、不幸は、その人に、つぎつぎと襲いかかってくる。
容赦なく、襲いかかってくる。
いくらそれを払いのけようとしてしても、その人の力には、限界がある。
不安と心配。
悲しみと苦しみ。
それらがこん然一体となって、その人に襲いかかってくる。

 しかしいくら運命があったとしても、最後の最後で、ふんばるのは、その人。
そのふんばるところに、人が生きる美しさがある。
生きる意味がある。

 今、絶望の渕に立たされて、その運命と戦っている人は、ゴマン(5万)といる。
5万どころか、50万、500万といる。
世界という規模でみれば、反対に「私は幸福だ」と自信をもって言える人のほうが、はるかに少ない。

 だから大切なことは、決して、「私だけ」と、思わないこと。
「私だけが不幸だ」と、思わないこと。
みなが、みな、そうだ。
そしてつぎに大切なことは、不幸は不幸として、それを笑い飛ばしながら、生きていくということ。
運命に負けてはいけない。逃げてもいけない。

 悪いことばかりではない。

 運命に向かってふんばればふんばるほど、その人は、より真理に近づく。
不幸は、それ自体は、ありがたくないものだが、しかし、その人に、真理への道を教えてくれる。
何が大切で、何が大切でないか。
そしてなぜ、私たちはここにいて、なぜ生きているか。
それを教えてくれる。

 さあ、恐れることはない。

 あなたも勇気を出して、自分の運命と戦ってみよう。
前に向かって一歩、踏み出してみよう。
明るく、さわやかに! クヨクヨしないで、生きてみよう。
(2012年12月31日夜、一部、改変)

 冒頭にあげた女性だが、たびたび私に手紙をくれた。その手紙の中に、こんなことが書いてあった。

 「私の家庭づくりは、ぎこちないものです。しかし私は、幸福というものがどういうものか、よく知っています。私はその幸福を、毎日、かみしめながら生きています」と。
(以上、2004年記)

(はやし浩司 運命論 幸福論 幸福な家庭 不幸な家庭 はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 幸福な家庭は みな よく似ている)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●7年前

 7年前に、今と同じことを考えていたというのは、興味深い(?)。
あるいは私は、この7年間、何も進歩しなかったということか(?)。
基本的な部分では、7年たった現在も、同じ。
同じ運命論をもっている。
ただ誤解しないでほしいのは、運命論といっても、今、流行(はや)りのスピリチュアル風のものではない。
また運命といっても、自分の過去を振り返ってみたとき、そこに残っている足跡をいう。
未来に向かって、あるのではない。
もちろんもろもろの「糸」をていねいに総合すれば、ある程度の未来は予測できる。
しかしあくまでも「予測できる」という範囲のもの。

 仮にある程度、未来が決まっていたとしても、最後の最後ではふんばる。
そのふんばるところに、生きる意味がある。
生きる美しさも、そこから生まれる。 

●死後の世界

 死後の世界については、よく考える。
原稿もたくさん書いてきた。
で、原稿をさがしてみると、ちょうど去年の今ごろ、それについて書いていたことがわかった。
日付は、2010年11月16日になっている。
書いた場所は、昼神温泉にある、ホテル阿智川。
そのまま紹介する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世

 何度も書くが、あの世などというものは、存在しない。
釈迦だって、そんなことは、一言も言っていない(法句経)。
それを言い出したのは、つまり当時それを主張していたのは、バラモン教の連中。
仏教はやがてヒンズー教の中に組み入れられていく。
輪廻転生思想は、まさにヒンズー教のそれ。

 その上さらに、中国、日本へと伝わるうちに、偽経典が積み重ねられた。
盆供養にしても、もとはと言えば、アフガニスタンの「ウラバン」という
祭りに由来する。
それが中国に入り、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」となった。

 日本でもつぎつぎと偽経典が作られた。
私たちが現在、「法事」と呼んでいる行事は、そのほとんどが偽経をもとに作られた。
もちろん寺の経営的な収入をふやすために、である。
『如是我聞(これが私が(釈迦から)聞いたことである)』で始まる経典は、まず疑ってかかったほうがよい。

●宝くじと同じ

 話はそれたが、あの世はない。
あるとも、ないとも断言できないが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみて、あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。

 同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う。
だから私はよく生徒たちに冗談ぽく、こう言う。

 「あの世があるなら、早く行きたいよ。
あの世では働かなくてもいいし、それに食事もしなくていい。
空を自由に舞うことだってできる」と。

●「もうこりごり」

 そんなわけで、人生は1回ぽっきりの、1回勝負。
2度目はない。
この先、どうなるかわからない。
しかし1回で、じゅうぶん。
1回で、たくさん。
「こりごり」とまでは言わないが、それに近い。
「同じ人生を2度生きろ」と言われても、私にはできない。

 たとえば定年退職をした人に、こう聞いてみるとよい。
「あなたはもう一度、会社に入って、出世してみたいと思いますか」と。
ほとんどの人は、「NO!」と答えるはず。
あるいは、「会社人間はもうこりごり」と言うかもしれない。

●別れ

 たださみしいのは、今のワイフと別れること。
息子たちと別れること。
友人たちと別れること。
ひとりぼっちになること。
 
 そのうち足腰も弱り、満足に歩けなくなるかもしれない。
そうなったら、私はどう生きていけばよいのか。
それを支えるだけの気力は、たぶん、私にはない。
だったら今、生きて生きて、生き抜く。
今の私には、それしかない。

 さあ、もうすぐこのパソコンの寿命は切れる。
何度もコントロールキーと「S」キーを押す。
文章を保存する。
いよいよ晩年になったら、私は同じようなことをするだろう。
ていねいに保存を繰り返しながら、やがて「死」を迎える。

 繰り返しになるが、あの世はない。
……と、今は思うが、少なくとも私は「ない」という前提で生きている。
死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
(以上、2010年11月16日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●あの世論

 先の原稿の中で、私は「あの世はない」と、断定的に書いた。
が、最近の私は、ときどきこう考える。
仮にあの世があるとするなら、今住んでいるこの世こそが、あの世ではないか、と。

 つまりどこか別の世界に、本元となる世界がある。
その世界から、私たちは、現在のこの世界に、ときどきやってくる。
ときどきやってきて、極楽や、(天国でもよいが)、地獄を経験する。

 それは別として、ともかくも今は、「ない」という前提で生きる。
もう一度、核心部分を、ここに掲載する。

『……死んでみてからのお楽しみ。
あればもうけもの。
宝くじと同じ。
当たるかもしれない。
しかし当たらない確率のほうが、はるかに高い。
その宝くじが当たるのを前提に、土地を買ったり、家を建てたりする人はいない。

 同じようにあるかないかわからないものをアテにして、今を生きる人はいない。
それにもしあの世があるなら、この世で生きている意味を失う……』

 この考え方は、現在の今も、まったく揺らいでいない。

★Time takes it all, whether you want it to or not. Time takes it all, time bears it away, and in the end there is only darkness. Sometimes we find others in that darkness, and
sometimes we lose them there again. ―Stephen King, "The Green Mile"

時は、すべてを奪う。あなたがそれを望むと、望まないとにかかわらず。時は、すべてを奪い、運び去る。そして最後には、暗闇のみ。ときに私たちはその暗闇の中に、人を見る。そしてときに私たちは、その人すら再び見失う。(S・キング・「グリーンマイル」)

●死の恐怖

 なぜ私たちは、死を恐れるか?
それについては、どこかの国の独裁者を思い浮かべれば、わかる。
ある賢人はこう言った。

『すべてをもつものは、すべてを失うのを恐れる』と。

 仏教でも、一貫して、死の恐怖が大きなテーマになっている。
もう少し掘り下げて言えば、死の恐怖は、どのようにすれば克服できるか。
死の恐怖と対比させながら、生きる意味を教える。
それが仏教ということになる。

 そこで仏教では、やがて「空」の概念にたどり着く。
それについては、私があえてここで説明するまでもない。
が、たいへん興味深いことは、あのサルトルもまた、同じ結論に達している点である。

仏教という観念論。
実存主義という唯物論。
この両者が、同じ結論に達している。
サルトルは、最終的に、「無の概念」という言葉を引き出している。

 それについて書いた原稿がある。
書いた日付は、2009年11月24日になっている。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「無の概念」(サルトル)について

++++++++++++++++++

【自由であること】

+++++++++++++++++

自由であることは、よいことばかりで
はない。

自由であるということは、まさに自ら
に由(よ)って、生きること。

その(生きること)にすべての責任を
負わねばならない。

それは、「刑」というに、ふさわしい。
あのサルトルも、「自由刑」という言葉
を使って、それを説明した。

+++++++++++++++++

 私は私らしく生きる。……結構。
 あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる。……結構。

 しかしその自由には、いつも代償がともなう。
「苦しみ」という代償である。
自由とは、『自らに由(よ)る』という意味。
わかりやすく言えば、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとるという意味。

 毎日が、難解な数学の問題を解きながら、生きるようなもの。

 話はそれるが、そういう意味では、K国の人たちは、気が楽だろうなと思う。
明けても暮れても、「将軍様」「将軍様」と、それだけを考えていればよい。
「自由がないから、さぞかし、つらいだろうな」と心配するのは、日本人だけ。
自由の国に住んでいる、私たち日本人だけ。
(日本人も、本当に自由かと問われれば、そうでないような気もするが……。)

 そういう「苦しみ」を、サルトル(ジャン・ポール・サルトル、ノーベル文学賞受賞者・1905~1980)は、「自由刑」という言葉を使って、説明した。

 そう、それはまさに「刑」というにふさわしい。
人間が人間になったとき、その瞬間から、人間は、その「苦しみ」を背負ったことになる。

 そこで、サルトルは、「自由からの逃走」という言葉まで、考えた。
わかりやすく言えば、自ら自由を放棄して、自由でない世界に身を寄せることをいう。よい例として、何かの狂信的なカルト教団に身を寄せることがある。

 ある日、突然、それまで平凡な暮らしをしていた家庭の主婦が、カルト教団に入信するという例は、少なくない。
そしてその教団の指示に従って、修行をしたり、布教活動に出歩くようになる。

 傍(はた)から見ると、「たいへんな世界だな」と思うが、結構、本人たちは、それでハッピー。
ウソだと思うなら、布教活動をしながら通りをあるく人たちを見ればよい。
みな、それぞれ、結構楽しそうである。

 が、何といっても、「自由」であることの最大の代償と言えば、「死への恐怖」である。
「私」をつきつめていくと、最後の最後のところでは、その「私」が、私でなくなってしまう。

 つまり、「私」は、「死」によって、すべてを奪われてしまう。
いくら「私は私だ」と叫んだところで、死を前にしては、なすすべも、ない。わかりやすく言えば、その時点で、私たちは、死刑を宣告され、死刑を執行される。

 そこで「自由」を考えたら、同時に、「いかにすれば、その死の恐怖から、自らを解放させることができるか」を考えなければならない。
しかしそれこそ、超難解な数学の問題を解くようなもの。

 こうしたたとえは正しくないかもしれないが、それは幼稚園児が、三角関数の微積分の問題を解くようなものではないか。
少なくとも、今の私には、それくらい、むずかしい問題のように思える。

 決して不可能ではないのだろうが、つまりいつか、人間はこの問題に決着をつけるときがくるだろが、それには、まだ、気が遠くなるほどの時間がかかるのではないか。
個人の立場でいうなら、200年や300年、寿命が延びたところで、どうしようもない。

 そこで多くの人たちは、宗教に身を寄せることで、つまりわかりやすく言えば、手っ取り早く(失礼!)、この問題を解決しようとする。
自由であることによる苦しみを考えたら、布教活動のために、朝から夜まで歩きつづけることなど、なんでもない。

 が、だからといって、決して、あきらめてはいけない。
サルトルは、最後には、「無の概念」をもって、この問題を解決しようとした。
しかし「無の概念」とは何か? 私はこの問題を、学生時代から、ずっと考えつづけてきたように思う。
そしてそれが、私の「自由論」の、最大のネックになっていた。

 が、あるとき、そのヒントを手に入れた。

 それについて書いたのが、つぎの原稿(中日新聞投稿済み)です。字数を限られていたため、どこかぶっきらぼうな感じがする原稿ですが、読んでいただければ、うれしいです。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●真の自由を子どもに教えられるとき(2000年ごろ、中日新聞で発表)

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。

「私は自由だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。
が、もしその恐怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。しかしそれは可能なのか……? その方法はあるのか……? 

一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自分を解放することができるかもしれない。
自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

●無条件の愛

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。
息子とこんな会話をした。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカのその地方では、花嫁の居住地で式をあげる習わしになっている。結婚式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けてクリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺さなければならなかった。
苦しかった。つらかった。
しかし次の会話のときは、さすがに私も声が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「……日本人をやめる、ということか……」
息子「そう……」
私「……いいだろ」と。
 
私は息子に妥協したのではない。
息子をあきらめたのでもない。
息子を信じ、愛するがゆえに、一人の人間として息子を許し、受け入れた。

英語には『無条件の愛』という言葉がある。
私が感じたのは、まさにその愛だった。
しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が抜けるほど軽くなったのを知った。

●二男に教えられたこと

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。
生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身のまわりのありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け入れるということ。

「私」があるから、死がこわい。
が、「私」がなければ、死をこわがる理由などない。
一文なしの人は、どろぼうを恐れない。それと同じ理屈だ。

死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。
そしてそれができれば、私は死を克服したことになる。
真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。
ないが、しかし一つの目標にはなる。
息子がそれを、私に教えてくれた。
(以上、2000年ごろ、中日新聞で発表)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 くだらないことだが、この日本には、どうでもよいことについて、ギャーギャーと騒ぐ自由はある。
またそういう自由をもって、「自由」と誤解している。
そういう人は多い。
しかしそれはここでいう「自由」ではない。

 自由とは、(私はこうあるべきだ)という(自己概念)と、(私はこうだ)という(現実自己)を一致させながら、冒頭に書いたように、『私らしく、あるがままの私を、あるがままにさらけ出して、あるがままに生きる』ことをいう。

 だれにも命令されず、だれにも命令を受けず、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとることをいう。
どこまでも研(と)ぎすまされた「私」だけを見つめながら生きることをいう。

 しかしそれがいかにむずかしいことであるかは、今さら、ここに書くまでもない。
(以上、2009年11月24日)

 さて、あの独裁者。
最近、亡くなった。
恐らく死の直前まで、安穏たる日々は、1日とてなかっただろう。
不安で不安でならなかったはず。
だから病身を奮い立たせ、各地を回った。
「軍事指導」というのは、あくまでも口実。
失うことを、何よりも恐れていた。
(2012年01月01日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由論 自由とは サルトル 無条件の愛 無私の愛 無の概念 はやし浩司 自由論 真の自由 サルトル 自由刑 自由からの逃走)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●2012年01月01日の朝に

 年越しは、ワイフと長男の、3人で過ごした。
2011年から2012年。
現在、時刻は午前9時。
先ほどまで、自分の書いた原稿を読んでいた。
起きたのは、午前8時ごろではなかったか。
寝室から出ると、まばゆいばかりの朝の陽光が、障子戸を通して居間に注いでいた。
「初日の出は、今年は拝めない」と聞いていたので、「?」と。

 昨年(2011年)は、相良海岸の民宿に一泊し、初日の出を拝んだ。

●運命と自由

 昨夜、こう書いた。

 『……書き忘れたが、あなたにはあなたを取り巻く、無数の糸がある。
家族の糸、地域の糸、生い立ちの糸、仕事の糸、才能や能力の糸……。
そういった糸が、ときとして、あなたの進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」という』と。

 振り返ってみると、私はいつもその運命に翻弄されてきた。
いくら声高(こわだか)に、「私は自由だ」と叫んでも、そこにはいつも運命があった。
どうしようもない運命。
その糸の中で、もがいた。
苦しんだ。

 だから……こう書くからといって、どうか誤解しないでほしい。
決して兄や母の死を喜んだわけではない。
しかし兄が他界し、母が他界し、つづいてちょうど母の1周忌に、実家を売却したとき、私は生まれてはじめて、「家」から解放された。
生まれてはじめて、心底、ほっとした。

「家」という「糸」がもつ呪縛感には、ものすごいものがあった。
40代のころは、郷里へ入るときにはいつも、経文の一節を唱えなければならなかった。
『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉を知ったのも、そのころだった。

 怨憎会苦について書いた原稿があるはず。
さがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

2008年08月19日に、こんな原稿を
書いた。
知人の家庭騒動を聞き、書いた原稿である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●魔性との闘い(怨憎会苦※)
(To meet with someone whom you feel hatred is a matter of pain.
In often cases it becomes a heavy burden to torture you.)

 仏教には、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。
生老病死の四苦に並んで、八苦のひとつになっている。
「いやな人と会う苦しみ」という意味である。

が、ここでいう「怨憎」とは、「魔性をもった人」とも解釈できる。
会うだけで、相手の魔性が、そのままこちらへ伝わってきてしまう。
自分の理性や知性が、こなごなに破壊されてしまう。
そんな危機感すら、覚える。

 で、こちらは会いたくないと思うのだが、相手のほうからからんでくる。
からんできては、自分勝手なことを、一方的に言う。

そこで「無視」という方法を選ぶが、それにはものすごいエネルギーを消耗する。
相手が身内であれば、なおさらである。
こんな話を聞いた。

 A氏の父親が、2年前に他界した。
数億円の財産(主に土地)を残した。
その財産をめぐって、A氏(長男)と、ほかの3人の姉妹が、争った。
毎月のように、ときに毎週のように、言い争う声が近所中に聞こえたという。

 A氏夫婦が父親のめんどうをみてきたのだが、それについて姉妹たちは、「じゅうぶんな介護をしなかった」「親を施設に入れようとした」などと、言いがかりをつけた。
A氏の父親は、死ぬ直前、かなり認知症が進んでいた。
そういうこともあって、そのつど娘たちに、「この家は、お前にやる」とか、「あの土地は、お前にやる」とか言った。
娘たちは、その言葉を理由に、「この家は、私のもの」とか、「あの土地は、私のもの」と騒いだ。

 A氏は、美術雑誌に評論を書くような知的な人物である。
一方、娘たちは、そのレベルの女性たちではなかった。
あとになってA氏は、こう言う。

 「途中から妹たちの夫まで騒動に加わってきて、『テメエ』『このヤロー』という話になってしまいました。
で、私が、この問題は、私たち兄弟のもので、あなたには遺産相続権はありません。つまり部外者ですと説明するのですが、そういう道理すら、通じませんでした」と。

 娘の夫の1人は、こう言ったという。
「(義父が)、オレの女房(=妹)に、『あの土地をお前(=妹)にやる』と言った話は、オレもちゃんと横で聞いた。オレが証人だ」と。

 A氏は、姉妹たちに会うたびに、神経をすり減らした。
・・・と書くと、「どこにでもあるような話」と思う人もいるかもしれない。
が、当事者であるA氏が受けた心的な苦痛は、言葉では説明しがたい。

 A氏の妻もこう言った。
「(妹の1人から)、嫁(=A氏の妻)が、父親のめんどうをちゃんとみていなかったと言われたときには、怒れるよりも先に、涙が出てきました」と。

 まさに怨憎会苦。
魔性をもった人と関わることの苦しみ。
その苦しみは、経験したものでないとわからない。
「家事が何も手につかなくなってしまいました」とも。

 「妹たちは、金の亡者になった餓鬼、そのものでした。
そばにいるだけで、自分がつくりあげた文化性が、こなごなに破壊されていくように感じました。
気がついてみると、自分もその餓鬼になっていました。
とくに次女夫婦がひどかったです。
ペラペラと一方的に自分の意見をまくしたて、こちらの言い分には、まったく耳を貸そうとさえしませんでした。
次女も、認知症が始まっていたのかもしれません」と。

 A氏の経験は、何も特別なものではない。
今の今も、親の遺産相続問題がこじれて、兄弟姉妹が争っているケースとなると、ゴマンとある。
かりに片づいたとしても、それをきっかけに、兄弟姉妹が絶縁してしまったケースとなると、もっと多い。
さらに最近では、離婚問題がこじれ、財産分与でもめる元夫婦もふえている。
みな、怨憎会苦の苦しみを、味わっている。

恐らく釈迦の時代にはなかったタイプの「怨憎会苦」と考えてよい。
経典の中には、金銭(マネー)にからんだ話が出ているところもあるが、釈迦の時代には、貨幣はなかった。
この日本でも、貨幣が一般世間に流通するようになったのは、江戸時代の中ごろと言われている。
(このあたりについては、私はかつてかなり詳しく、自分で調べた。)

 今では、マネーが、怨憎会苦の原因になることが多い。
つまり人間そのものが、マネーの奴隷になりながら、それにすら気がついていない。

 では、どうするか?

 釈迦は、「精進」という言葉を使った。
日々に精進あるのみ。

つまり常に心の準備を整えておくということ。
そういう場に落とされても、その場に翻弄されないように、自分を強くしておくしかない。
が、それはけっして、むずかしいことではない。

 音楽を聴いたり、映画を楽しんだり、文化、芸術に親しんだり・・・。
もちろん本を読んだり、文を書いたり・・・。
自分の世界を、できるだけ広くしておく。
その努力だけは、怠ってはいけない。

そういう素養が基礎としてしっかりしていれば、こうした騒動に巻きこまれても、
「餓鬼」になることはない。
自分を最後のところで、守ることができる。
(これは私の努力目標でもある。)

(注※、「怨憎会苦」について)

【補記】怨憎会苦について

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。

それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。

たとえば……

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。では、あとの4つは何か。

(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1) 愛別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる、苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。

(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。
(以上、2007年07月03日記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●自由とは何か

 自由とは何か。
一言で表せば、「欲望からの解放」ということになる。

「私」には、無数の「しがらみ」が、まとわりついている。
「私の財産」「私の名誉」「私の家族」「私のお金」「私のモノ」「私の地位」と。
そういったものに縛られている間は、自由など、求むべくもない。

 つまりそうした(しがらみ)をひとつずつ、糸をほぐすようにして、自分から解きほどいていく。
わかりやすく言えば、自分を飾っている衣服を一枚ずつ、脱いでいく。
その結果として、つまり丸裸になったとき、人は、自らを解放させることができる。

 「私」がある間は、魂に、安穏たる日々はやってこない。
仏教では、それを『執着(しょうじゃく)』という言葉を使って、説明する。
その執着を、自ら解き放つ。
わかりやすい例で説明すれば、こうなる。
私の講演などでは、こんなふうに言って、説明する。

 「……こうして私の講演を聞きにきてくださっている方の中には、こんな人もいるでしょう。
家の中に、多額のタンス預金をしている人です。
そういう人は、こういう場にいても、家のことが心配でならないはずです。
『うちの子は、ちゃんと戸締りをして、友だちの家に行っているか』とです。
 
 しかし無一文の人は、そうでない。
家のことは、何も心配しなくていい。

 『私』を簡単に説明すれば、そういうことになります。
へたに『私』があるから、死ぬのが怖いのです。
私の財産、私の名誉、私の家族、私のお金、私のモノ、私の地位と。
が、自分から『私』を取ってしまえば、もうこわいものはない。

 そのときがきても、『ああ、おいでなさったか』と、平穏な気持ちで、それを迎えることができる。
つまり死を克服することができる。
サルトルという哲学者は、それこそが、『真の自由』と説いたわけです。
『無の概念』という言葉も、そこから生まれました……」と。

●真の自由

 大切なことは、そこに苦しみや悲しみがあるなら、(孤独でもよいが)、それから逃げないこと。
真正面から、立ち向かうこと。
それができる人のことを、『真の勇者』という。
(剣を振り回したり、暴力を振るう人は、ただの馬鹿という。)

 運命というのは、(あくまでも私の運命論によるものだが)、それから逃げようとすると、キバをむいて、襲いかかってくる。
が、真正面から立ち向かうと、運命のほうからシッポを巻いて、逃げていく。
臆病で卑怯。
それが運命。

 そして身が燃え尽きるまで、悩み、悲しむ。
とことん、身を燃やし尽くす。
あなたが「もう、だめだ」と思ったその瞬間、あなたは自らを解放することができる。
『真の自由』を手にすることができる。

●2012年1月1日

 さて、今日も1日、始まった。
 
 寒い朝だ。
衣服を着替えるとき、何度も身震いした。
これを(現実)という。
(現実)は(現実)。
私たちはその現実世界の中で生きている。
その現実世界を無視することはできない。

 ……庭にたまった落ち葉を、掃除しなければならない。
帰り道、どこかで朝食をとらねばならない。
家に帰れば、年賀状が待っている。
生徒たちからのものについては、みな、今日中に返事を書く。

 そうそう、楽しみもある。

 1月X日、西浦温泉のA旅館に1泊することになっている。
その旅館の最上階のペントハウスに予約できた。
1日1組だけの、露天風呂付きペントハウスである。
ずいぶんとぜいたくな話に聞こえるかもしれない。

が、これはワイフへの感謝の念をこめた、私からのプレゼント。
この10年近く、モノは買っていない。
ワイフも、いらないと言う。
だからこういう形で、ワイフに感謝している。

 ……つまり私たちはこうした(現実世界)の中で生きている。
またその中でこそ、無数のドラマが生まれる。
無数の人たちが織りなす、無数のドラマ。
そのドラマの中にこそ、生きる意味があり、価値があり、美しさがある。
(現実世界)の中で、たくましく、力強く生きていく。

 その現実感だけは、どんな人生観をもっても、けっして見失ってはいけない。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 2012-01-01 現実世界 運命論 現実社会 運命と自由 解放と運命 はやし浩司 真の勇者 真の自由 魂の解放)

(以上、2012年01月01日、整理、記)

Hiroshi Hayashi+++++++Jan. 2012++++++はやし浩司・林浩司